現代版徒然草素描

勝手気ままに感じたままを綴ってみましょう。

プロローグ

2009-01-06 08:35:37 | インポート

 秋の夜長、燈火の下に、一冊の古典を持ち出して目を通してみた。吉田兼好の「徒然草」である。その冒頭の部分を自己流に現代語訳して見ると次のようになりはしないと思われる。

「つれづれなるままに」日常生活において、或いは生活しながら,気の向くままに、「ひぐらし」時間も気にせず、そんなに気張らず、リラックスして「硯に向かいて」電子の硯、パソコンに向かい、「心にうつり行く」自分の目に映ったさまざまな事を、自分の感性で捕らえ事を、「よしなしごとを」たいした理由があろうが、なかろうが、「そこはかとなく」価値や体系化せずに、時には、なんら科学的な事にも囚われず、「書きつくれば」自分なりの表現方法で書いて見ようと思いたった。「あやしうこそ」興味や関心はそそられるけれど、「ものくるほしけれ」矛盾を内包しながら、ファジーだけれど人生そのもの様な気がしないでもない。という事になりはしないか。

たぶん、随筆とか、エッセイとはこのようなニュアンスをいうのだろう。実に自分勝手で自分に合ったように訳している。吉田兼好が現代に生きていたら今日の現象をどのように表現するのだろうかと言う思いもある【知恵袋の「横の比較、縦の比較」に繋がっている。】。自分ではそんなにかけ離れてはいないと思っている。

「日常的思考の可能性」と言うライフ・ワークは実はかしこまった学問ではない。どちらかと言えば「生活者の学問」と言う発想である。そこには時にテクニカルターム(専門用語)もなければ、アカデミック臭さもないかもしれない。だが、確実に生活に根付いた実践的で実用的な学びがある。生活しながら考えると言う試みであり、その現場から学びのヒントと解決策を見出していこうとする試みである。

いわば、「普段着の学問があっても良いではないかという発想である。「生活者が」「生活する中で」「生活者の言葉を持って」「よりよい生活をうるための学問」ということである。そして、今までそのようにしてきたと考えている(その取っ掛かりは二十歳の頃だと思われる。)。継続する為のさまざまな障害や、技術的な諸問題はそのたびの工夫で乗り切ってきたと解釈している。先人たちの知恵や、「玉を拾う屑籠の発想と手法」などである。

一つの区切りとして表現してみたいと思うようになった。

尚、この文章は至る所にリンクしていることになるだろうし、少々専門的なことはどうしてもテクニカルタームを使用することになるが、そのときは、私なりの注釈をつけることにする。