「僕を…覚えていないのか……?」
ひどくショックを受けた様子で、少年は呟いた。
「同じ学年だった水瀬だ。本当に覚えていないのか? 僕は飛び級をして上の学年に行ったが、同級だったこともあるだろう。寮だっていっしょだったのに」
「そういえば東には飛び級制度があるんでしたわね」
友人が、西にもその制度があれば早く卒業して魔術師になることができるのにと悔しがっていた。
「あなたは飛び級できませんでしたの?」
「俺はっ! 俺は…適当に手を抜いていただけだ」
銀朱の揶揄に、瑠璃はその頬を紅潮させたが、すぐに平静を装うように静かな声で答えた。
「別に、早く卒業しても意味がないからな」
「手を抜いて……」
水瀬と名乗った少年は呆然と呟く。
「そうか…君は手を抜いていたのか」
「なんだかショックみたいですわよ。頑張って飛び級した方に対して、あなた失礼なんじゃありませんの」
「おまえのほうがよほど失礼だ」
冷ややかに吐き捨てると、
「すまない。俺は、その…ちょっとした理由で記憶が混乱していて」
そういうのは『ちょっとした』とは言えませんわよという銀朱の内心での突っ込みを他所に少年に手を差し出した。
「色々と忘れてしまっているんだ。君を傷つけたのだとしたら申し訳ないことをした」
水瀬は差し出された手と瑠璃の顔を交互に見つめて、そしてその手を取って立ち上がった。
背が低いわけではないが、ひどく痩せているせいで頼りない感じがする。銀縁の眼鏡の似合う理知的な、だが神経質そうな顔立ちだ。
「僕のほうこそ、取り乱して申し訳なかった」
乱れた髪を手櫛で整えながら、窺うように瑠璃を見つめる。
「記憶がおかしくなっているなんて、一体どうしたんだ? なにか事故にでもあったのか?」
「……信じてしまうんですの」
思わず呟いた銀朱だが、ギリリと瑠璃に睨みつけられて、指先で唇を押さえて目を逸らした。
信じたふりをしているだけかもしれないが、ここは丸く収まりそうなのだからよしとしておくべきだろう。よけいな波風を立てることもない。
「ところで君たち」
笑いを含んだ声に、銀朱は声の主を振り返った。
「旧交をあたためるのは結構だが、いつまでもそんなところで話していないで、せめてもうすこし居心地のいいところに移動しないかね。私は喉が渇いたよ」
これまで瑠璃に集中していて他の者は目に入っていなかったのだろう、水瀬が口をぽかんと開けた。
「ねぇ君、この街の住人なら店にも詳しいだろう。どこかいい店を知らないかな? できれば紅茶の美味しい静かな店がいいのだが」
「ふ、ふざけるなっ!」
最初に反応したのは少年を取り囲んでいたうちの、リーダー格らしい少年だった。静かだと思ったら、どうやらこれまで蘇芳に見惚れていたらしい。
「行きたいなら勝手に行けばいいだろう。こいつにはまだ用があるんだ」
遅れて我に返った仲間たちも、口々にそうだと同意の声をあげる。
「おまえらが知り合いだろうとなんだろうと、そんなこと関係ない。さっさと行けよ」
「久しぶりに会った同級生と積もる話があるんだ」
挑発的に瑠璃が嗤った。
「悪いがおまえらが遠慮してくれ。どうせくだらない用なんだろう?」
少年たちが殺気立つ。
どうしてこう喧嘩腰なのかしらと銀朱は呆れて溜め息を洩らす。男の子たちって本当に馬鹿ですわ。
「なんだよ、おまえ。こいつの元同級生って、それじゃ魔術師さまなのかよ」
馬鹿にしたようにひとりが瑠璃の胸倉を掴む。
背が高くがっちりとした少年だった。格闘技でもやっているのかもしれない。耳が変形している。
瑠璃の顔が不快げに歪んだ。
「放せ!」
「悔しかったら魔術でどうにかすればいいだろう。できるものならな」
下品な声をあげて嗤う。
「どうせそんな力ないんだろう、チビ」
小柄な瑠璃はどう見ても強そうには見えないから、こういった力至上主義らしい人間に侮られるのは当然の成り行きと思えた。封印を解けばこんな少年は相手にもならないだろうが、彼もそこまで我を忘れはしないだろう。
「罵り言葉にも、独創性の欠片もないな」
胸元を掴み持ち上げられて、もうすこしで地面から足が離れてしまいそうな状況で、苦しげな息を吐きながらも瑠璃は嘲笑ってみせる。
「おまえらのような人間には慣れている。自分が馬鹿だということすら理解できない低脳が」
まぁたとえ慣れていても馬鹿の相手は不愉快に違いはありませんわよねと思いながら、銀朱は静かに少年の背後へと回り込んだ。
「失礼」
にこりと微笑んで、ブーツに包まれた足で男の足を払う。
「背後からなんて卑怯でしたかしら。でも、わたくしはか弱い女の子なんですもの。すこしぐらいのハンデは当然ですわよね?」
素早く退いたその場所に、バランスを崩した少年が倒れ込んできた。
胸を掴まれたままの瑠璃もいっしょに倒れ、喉の詰まったような悲鳴をあげる。
「あら。鈍いんですのね、早くお逃げになったら?」
「おまえ…っ!」
悔しげに顔を歪めはしたが、予想していたよりはいくらか機敏に瑠璃は身を起こし、安全な場所へと逃れる。
おもしろそうに見守っている蘇芳の背後に――的確な判断ではあるだろうが、情けなくはないのだろうかと銀朱は内心で呆れた。
自分が逃れるときに、ぼんやりと立ち尽くしていた水瀬を引っ張ったのは、まぁ褒めてやってもいい。
どうやらふたりとも怪我はないらしい。
意外な甲斐甲斐しさで水瀬の制服の汚れを払ってやっているのを視界の端に確認しながら、
「わたくし、基本的に平和主義ですの」
仰向けに倒れて呻く少年の鳩尾にヒールを突き刺すように踏みつけて、薄茶色の髪を背後に払いながら銀朱は嘯いた。
「ですが怖がりですので、襲いかかられたら加減を忘れて攻撃してしまうかもしれませんわ。せめて殺してしまわないように注意はしますけれど」
格闘技の成績は抜群だった。舞踏も。
身体を動かす爽快感に、つい限度を忘れてのめり込んでしまうせいだ。
舞踏で集中を高める魔術もあるくらいだから、ある程度の身体能力は魔術師には必須とされている。
だがそんなこととは関係なく、銀朱はそういったことが好きだった。自分自身の腕を脚を、思うがままに動かすことができるのは快感だ。集中が高まりすぎたときに訪れる、奇妙に静かで荘厳な瞬間も。
踊るように、銀朱は足踏みをする。
小さな爪先をトン、と地面に打ちつけて、しなやかな腕を広げ招く。
「さぁどなたからになさるんですの?」
高揚する。
その気持ちのままに浮かべた笑みは、きっとひどく獰猛なものとなっていることだろう。
まだ候補とはいえ一応は魔術師なのに、こういったことのほうが得意なのもどうかと思いはするけれど。
これならば、そこいらの相手には負ける気がしない。
「いらっしゃいな」
ふわりと微笑んで、銀朱は睦言のように甘く囁いた。