ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

アガサ・クリスティーの生涯

2014-05-09 22:24:02 | ひと

“ミステリーの女王” アガサ・クリスティーことアガサ・メアリー・クラリッサ・ミラーは、1890年9月15日にデヴォン州のトーキーで生まれた。 

母親のクララは現在の北アイルランドにあるベルファスト生まれの英国人。 クララは一人娘で、兄弟が4人いた。 クララの父親のボーマー大尉(アガサの祖父)は乗馬中の事故で1863年に死亡し、クララの母親のメアリー・アン(アガサの祖母)は女手ひとつで子供たちを育てなければならなくなった。 経済的困窮のため、クララは富裕なアメリカ人と結婚していた叔母が住むウエスト・サセックス州に送られた。

叔母のマーガレットと暮らすようになったクララは、叔母の夫と前妻との間の息子である株式仲買人のフレデリック・ミラーと出会った。 フレデリックは現地のアメリカ人上流社会の一員で、スイスで教育を受けていた。 容姿端麗でフレンドリーなフレデリックとクララは恋に落ち、1878年4月に結婚した。 長女の“マッジ”ことマーガレット(1879-1950)はトーキーで生まれたが、長男の“モンティー”ことルイス(1880-1929)はフレデリックの商用のため滞在していたニューヨークで誕生した。 まもなくクララは、トーキーに邸宅“アッシュフィールド”を購入。 次女で末っ子のアガサ(1890-1976)が生まれたのはこの家だった。

 

子供時代: 1890-1910年

本人の述懐によると、アガサの子供時代はとても幸せなものだった。 彼女の幼い頃から、周囲には精神的に強く独立心旺盛な女性がいた。 アガサは自宅と、“継祖母”マーガレットが住むロンドン西部の家と、冬季を家族で過ごした南欧を行ったり来たりして育った。 家庭は名目上はキリスト教徒だったが、種々の秘教も秘かに信じられており、子供たちは母親のクララは霊能者で、普通の人間にはない特殊な感覚が備わっていると信じていた。 

家庭での教育を信奉していたクララは、アガサを学校にはやらずに家庭で教育した。 両親は彼女に読み書きや、彼女が特に楽しんだ算術を教えた。 『子供は8歳になるまで読めない方がいい』と信じていたクララは幼いアガサには読み方を教えなかったが、アガサは5歳になるまでに自己流で読み方を身につけていた。 音楽も教えられたアガサは、ピアノとマンドリンを弾けるようになった。 幼い頃から大の読書好きになったアガサは、『若草の祈り』『若草物語』などの児童書やアメリカの冒険小説を読みふけった。 10歳も年上の姉と兄は遊び相手にはなれず、他の子供たちと接することもほとんどない子供時代を、彼女は使用人やペットたちや想像上の友達と一緒に過ごした。 成長して友人ができたアガサは若者の演劇サークルに入り、ギルバート&サリヴァン(エセ日本を舞台にしたオペレッタ『ミカド』が有名な)の The Yeomen of the Guard を公演した際は主役のフェアファックス大佐を演じた。 

 

 少女時代のアガサ(撮影年不詳)                    アガサと父親

          

 

病気がちだった父親は何度も心筋梗塞に見舞われ、1901年11月に55歳で死亡した。 彼の死は家族を悲しませたが、同時に経済的な不安も与えた。 11歳だったアガサは母親クララと共にトーキーの家で暮らし続けたが、22歳になっていた姉のマッジは結婚して家を出た。 陸軍に入隊していた兄のモンティーはボーア戦争が起きていた南アフリカへと派兵された。 アガサは後年、彼女が11歳のときに起きた父親の死が、彼女の子供時代の終わりだったと回想している。 翌1902年、彼女はトーキーの女学校へと送られたが、そこの規律を重んじる堅苦しい校風には馴染めなかった。 1905年にはパリに送られ、3つの学校で教育を受けた。 3つのうち最後の学校は、フィニッシング・スクールだった。

 

作家になる試みと第一次世界大戦: 1910-1919年

1910年にアガサがイギリスに戻ると、母親のクララは体調を悪くしていた。 そこで二人は、当時の富裕なイギリス人に人気のあった暖かいカイロで3ヶ月ほどを過ごすことにした。 常に母親に付き添われたアガサは、夫を求めて多くの社交イベントに参加した。 ピラミッドも観光したものの、後年の彼女にとって大きな意味をもつことになるエジプト学や考古学にはほとんど興味が持てなかった。

イギリスに戻ったアガサは、社交活動を続けた。 そのかたわら、アマチュア劇団の舞台公演の脚本や出演にも加わった。 詩作や音楽にも関わるようになり、中には活字になったものもあったが、これらの分野で将来の職業の道を探るつもりはなかった。 短編小説を書き始めたアガサは種々の雑誌に投稿したものの、採用されることはなかった。 これら短編の多くは、彼女が興味を持っていた降神術や超常現象に関するものだった。

カイロを舞台にした最初の長編小説『砂漠に降る雪』(Snow Upon the Desert)を完成させたが、これもやはり採用されなかった。 母親のクララは、家族の友人である隣人のイーデン・フィルポッツにアドバイスを求めるようアガサに忠告し、アガサはこれに従った。 フィルポッツは執筆を続けるよう彼女を励まし、自分のエージェントを紹介してくれた。 このエージェントも『砂漠に降る雪』は採用しなかったが、次の作品を書くよう彼女に薦めた。

執筆活動のかたわら、アガサは夫探しを続けていた。 4人と付き合い、うち一人とは婚約までいったが、結婚には至らなかった。 やがて彼女は、トーキーから19kmほど離れたチャドレイにあるクリフォード卿夫妻の邸宅で開かれたダンス・パーティーで、“アーチー”(アーチボルド)・クリスティー(1889-1962)と出会った。 

 

    

 

インド高等文官の判事の息子としてインドで生まれたアーチーは、イギリス空軍に入隊し、1912年からデヴォン州に駐屯されていた。 アガサとアーチーはまたたく間に恋に落ち、ファーンボロへの転属が決まったアーチーはアガサにプロポーズし、アガサは受け入れた。 1914年に第一次世界大戦が開戦し、アーチーはドイツ軍と戦うためフランスに送られた。 同年の末に一時帰国を許されたアーチーは、婚約者のアガサとロンドンで落ち会い、クリスマス・イヴの午後に結婚。 短いハネムーンをトーキーのグランド・ホテルで過ごしたアーチーは、12月27日にフランスに戻った。 その後も二人は、彼が帰国を許されるたびに再会した。 1918年1月にアーチーが空軍省(Air Ministry)の大佐としてロンドンに落ち着いたとき、ようやく二人の真の結婚生活が始まったようにアガサは感じたという。

アーチーがフランスにいる間は、アガサも傷病兵看護のボランティアに志願し、トーキーの赤十字病院で負傷兵の手当をした。 初めて手術に立ち会ったときは、負傷兵の皮膚にメスが入れられ血を見た途端に失神してしまったという。 しかし血を見ることにもすぐに慣れた。 切断手術後の後片付けという任務におののく若い看護師の代わりに床の血をモップで掃除し、切断された脚を焼却炉に運べるようになった。 彼女は1914年10月から1916年12月までの間に3400時間の無償看護労働を提供した。 

その後は薬剤部に配属され、1918年9月に任務を終えるまで薬剤師として年棒16ポンドの報酬を与えられた。 薬剤部は看護の仕事に比べてずっと退屈だったが、そこで彼女は薬や毒物についての詳しい知識を身につけることができた。 暇ができると、彼女は探偵小説を書くことを考えるようになった。 「毒物に囲まれていたから、毒物による死が思い浮かんだのは私には自然なことだった。」 1920年に出版された処女作『スタイルズ荘の怪事件』が執筆されたのは、1916年のことだった。 1918年、アガサはロンドンに戻ったアーチーと、ロンドン北西部のフラットに住居を定めた。

 

            

 

最初の長編小説: 1919-1923年

アガサが物を書くことに興味をもつようになった最初のきっかけは、母親の提案だったという。 風邪をひいてベッドから出られなかった彼女に、母親のクララは何か書きものをするよう勧めた。 最初の頃は詩や短編を書いていたが、ウィルキー・コリンズの『白衣の女』『月長石』やコナン・ドイルのシャーロック・ホームズものを愛読したアガサは、長いこと探偵小説のファンだった。 同時に、犯人が誰かすぐわかってしまう探偵小説が多いことに辟易していた。 第一次大戦中に毒物の知識を得た彼女が探偵小説の執筆に方向を定めたのは、ごく自然な流れだったろう。 

彼女は1916年に、洗練された大きな口髭をたくわえ卵型の頭をしたベルギー人の元警官で、ドイツ軍に侵攻されたベルギーからイギリスに逃れてきていたエルキュール・ポアロを主人公に、最初の長編探偵小説『スタイルズ荘の怪事件』を書き上げた。 ポアロのモデルになったのは、トーキーに実在したベルギー人避難民だった。 いくつかの出版社には却下されたが、ボドリー・ヘッド社のジョン・レーンは草稿を数年間保管したのち、「結末を変えるなら受け入れる」と伝えてきた。 彼女はそれに応じて契約を交わしたが、後になってその契約は搾取的だったと感じ、出版社を変えている。

結婚生活も充実していて、アガサは1919年8月5日にトーキーの実家“アッシュチャーチ”で娘のロザリンドを産んだ。 戦後アーチーは空軍を辞め、シティーの金融街で低給の仕事に転職したものの、まだメイドをおく余裕はあった。

アガサの2作目は、トミーとタペンスという探偵のカップルが登場する『秘密機関』(1922年)で、これもボドリー・ヘッド社によって出版され、彼女は50ポンドを稼いだ。 3作目はポワロもので、『ゴルフ場殺人事件』(1923年)。 

1922年1月20日、31歳のアガサは11ヶ月間の世界旅行に出発した。 夫のアーチーが、友人のベルチャー大尉から、大英帝国博覧会(British Empire Exhibition)を宣伝するための世界旅行に同行するよう依頼されたのだ。 アーチーは引き受け、アガサも一緒に行くことにした。 まだ幼かったロザリンドは、母親のクララと姉のマッジに預けていった。 南アフリカ・オーストラリア・ニュージーランド・ハワイ・カナダなどを巡る旅をアガサも大いに楽しみ、後日「私の人生の中でも最もエキサイティングな 出来事のひとつだった」と回想している。 南アフリカでサーフボードに腹ばいになってサーフィンすることを習った彼等は、ワイキキでは立ってサーフすることを学んだ最初のイギリス人のうちの一人となった。 南欧、パリ、カイロに続いて世界旅行・・・ クリスティー作品の多くが外国や豪華客船や列車を舞台にしているのも不思議はない。

 

                                    ハワイにて、1922年夏                   南アフリカでサーフィン

      

 オーストラリアでくつろぐアガサ                                                 ハワイのアガサ

      

 

失踪: 1926年

1926年末になって、アガサは夫のアーチーから「他に好きな女性ができたので、彼女と結婚するため別れて欲しい」と告げられ、11日間の失踪騒ぎを起こす。 無事発見された本人が一切語らなかったため、真相は今も謎のままとなっている。 (詳しくは『アガサ・クリスティー失踪事件』をどうぞ。) その後別居を続けていたアーチーとアガサは、1928年に離婚した。

 

再婚と晩年

オリエント急行に乗ることを長年熱望していたアガサは、1928年秋、その夢を実現させた。 ディナー・パーティーでの偶然の会話の流れから、バグダッド経由でウルの発掘現場に脚を伸ばすよう説得されたアガサは、発掘の中心だったウーリー夫妻と知り合った。 翌年ふたたび現場に招待されたアガサは、そこで見習い考古学者のマックス・マローワン(当時25歳でアガサより14歳年下)と出会った。 ウーリー夫人はマローワンに、アガサに発掘現場を案内するよう頼んだ。 意気投合した二人は、一緒にいて不思議とくつろげるのを感じた。 マローワン(1904-1978)のプロポーズを受け入れたアガサは、彼と1930年9月11日にスカイ島で再婚した。 幸福な結婚生活は、アガサが1976年に没するまで続いた。 マローワンはアガサにワインをたしなむことを教えたが、アガサは生涯ワイン好きにはなれず、レストランでは水を注文した。 煙草を吸う習慣を身につけようと、昼食と夕食のあとに吸うことを半年続けたが、結局煙草も好きになれなかった。

結婚後は二人は、春と晩秋は発掘作業をし、夏はロザリンドとともにアガサのトーキーの実家“アッシュフィールド”で過ごし、クリスマスはアガサの姉の家族とカントリーハウスのアブニー・ホールで過ごし、それ以外の時期はロンドンやウォリングフォードの屋敷で過ごすという生活パターンを確立させた。 1938年にアガサは、一目惚れしたデヴォン州の邸宅“グリーンウェイ”を購入した。 周囲を家々に囲まれ覗き込まれるようになっていた“アッシュフィールド”の代わりになる夏場の滞在先として、“グリーンウェイ”は完璧だった。 

 

  

  

 

アガサは、自分が訪れたことのある土地をしばしば小説の舞台に使った。 マローワンとの結婚後考古学に目覚めた彼女は、彼の発掘作業に同行して一緒に作業した。 その経験は、中東を舞台にした彼女の小説の背景となって多いに役立った。 自伝で、彼女自身がこう述べている。 「私はずっと前に夫のマックスに、『少女時代に考古学に興味を持っていれば、もっとずっと知識が身についていたでしょうに。本当に残念だわ。』と悲しげに言ったことがある。すると彼はこう応えた。『現在のイギリス女性で君以上に有史以前の陶器について博学な女性はいないということに気づいていないのかい?』」

他の作品(例えば『そして誰もいなくなった』)は、彼女が生まれ育ったトーキーやその近辺が舞台となった。 1934年の『オリエント急行の殺人』は、オリエント急行の南の終点であるトルコのイスタンブールにあるペラ・パレス・ホテルで書かれた。 アガサの部屋だった411号室は、現在も彼女の滞在を記念して装飾されている。 アガサとマローワンが1938年に夏の住居として購入したデヴォン州のグリーンウェイ邸は、現在ナショナル・トラストの管理下にある。

 

    アガサと娘のロザリンド(撮影年不詳)                           左からロザリンド、孫のマシュー(手前)、友人(奥)、アガサ(1948年)

     

 

アガサは義兄(姉マッジの夫)のジェームズ・ワッツが所有するアブニー・ホール(Abney Hall)をしばしば訪れ、そこで少なくとも2本の作品を書いた。 『葬儀を終えて』と短編の『クリスマス・プディングの冒険』である。 多くの使用人を抱えた壮麗なアブニー・ホールは、カントリーハウスを舞台にしたアガサの作品の多くにインスピレーションを与えた。 

第二次大戦中、マックスは通訳として働くよう要請され、カイロに赴いた。 アガサはロンドンの大学病院の薬局でボランティアとして働き、毒物に関するさらなる知識を得た。 これは戦後の作品に大いに活かされた。 例えば毒殺の手段としてのタリウム使用を提案したのは大学病院の薬局の薬剤師だったハロルド・デイヴィス(後の厚生省の薬局長)だったが、アガサはこのアイディアを、1961年に出版された『蒼ざめた馬』で使った。 彼女のタリウムの中毒反応の描写が正確だったため、実際の事件の解決に一役買ったことすらあったという。 彼女が住んだロンドンのチェルシー地区のクレスウェル・プレイスとシェフィールド・テラスの住所には、現在ブルー・プラークが掲げられている。

 

    

 

第二次大戦中だった1941年から1942年頃、アガサはイギリスの諜報機関MI5にマークされたことがあった。 1941年に出版された、英国に潜入したヒトラーの二人のスパイを追う彼女の作品『NかMか』に、ブレッチリー少佐という登場人物がいたためだった。 ブレッチリー・パークは当時、英国政府の暗号解読本部だったが、それは国家の最高機密だったため、MI5はアガサがブレッチリー・パークにスパイを送り込んでいたのではないかと疑ったのである。 この疑いは、彼女が暗号解読専門家のディリー・ノックス(Dilly Knox)に「ブレッチリーという名は単に、私が最も好きになれない名前のひとつ」と明言したことで無事晴れた。

娘のロザリンドは1940年にヒューバート・プリチャードと結婚し、1943年9月21日に息子のマシューが生まれた。 マローワンはまだカイロにいたが、アガサはしばしば娘を訪れ、孫息子の世話を手伝った。 義理の息子のヒューバートは、翌年戦死。 ロザリンドは1949年にアンソニー・ヒックスと再婚した。 1959年に“グリーンウェイ”の名義をアガサから譲られたロザリンドと夫は、1967年に“グリーンウェイ”に移り住んで造園に精を出し、2000年に所有地の大部分をナショナル・トラストに寄贈した。 2004年にロザリンドが、2005年に夫のヒックスが死亡すると、邸宅と残りの土地もナショナル・トラストに寄贈された。

 

    

 

文学界への貢献が讃えられ、アガサは1956年に大英帝国勲章を贈られた。 翌年には“ディテクション・クラブ”(イギリス推理作家クラブ)の会長に選出された。 1971年には勲章のランクがデイム・コマンダーに格上げされた。 その3年前には夫のマックス・マローワンが、1968年の考古学調査が評価されてナイトに叙任されている。 夫婦のそれぞれが高ランクに叙任された、数少ない例のひとつとなった。 (夫がナイトに叙任されるとその妻は自動的にレディーの称号を与えられるので、アガサはすでに3年前からレディー・マローワンだった。)

 

   

    

       ABC劇場での『オリエント急行の殺人』のプレミアに女王を迎えるアガサ(下左・1974年)と、晩年のアガサとマローワン(下右)

              

 

1971年から1974年にかけて、アガサの健康状態は徐々に衰えていったものの、彼女は執筆活動を続けた。 アガサが最後に公的な場に姿を現したのは、1974年の映画『オリエント急行の殺人』(Murder on the Orient Express, ポワロを演じたのはアルバート・フィニー)のプレミアの晩だった。 自分の作品の映画化版やドラマ化版のほとんどに満足しなかったという彼女だが、1974年のこの作品は気に入ったらしい。 彼女の感想は、「上出来。ポワロの口髭が豪華さに欠けるのが珠にキズだけれど。」だった。 老衰を認識するようになったアガサは、1975年に自分の最も成功した戯曲『ねずみとり』の権利を、孫のマシューに譲った。

アガサ・クリスティーは1976年1月12日に、オクスフォード州南部のウォリングフォード(Wallingford)の自宅ウィンターブルック・ハウス(1934年に購入)で安らかに息を引きとった。 享年85歳。 遺体は隣接するチョルシー(Cholsey)にある聖メアリー教会の墓地に埋葬された。 アガサより14歳年下だったマローワンは、翌年に同僚の考古学者のバーバラ・パーカーと再婚したが、さらにその翌年の1978年に74歳でこの世を去った。 (パーカーはマローワンの愛人だったという噂もあったが確証はない。未亡人となったバーバラは、1993年に85歳で死去した。)

 

            ウィンターブルック・ハウス                孫のマシュー(中央)と夫のマローワン(右手前)         アガサとマローワンの墓標

    

 

アガサの唯一の子供だったロザリンド・マーガレット・ヒックスは、2004年10月28日にデヴォン州トーベイで死去した。 母親と同じく享年85歳だった。  アガサの孫のマシュー・プリチャードは、現在も Agatha Christie Limited の運営に深く関わっている。

 

     孫のマシューとアガサ

         

                        近年のマシュー・プリチャード

                      

 

 

・・・ アガサ・クリスティーの失踪事件について調べたとき、彼女の生涯についてもあれこれ出てきたので、さらに調べて記事にしてみました。

当時としては裕福な家に生まれたお嬢様だったんですねぇ。 父親の死後は経済的に困窮したとはいえ。

ギネスブックによると、「シェイクスピアと聖書に次いで最も多く世界で出版されている」という彼女の作品。

翻訳された言語数は少なくとも103ヶ国語で、一作家としては世界最多だそうです。

私も10代の頃、夢中になってクリスティー作品を読みました。懐かしいなぁ。

多くの作品を残し、新世紀に入ってもなお読者を楽しませてくれるクリスティーに大感謝! 

 


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