ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ゾフィー・ショルを偲ぶミュンヘン ②

2018-01-22 19:01:50 | ひと

《  からのつづき 》

 

 ミュンヘン大学を離れ、次に目指したのはホーフガルテン。ここの北東の隅には御影石でできた “ナチス独裁抵抗記念碑” が1996年に置かれたそうなので、それを見に行きました。

表側には “白バラ” が配布したビラの文章の一部が刻まれていました。

ZUM ERINNERN ZUM GEDANKEN – Wir wollen hier nicht urteilen über die verschiedenen möglichen Staatsformen, nur eines will eindeutig und klar herausgehoben werden: Jeder Mensch hat einen Anspruch auf einen brauchbaren und gerechten Staat, der die Freiheit des einzelnen als auch das Wohl der Gesamtheit sichert. Freiheit der Rede, Freiheit des Bekenntnisses, Schutz des einzelnen Bürgers vor der Willkür verbrecherischer Gewaltstaaten. Das sind die Grundlagen des neuen Europa

Aus den Flugblättern der Widerstandsbewegung "Die Weisse Rose" 1943

英語だとこんな感じでしょうか:

 For remembrance, for contemplation – We do not want here to judge the different possible forms of states, only one thing should be stressed loud and clear: Every single person has the right to a workable and just state which protects the freedom of the individual as well as the welfare of the population. Freedom of speech, freedom of declaration and protection of the citizens from the despotism of criminal and violent regimes. These are the basis of the new Europe

From the leaflet of the resistance movement "The White Rose" 1943

 裏側にはふたつの節が刻まれていました。最初のは:

 Meine Lieben! Mein letzter Brief, den ich Euch schreibe. Das Gnadengesuch ist abgelehnt worden. Ich werde um 15 Uhr hingerichtet. Also lebt wohl, und in der Ewigkeit sehen wir uns wieder.

Josef Hufnagel  40 Jahre alt  Bauer 1944

My dear ones! My last letter, which I write to you. The plea for mercy has been rejected. I will be executed at 3 pm. So live well, and in eternity we see each other again.

Josef Hufnagel  40 years old  Farmer 1944

ヨーゼフ・フフナーゲルは40歳の農夫でしたが、“敵の悪意あるラジオ放送を聞いた”かどで告発され1944年6月5日に処刑されました。この一節は彼が家族に宛てた最後の手紙の一部だということです。その下のふたつめは:

Es geht um die Sicherung eines gerechten Friedens, der dem deutschen Volk ein Leben in Freiheit und Ehre, den Volkern freiwillige und fruchtbare Zusammenarbeit ermöglicht.

Erwin v. Witzleben

Aufruf für den 20. Juli 1944

It is about securing a just peace that enables the German people a life of freedom and honor, and the nations voluntary and fruitful co-operation.

Erwin v. Witzleben

Appeal for the 20th of July 1944

エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンは1944年の7月20日事件に加担していたため処刑された反ヒトラー派の大物軍人でした。この一節は、裁判での彼の申し立ての一部と思われます。

 

ホーフガルテンの東側には、中央にドームを擁したバイエルン州政府内閣官房の長い建物が延びています。って、今日知ったんですが。そうか、だからお巡りさんがゆっくりと徒歩でパトロールしていたんですね。

 北東の角からは西に向かってガラスの屋根付きの通路(下左)がしばらく延びていて、・・・

・・・ “ナチス独裁抵抗記念碑” はその終わりにありました。州政府内閣官房の両翼はガラス張りのモダンなデザインですが、これは第二次大戦中までそこにあったバイエルン州軍事博物館が、大戦中にひどく破壊されたためだそうです。

 ホーフガルテンは、マクシミリアン1世の命で1613年から1617年にかけて建設されたイタリア風のルネッサンス様式の庭園です。その東側には1801年から1899年までの約1世紀の間、王宮庭園付兵営がありました。兵営はもともと池があった場所に建設されましたが、脱水処理が不完全だったため不衛生で発病する兵士が続出。1893年には34名が死亡し8名が重症に陥ったため、同年末には完全に閉鎖され、兵営は1899年に取り壊されました。

代わりにバイエルン州軍事博物館が、兵営があった場所よりやや西寄りに1904年に完成し、翌年から公開されました。

 しかし博物館は第二次大戦中の爆撃でひどく破壊され、ドームのある中央部分だけが辛うじて残りました。

 修復された中央部分だけが戦後長いこと立っていましたが、ようやく1993年に両翼が再建され、州政府内閣官房となったそうです。

記念碑の位置を『ホーフガルテンの北東』としか知らずに行った方向音痴の私は記念碑を探してこのばかでかい(シツレイ)建物を一周してしまいましたので、老婆心ながらその位置を明瞭に示しておきたいと思います。

ついでにこれまで見てきた場所も。ショル兄妹が住んでいた建物は見えにくいので、記事の終わりに地図上で示すことにします。

  広いルートヴィヒ通りに戻ってふたたび南下を始めたら、すぐにルートヴィヒ1世騎馬像(Das Reiterdenkmal des Königs Ludwig I)が道路の反対側(西側)に見えました。(おとぎの城建設に夢中だった2世とは対照的に、1世はなかなかのやり手だったみたいですね。)ちなみにグーグル・マップによると、ルートヴィヒ通りはこの辺りではオデオン広場と名前が変わっているようです。

 オデオン広場通り(?)は間もなく西方向へと右折してブリエンナー通りと名前が変わります。オデオン広場通りの南方向はホコ天となり、なにやら舞台みたいで面白いフェルトへルンハレFeldherrnhalle)(下左)がありました。ミュンヘン一揆の際、ここでヒトラーの同胞が射殺されていたんですね。ヒトラーも射殺されていれば、その後の歴史は大きく変わっていたでしょうに・・・・・ ブリエンナー通りを進んでいったら、ちょっとパリ(行ったことないけど)みたいな眺め(下右)に出会いました。オシャレ~

 ブリエンナー通りを200mほど進むと左手に小さな広場 ― “国家社会主義暴政の犠牲者広場” ― があって、1985年からそこに立つ御影石でできた慰霊碑の上部には “永遠の炎” が灯っています。この炎は、どれほど抑圧されようとも消えることのない人類の不屈の精神を象徴しているそうです。

 それというのも、広い交差点をはさんだこの広場のはす向かい、

現在はグレーとクリーム色の銀行の建物がある場所には、

 19世紀半ばにヴィッテルスバッハ宮殿(Wittelsbacher Palais)が建てられ、引退後のルートヴィヒ1世は1848年から1868年までの20年間、またルートヴィヒ3世も1887年から1918年までの31年間、そこで暮らしました。しかし宮殿は1933年10月にゲシュタポの本部となり、拘束や拷問のために使われるようになりました。逮捕されたゾフィー、ハンス、プロープストが監禁され尋問されたのはここだったそうです。

      

1944年の空襲でひどく破壊された宮殿は、1964年になってようやく完全に取り壊されたということです。

交差点からマクシミリアン広場通り(?)に沿って南西方向に歩いていくと、1895年に完成したというかなり大きくて目立つヴィッテルスバッハ噴水(Der Wittelsbacher Brunnen:下左)がありました。信号待ちをしていたら、ミュンヘンのシンボルのひとつであるフラウエン教会(Frauenkirche)のふたつのネギぼうず型の塔(下右)が見えました。

やがて次の目的地、司法宮殿(?Justizpalast Munich=Palace of Justice Munich)に到着。バイエルン司法省とミュンヘン地方裁判所を擁する堂々たる建物です。南向きの入口から入ると広いホールの右手に空港並のセキュリティー・チェックの設備があって、無事チェックを通過すると明るいアトリウムに出ました。

1897年に完成したという細長い建物は長さ138m、奥行きは80m、中央のガラスドームの高さは67mあるそうです。

処刑された “白バラ” メンバーのうちハンス・ライペルトを除く6名は、ナチス統治時代は人民法廷だったここで裁かれたそうです。

南側の入口を振り返ると、2階部分に摂政王子ルイトポルトのブロンズ像が立っていました。

目指す部屋は253号室なので3階に上ると、親切なことにフロア・プランがありました。253号室は通路の奥の突き当たりにあるようです。

253号室、Weiße Rose Saal (White Rose Hall)。

 入口から見た“白バラ”メモリアル・ホール内部。

  他に誰もいなかったので、好きなだけ写真を撮れました。

 裁判官席の背後の壁には、ショル兄妹とクリストフ・プロープストの裁判記録書のコピーが掲示されていました。

 裁判官席から見て左奥の窓と窓の間の壁には、ナチス統治下で迫害されたユダヤ人司法官たちの画像。

 出入口の左の壁に、“学生たちの抵抗運動・白バラ”に関する説明文の掲示。これによるとショル兄妹とプロープストは1943年2月22日に別の法廷で裁かれました。実際にこの部屋(当時は216号室)で裁かれたのは、同年4月19日のフーバー教授、アレクサンダー・シュモレルとヴィリ・グラーフでした。

 裁判官席から見た法廷。奥の壁にはこの司法宮殿で断罪されて処刑されたメンバーたちの画像。ハンス・ライペルトはここにも含まれていませんでした。「彼はここではなくドナウヴェルトで断罪されたから」と言われれば、それはそうかもしれませんが・・・

 傍聴席から見た法廷前方部分。死刑を宣告された“白バラ”のメンバーたちを思いながら合掌しました。

 屋内から見た北側入口と、私が入ってきた南側入口。

 Google画像を拝借した、南側入口と北側入口。北側には植物園が隣接しており、そちらがメインの入口のようです。

 私が最初に通過した、カールス門(後述)の方を向く東側入口は普段使われていないのか人の出入りがありませんでしたが、こちら側もなかなか装飾的で優美です。

 最初に入ったときセキュリティー・チェックのためバッグとジャケットをトレイに入れたのですが、チェック後のトレイにこの司法宮殿に関するパンフレットが勝手に入っていました。

 パンフによると、この司法宮殿は摂政王子ルイトポルトの命で1897年5月に完成。ネオ・バロック様式で、長さ138m・奥行き80m。建物中央には鉄とガラスでできた採光のよいドームを冠する19mx29mのアトリウムがあります。しかしながら、完成後まもなく「小さすぎる」と結論され、1905年にはニンフェンブルガー通りに新しい裁判所が完成しました。1944年12月と1945年1月の空襲では大部分が破壊され、戦後に再建され、現在この司法宮殿は裁判に使われることはあまりなく、バイエルンの司法省と地方法廷の一部を擁しているようです。

 通りをはさんで司法宮殿の東南に相対するのは、ホコ天ショッピング街の入口であるカールス門(Karlstor=下左)。上中央のカールス門から見た司法宮殿の画像は、19世紀から20世紀への転換期の頃のものだそうです。現在(下右)と比べるとかなりゆる~い雰囲気。

この日の目的地は、残すところあとひとつ。Sバーンで移動するため地下に下り、カールス広場駅に向かいました。

 

 

 《  につづく 》

 

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