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(増補版)643E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年4月)

2019-05-05 02:43:09 | 日記
題:(増補版)643E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月、山川健次郎、水野敏之丞らが、X線によるレン
 トゲン撮影に成功した。
  X線発見の第一報が日本に到達したのは、1896年2月20
 日前後、長岡半太郎博士(1865年~1950年)であろうと
 いう。
  X線の利用が行われたのは、「物理学界では、ドイツ
 に留学中の長岡半太郎博士からの報を受けて・・
  一方では、東京大学理科の山川健次郎教授、鶴田賢次
 助教授、水木友次郎助手(技師)が・・
  他方では、第一高等学校・水野敏之丞教授、山口鋭之
 助教授がおのおの個々に実験にとりかかり、共に成功し、
 少し遅れて京都でも第三高等学校・村岡範為馳教授、及
 び、島津源蔵が島津源吉、島津常三郎、粕谷宗資と共に
 実験に成功している。
  「医学界では、済生学舎の外科・丸茂文良学士は、東
 京大学スクリーバ教授の勧めにより鹿島清兵衛の援助を
 得て、医学者として初めてレントゲン線発生実験に成功
 し、細菌に対する影響についても研究している。
  これについて、5月31日、済生学舎校友会行った講演と
 実験供覧の記事「レントゲン氏の所謂X光線のデモンス
 トラチオン」が済生学舎医事新報42号508頁、6月15日に
 載っている。
  翌年の1897年になると、4月には、東京帝国大学医学部
 解剖学教室にX線装置が設置され、
  9月には、島津製作所が教育用X線装置を製作して、巡
 回展示し、
  10月には、小西六社がX線発生装置を輸入して、実験
 を開始し、この装置は、翌年、兵庫県立病院に貸し出さ
 れて診療に利用されている。
  1898年になると、X線の医学利用も次第に本格化し、
 東京帝国大学医学部外科学教室に設置されたX線装置で
 スクリーバが、3月17日の東京医学会例会において人体透
 視を供覧した。
  12月には、芳賀栄次郎が、自分の留学費用でドイツで
 購入したシーメンス社製X線装置を東京軍医学校に設置し
 ている。  
  特筆すべきは、日露戦争が始まった1904年6月には、芳
 賀栄次郎が、陸軍にX線装置を携行させて、第四野戦病
 院に設置し、戦傷治療に使用した。
.
1896年4月1日、青梅鉄道、甲武鉄道会社に営業を委託(建設
 は当初から委託した)
.
1896年4月1日、広島大本営が解散した。
  日清戦争の大本営が戦後処理を終えて、詔勅によって
 解散した。
  1894年8月8日、広島城内にあった第五師団司令部の建
 物が、明治天皇陛下の広島の御滞在所とされていた。
  陛下は、1894年9月15日から1895年4月27日までの7か月
 間、この地に御滞在された。
.
1896年4月3日、イタリアのスポーツ新聞「ガゼッタ・デロ・
 スポルト」が創刊された。
  スポーツ報道以外にも、1909年から開催されている自
 転車ロードレース、ジロ・デ・イタリアを主催している。
.
1896年4月6日、第1回夏季オリンピックがアテネで開催され
 た(~1986年4月15日)
  第1回国際オリンピック大会
  近代オリンピック競技大会の第1回大会が、フランス
 のピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、ギ
 リシャのアテネで開催された。
  開会式は、アテネのパンアテナイ競技場に5万人の観
 衆を集めて行なわれ・・参加国は欧米先進国の14か国だ
 った。
  選手は、男子のみで280人で、古代オリンピックと同じ
 ように女子禁制の大会だった(参加人数241人説あり)
  実施競技は、陸上、水泳、体操、レスリング、フェン
 シング、射撃、自転車、テニスの8競技43種。
  ヨットも予定されたが悪天候のため中止になった。
  ウエイトリフティングは、体操の一種目として実施さ
 れた。
  観衆に人気の陸上競技は、アメリカが圧倒的な強さを
 発揮し、全11種目のうち9種目において優勝した。
  ギリシャの財政事情によって金メダルは無く、優勝者
 には銀メダルが、第2位には銅メダルが、第3位には賞状
 が授与された。
  記録は、100メートル陸上競技男子は12秒0で、アメリ
 カのトーマス・バークが優勝した。
  金メダル獲得数、アメリカ(11)、ギリシャ(10)、
 ドイツ(6)、フランス(5)、イギリス(2)、ハンガリ
 ー(2)、オーストリア(2)、オーストラリア(2)、デ
 ンマーク(1)、スイス(1)、混合チーム(1)
  オリンピック賛歌は、この第一回アテネオリンピック
 で演奏されたもの・・スピロ・サマラス作曲、コスティ
 ス・パラマス作詞
.
1896年4月8日、河川法が公布された(底水工事より高水工
 事への転換した)
  日本で最初の河川法である。
  この法律は、河川管理者を原則として都道府県として
 いて、必要に応じて国が工事を実施する体勢を定めた。
  当時、相次いで起こっていた水害の防止に重点をおい
 たもので、以後日本の大河川の改修は、この河川法の下
 で実施された。
  当時、森林法・砂防法と合わせ『治水三法』と呼ばれ
 た。
  この旧河川法における河川管理の特色は、河川を「河
 川法適用区間」と「河川法準用区間」に分け・・
  適用区間については、内務省(戦後は建設省)によっ
 て直轄管理を行い、
  準用区間については、各都道府県知事が管理を行うと
 いうものであった。
  制定当時は、治水にのみ重点をおいた法整備であった
 ため、利水に関する想定はされていなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:米中の対立が始まったが、これは、「中国の態勢が
    崩れる」まで、アメリカは行なう・・
    そして、ドイツ国民の半数以上が、難民に対して
   「否定的な感情を持っている」と、アンケートの調査結果で
    明確となった。
.
紀元前5世紀、「古代ギリシャ人が到達した世界観」を書き
 残したのが「歴史の祖」と言われるヘロドトスだった。
  ヘロドトス(紀元前484年~紀元前425年)は、彼の著
 「歴史」の第4巻に書いた・・
  世界は、「オーケアノス」によって取り囲まれ、「ア
 シエー(アジア)」「エウローペ―(ヨーロッパ)」「
 リビュエー(リビア)」の三大陸からなっている・・と
 書いた。
  この三大陸を分かつのは、「タナイス(どん)川」「
 ネイロス(ナイル)側」「地中海」だと言い・・、
  ナイル川右岸にある「エジプト」はアジアだ・・と・・
  また、アジアの東の果てにあるのは「インド」で、そ
 のインドから東の地は、すでに「無人の境」で、その状
 況を語り得る者は一人も居ない・・と・・
.
紀元前202年、中国の楚(そ)の項羽(こうう)は、劉邦
 (りゅうほう)の率いる漢軍に囲まれ、四面から流れる
 楚の歌を聞いた。
  もはや、楚軍は降伏してしまったものと勘違いをし、
 絶望した。
  名高い「四面楚歌」の故事にまつわる紀元前202年の出
 来事だった。
     ・
     ・
5世紀、イギリスの初め・・
  この頃、ゲルマン部族の一系統のアングロサクソン族
 がブリテン島に移住した。
  そのゲルマン系諸部族は、「七王国」と言われる様に、
 7つに分かれて・・数百年間にも渡って戦ってばかりい
 た。
  しかし、不思議にも、この七王国は「言語ではまとま
 っていた」。
  ここから、後に、英語となる祖型が生まれて行った。
  後の時代、統合された国が形づくられる前、英語とい
 う統合言語が生まれていた。  
  9世紀になる頃、海から、バイキングにブリテン島は
 攻撃された。
  バイキングは、北欧を拠点とした海賊で、「ノルマン
 人」あるいは「デーン人」と呼ばれる、ヨーロッパ各地
 を荒らしまわる者たちだった。
  871年、イングランドの南西部のウェセックス国で、ア
 ルフレッドという名の者が王位に就いた。
  即位の当初、この王国は、このバイキングに追い詰め
 られていた。
  アルフレッドは、その気性の様に「野生の猪」と言わ
 れ猛進し逆襲した。
  バイキング達も侵攻を再開するという状態で、アルフ
 レッドを窮地に陥れた。
  アルフレッドは、追い詰められ、忠実な家臣団だけと
 共に小島に逃れ、潜(ひそ)んだ。
  深い森で、敵も近づき難かったが、味方も動きにくか
 った。
  アルフレッドは、農家に匿(かくま)われた。
  アルフレッドの素性を知らない農婦に、アルフレッド
 は、番をする様に命じられた「ケーキを焦がし」、彼女
 にこっぴどく叱られた。
  そのうち、アルフレッドの支持者が、だんだん数を増
 し、数年後、デーン人に対して決定的勝利をおさめた。
  もはや、デーン人は、イングランドの北東部の一地方
 に留まるしかなく、アルフレッドの勢力は、ロンドンを
 含む南部を手中に収(おさ)めた。
  北方からの渡来者のノルマン人は、対岸のフランス北
 岸に行かざるを得なくなり、今日、この地をノルマンデ
 ィーと呼ぶ。
  アルフレッドは、「大王」を付けて「アルフレッド大
 王」と呼ばれる。
  アルフレッドは、法典や年代記の編纂(へんさん)に
 努力した。
  1066年、「ノルマン人の征服」はイギリス史の大事件
 となっている。
  849年に、アルフレッドは生まれ・・、
  853年の4歳の時、教皇のレオ4世に謁見。
  855年の6歳の時、父とローマを再訪し、帰途、西フラ
 ンク王国の王女ユーディスと再婚した。
  871年(22歳)兄たちが次々に死に、兄の後を継いで即
 位した。
  875年(26歳)ウェセックス勢が初めて海戦で勝利を収
 めた。
  878年(29歳)伝説的に語られる天然の要害で助けられ
 た・・この時は、デーン人に急襲されていた。
  886年(37歳)ロンドンを奪回した。
  899年10月26日、死去・・死ぬまでデーン人の侵攻に苦
 しめられた。
  デーン人は、イングランド東部に定着していて、常に
 攻撃を仕掛けていた。
  兄の死も、871年のアッシュダウンの戦いというデーン
 人との戦いのときの傷が悪化して死んでいる。
  イギリス人の「史上初の王」。
  (参考)デーン人:北ゲルマン人の一支族。
      初め、スウェーデン南西部スコーネに居住し
     ていたが・・、
      今日のデンマークの諸地方に進出 (デンマー
     クの語は「デーン人の国」の意)
      ゲルマンの民族移動後も故郷にとどまり、ス
     コーネのスキョル朝は、古英語詩『ベーオウル
     フ』にもスキョルディンガスとして知られてい
     る。
      フランク王国のカルル1世 (大帝) がザクセン
     を征服して、デーン人と直接接触し、ユトラン
     ト(ユラン) のデーン王ゴッドフレッドは積極的
     にこれに対応、シュレースウィヒ南方に長大な
     土塁を築く一方、艦隊を率いてフリースランド
     海岸を襲撃した (810年)
      830年代からは、東西フランク王国およびイン
     グランドに侵入・・、
      ハンブルク、パリ、ロンドンなどの重要都市
     を攻撃し、占領した。
      彼らは、ノルウェー系バイキングに比し組織
     的で、全ヨーロッパを恐怖に陥れた。
      イングランド全島を征服する試みは、ウェセ
     ックスのアルフレッド大王にはばまれたが・・、
      9世紀後半、中部イングランドには、デーン人
     の自治のもとに彼らの法が行われるデーンロー
     地域が形成された。
      北フランスにおいても、彼らの首領ロロは、
     西フランク国王から彼らの実力で支配した土地
     を正式に封土として受け、これがノルマンディ
     ーとなった (911年) 。
      10世紀末より、再び、デーン人は、イングラ
     ンドに繰返し侵入して、略奪し、貢納 (デーン
     ゲルト) を要求した。
      1013年、イングランド王となったデーン人の
     スウェイン1世は、翌年没したが、その子カヌー
     ト(大王) とその子孫は、イングランドにデーン
     朝を開いた (1018年~1042年)
.
1016年、デンマーク王子クヌットは、ついにイングランド
 を征服して王となり、デーン朝を開いた。
  彼はまもなくデンマーク王となり、ノルウェー王をも
 兼ね、スウェーデンの一部をも支配する北海帝国を建設
 した。
  この頃が、デーン人の活動の最盛期。
.
1658年、マルティノ・マルティニが「中国古代史」を出版
 した・・すると、ヨーロッパのキリスト教社会に大きな
 論争が巻き起こった。
  この本は、「ヨーロッパで初めて出版された、最も信
 頼に足る中国史」と評された。
  今・現代は、キリスト教の聖書に記述される「アダム
 とイブの創造」や、「ノアの大洪水」など・・キリスト
 教徒でさえ、それは作りあげられた仮想の歴史だと知っ
 ているが・・
  17世紀の頃、キリスト教のイエズス会キリスト教宣教
 師たちが、東洋にやって来て・・、
  中国に入り、中国の歴史の事実を知ると・・大問題が
 持ち上がった。
  ヨーロッパへ・・中国に関する様々な情報をヨーロッ
 パへもたらすと・・その歴史に、驚異的事実が書かれて
 いる事にキリスト教徒たちは驚いた。
  ヨーロッパでは・・矛盾の多いキリスト教の出来事に
 種々の歴史的主張が行われ、歴史が経過して来ていたが・・、
  それでも、なんだかんだと辻褄(つじつま)を合わせ
 ようとする年月が過ぎていたが・・
  17世紀に至って・・中国の歴史を知ると、キリスト教
 の歴史や、年代史との矛盾が生じた。
  それも、中国の歴史を知れば知るほど、中国の歴史の
 方が正しいと分かって来た。
  今まで、キリスト教の歴史研究者たちには、まともな
 中国史は登場していなかった。
  メランヒトンの普遍史(キリスト教の聖書が叙述する
 内容に基づくキリスト教的史観から構成された世界史)
 にも、中国史は登場していなかった。
  (参考)メランヒトン:ドイツの神学者、宗教改革者、
     大学のギリシア語教授、ルターに次ぐ指導者、
     1497年~1560年、
  マルティノ・マルティ二(1614年~1661年)の「中国
 古代史」が、問題発生のきっかけだった。
  マルティ二も、自(みずか)らも、中国で宣教活動を
 しながら、中国の史書などを読み、本書を記した。
  彼は、三皇五帝から夏・殷、そして、周、さらに、彼
 のいる清朝の今まで続く諸王朝は、疑いの無い事実とし
 て分かって来ていて・・「事実だ」と認めるに至った。
  となると、キリスト教の話の歴史の根拠が崩れること
 になる。
  (参考)夏:殷(いん)以前にあった中国最古の王朝。
      始祖は禹(う)。
      紀元前15世紀ごろの桀(けつ)王が暴政を行っ
     たため、殷の湯(とう)王に滅ぼされた。
  (参考)殷:いん、中国史上、実在の明らかな最古の
     王朝。
      紀元前17世紀末、もしくは、紀元前16世紀初
     め~紀元前11世紀、今の河南省を中心に黄河下
     流域に威を振るった。
      開祖は湯王。
      自らは首都の名である〈商〉を国号として用
     い、しばしば都を移した。
      最後の都(王朝の後半期)が殷墟である。
      紀元前1050年ごろ、紂(ちゅう)王の時、周の
     武王に滅ぼされた。
  中国の三皇五帝の最初の帝王の伏羲(ふくぎ)は、イ
 エスよりはるか以前の年代に統治を始めたことになる。
  また、ヘブライ語聖書の「ノアの大洪水」より600年以
 上も古くなる。
  ノアの大洪水で人類は絶滅して、ノア等の人類が再出
 発したという話もおかしくなる。
  ヨーロッパは、「矛盾という話」どころか、中国の歴
 史書類が「間違っていると論証できない」なら・・、
  「キリスト教聖書の記述や年代の方が、間違っている
 ことになる」と気付いた。
  当然、マルティにも気付いていた。
  しかし、マルティニは、中国の歴史書の記述を否定す
 ることが出来なくなっていた。
  また、マルティニだけではなく、ヨーロッパの歴史学
 者たちも、「アダムとイブの創造」や「ノアの大洪水」
 などのキリスト教聖書の記述を歴史的事実として信じて
 いたが・・高度な水準を有している中国の歴史書を、そ
 の記述を・・否定することが「出来なかった」。
  否定的根拠を提示することが・・出来なかった。
  中国の文明は、それなりに重大な事実の歴史の積み重
 ねの「事実の上」にあった。
  これは、キリスト教の「根も葉もない話」を、明確に
 指摘する数多くのエピソードの一つである。
  キリスト教カトリックも、また、キリスト教プロテス
 タントも、このキリスト教の根拠を崩される大問題に、
 対立しあいながらも、キリスト教の根拠を守ろうとして
 努力をした・・が・・
  その両派の一致した見解をまとめる事もできず、また、
 その根拠も見い出す事も出来なかった。
  世は大航海時代。
  18世紀にかけて、色々な研究が行なわれるが、次々と
 新しい説が唱えられるが、相互の批判や論争が叫ばれる
 だけで、さらに混乱は増した。
  「キリスト教の存立の根拠の危機」が深まるばかりだ
 った。
  それに、大航海時代・・新たな諸民族の歴史などの新
 事実は、キリスト教の考える枠内に入れられるものでは
 なかった。
  悲しいかな科学的根拠を欠いたキリスト教が、「その
 根拠を崩される時代」だった。
  思えばキリスト教の天動説を崩されたガリレオの地動
 説の科学の進歩から、このキリスト教の悲劇は始まって
 いた。
  所詮(しょせん)、最初からその様な宗教だった。
  キリスト教の学者たちが、どのように論争を重ねたか
 の歴史を書いてみたって時間の無駄になるだけなので省
 く。
  人間観も、「神の似姿観」におさまることへの不合理
 さを「つくづく感じる時代」となって行く・・
  この転換を理解が出来ずに、取り残される人は居るが・・
  天地創造第六日に神の姿をかたどって創造され、支配
 者として「特別な地位を与えられた」・・その様な傲慢
 な考え方から、色々な問題発生の根源ともなって来た・・
  森林伐採などに始まる地球の環境破壊の「やり放題の
 人間さま」が生まれた・・など・・
  「地を従えよ」のキリスト教教義は、温暖化で悩む今・
 現代の「自然破壊の原因の考え方」のキリスト教教義だ・・
  謙虚に自然を見る目も育たない。
  人間のバランスある理性も損なわれる・・
  自然の中の一員、小さな分かち合いしかない人間を気
 付かせない・・
  傲慢にふるまう権利など、人間は、誰からももらって
 いない・・
.
1872年6月12日、日本で、「初めての鉄道」が創業した。
  新橋~横浜の鉄道開始と言われる、品川駅~横浜駅(
 現:桜木町駅)間で仮開業がなされ、1日2往復の列車運
 行が行われた。
  翌日の1872年6月13日には、6往復となった。
  経営は国営で、路線は旧東海道に沿って敷かれ、単線
 だった。
  途中に、品川、川崎、鶴見、神奈川の4つの駅(停車場・
 ていしゃば)が置かれた。
  鶴見以外は江戸時代の宿場で・・、
  鶴見は、武蔵国橘樹(たちばな)郡の東海道沿いにあ
 った村落で、宿場ではなかった。
  ただ、付近を流れる鶴見川は水運に利用されていた。
  線路は、1881年の9年後に複線となった。
  そして、やがて、終点の横浜から関西の神戸まで延伸
 され、東海道本線となり、日本を支える大動脈となった。
.
1873年1月10日、徴兵令が布告された。
  明治維新・・新政府は、この様な布告が出来る所まで
 力を付けた。
  明治維新の1867年、新政府が出来て・・新政府は、当
 然、中央の政府が統治する形の確実な確立を、当然なが
 ら目指した。
  しかし、各地に独自の軍事力を有する諸藩(旧大名)
 が存在した。
  新政府は、独自の直轄の軍事力を整備すると共に、反
 体制を解体したいとした。
  しかし、諸藩の抵抗と財政難によって簡単には実現し
 そうになかった。
  1871年2月、新政府は、西郷隆盛の協力を得て、薩摩藩・
 長州藩・土佐藩の兵力から政府直轄の軍隊である御親兵
 (後の近衛兵)を編成した。
  そして、その力を背景に、1871年7月、廃藩置県を断行
 した。
  さらに、地方の秩序を維持するため、全国の要所に鎮
 台・分営を配置した。
  そして、ここに、旧藩の兵力を集めて行った。
  そして、1873年1月10日、徴兵令が布告されるに至った。
.
1913年12月23日、アメリカで、民間の中央銀行が出来ると
 いうハレンチな重大法案の「連邦準備法」が成立した。
  クリスマス休暇で、議員が選挙区に帰り、不在中、ほ
 とんど審議されないという状態で可決した。
  「世界を手玉にとる」。
  その為に、際限なく人を大量に殺す力を得ようとする。
  一方、金融で、世界を牛耳ろうとする者たちも居る。
  自分だけに都合よく世界が回るようにと、その様なこ
 とをする。
  中国が、何年間も10%台の伸びの軍拡を続けて、その
 伸び率は20%にも届こうかという異常さもある。
  そして、軍事力でアメリカを抜こうという状況である。
  この国の怖さは、「一握りの者たちによる独裁」とい
 う政治体制である。
  会議と言ったって、『ナチスのハイルヒトラー』を彷
 彿とさせる「反対の出来ない・・全員が賛成を唱和する
 議決をする状況」。
  厳しい討論の場面などない。
  一党独裁で、野党が居ない状態。
  また、民の選挙による「民の選択」も排除されている。
  また、金融でも、世界を牛耳ろうとする者たちが、世
 界中の金持ちが、『ある国の金融状況を操作する』。
  目的は、「座して、金が自然に転がり込んで来る」で
 ある。
  リンカーンの暗殺による死後、法定通貨を駆逐し、そ
 して、二度におよぶ恐慌を起こさせて、世界的な金融資
 本家たちは支配力を強めて行った。
  その目的は、金が儲かるアメリカの「通貨発行権」を
 握る事だった。
  この試みは3回目だった。
  その為の秘密会議が、アメリカのジョージア州の小島・
 ジキル島で開かれた。
  詳しくは、ユースタス・マリンズ著「民間が所有する
 中央銀行」にあるが・・
  アメリカは、この主権を失った。
  この会議のメンバーは・・、
  ①ネルソン・オルドリッチ、上院議員(娘婿はジョン・
   D・ロックフェラー・ジュニア)
  ②フランク・バンダーリップ、銀行頭取(ロックフェ
   ラーの銀行)
  ③ヘンリー・ダビットソン(モルガン商会経営者)
  ④チャールズ・ノートン、銀行頭取(モルガンの管理
   下)
  ⑤ベンジャミン・ストロング、副頭取(モルガンの管
   理下)
  ⑥ポール・ウォーターバーグ、商会の経営者(ドイツ
   系ユダヤ人)
  ⑦ピアット・アンドリュー、財務省次官補・・
  以上の様にアメリカの二大財閥(J・P・モルガンと
 ロックフェッラー)関係ばかり。
  そして、その影の背後に居て影響力を行使したのが・・
 イギリスのロスチャイルド家・・
  ロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーによって
 アメリカの中央銀行の民間銀行の形による設立が画策さ
 れた。
  そして、出来たのがフェデラル・リザーブ・システム
 (FRS=連邦準備制度)
  これは、真の目的が見えにくくしたためだった。
  参加者は、中央銀行を想像させる名前を回避すること
 で一致した。
  目的は、アメリカ議会から通貨の米ドルの発行権限を
 奪う事だった。
  この法案は、1913年12月23日、クリスマス休暇で議員
 が選挙区に帰り、不在中、ほとんど審議がなされない中
 で可決した。
  連邦準備法は、その様な状況で成立した。
  この様な「どさくさ」で民間の中央銀行が出来る事と
 なった。
  日本でも、最近(2019年)、この様な似た状態で、ほ
 とんど審議もしないで『移民法』が可決した。
.
1936年12月12日、西安(せいあん)事件が起きる。
  西安は古都の長安である。
  蒋介石が変身した。
  この変身から日中戦争、そして、第二次世界大戦に至
 る経緯が始まった。
  アメリカが、この蒋介石に陰で関わっているが、戦後
 になって、新事実が公開されて、コミンテルンの謀略も
 あったことが明らかになった。
  1936年に起きた「西安事件」は、怪しげな動きを始め
 た中国が原因で起きた事件だった。
  蒋介石が騙(だま)され、誘拐され、そして、監禁さ
 れてしまった。
  やったのは張学良だった。
  (参考)張学良:ちょうがくりょう、中国、東北の軍
     閥。
      1928年、中国町北部の実権を掌握し、蒋介石
     の国民政府と提携した。
      1928年12月29日、中国東北全土で青天白日旗
     (中華民国国民党の党旗)を掲揚した。
      1931年の満州事変以後、国府の対日方針に従
     って無抵抗主義を取り、東北を日本軍にゆだね
     た。
      共産党軍の長征に際して西北剿匪副司令に任
     命されたが、秘かに共産党軍と停戦を結び・・
      (剿匪(ぴんいん)の意味は、匪賊を討伐す
     る、共産党を討伐する)
      1936年12月、共産党軍の討伐を督励するため
     に西安に到着した蒋介石を捕らえるという西安
     事件を起こした。
  そして、蒋介石は、共産党勢力と共闘するように求め
 られた。
  共産党を倒したいと戦っていた蒋介石だが・・しかし、
 ここで、蒋介石は、共産党勢力と共闘するという180度の
 転換をした。
  ソ連との密約があったという。
  共産党を取り締まる役(剿匪)に付いた張学良が、蒋
 介石を捕らえるのも怪しかった・・
  そして、盧溝橋事件が起きる。
  1937年7月7日夜、盧溝橋で、突然、日本の駐屯軍へ中
 国軍が発砲した。
  この日本の駐屯は、中国政府と北京議定書の協定で駐
 屯を行なっている事で、他の国も同様に駐屯していた。
  しかし、この様な状況の中で、中国は、日本に発砲し
 た。
  戦後、情報が公開されて、中国兵の発砲で、蒋介石の
 国民党軍と日本が戦うように仕組んだコミンテルンの策
 謀だとはっきりした・・
  コミンテルンは罠に嵌(は)めようとしていた。
  この翌日の1937年7月8日には、事態を重視した日本は
 森田中佐を派遣し、宛平県長・王冷斉、及び、冀察外交
 委員会専員・林耕雨等も中佐に同行した。
  そして、これに先立って豊台部隊長が、直ちに蘆溝橋
 の中国兵に対しその不法を難詰した。
  また、同所の中国兵の撤退を要求した。
  しかし、それらの交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付
 近、及び、永定河西側の長辛店付近の高地から日本軍に
 対して、迫撃砲、及び、小銃射撃によって攻撃がなされ
 た。
  日本軍も止むを得ず自衛の応戦をし、龍王廟を占拠し、
 蘆溝橋の中国軍に対して武装解除を要求した。
  午前9時半、中国側の停戦要求によって両軍は停戦状態
 に入った。
  日本側は中国の行動を監視した。
  この後、戒厳令が施行され、比較的平穏に経過した。
  中国側は、1937年7月9日の午前5時を期して部隊を撤退
 することを約束した・・
  しかし、午前6時になっても盧溝橋付近の中国軍は、撤
 退しないばかりか、逆に、兵力は増加して行った。
  そして、日本軍に対して度々銃撃を行なった・・
  日本軍は止むを得ずこれに応戦し、中国軍の銃撃を止
 めさせた。
  日本軍は中国軍に協定不履行に対して厳重抗議を行な
 った。
  中国側は、9日午前7時、旅長及び参謀を盧溝橋に派遣
 して、中国軍の撤退を督促させた・・
  中国軍は、午後0時10分、ほぼ撤退を完了した・・
  しかし、一方で、川の西岸に兵力を増加し、弾薬など
 の軍備品を補充するなど、戦備を整える状況であった。
  この様な中国側のはっきりしない状況が続き、10日も
 日本軍監視部隊に射撃を加えるなどをした。
  そして、ついに、中国軍が協定を無視した。
  中国軍は龍王廟を占拠した・・
  そして、引き続き盧溝橋の日本軍を攻撃した。
  ここで戦闘が開始された・・日本軍は午後9時頃、龍王
 廟をとり返した・・
  11日早朝、龍王廟を日本軍は退去した。
  しかし、中国軍は、兵力を増加させて行った。
  この様な状況の中、日本軍駐屯軍参謀長は、北平に於
 いて、中国側首脳部と折衝に努めた。
  中国側の態度は強硬であった・・
  打開の道が無く、交渉も決裂するのもやむを得ない状
 況に陥った。
  しかし、日本側の強固な決意を見て、中国側は急遽、
 態度を変えて、午後8時、松井特務機関長に対し、日本側
 の提案を受け入れた。
  そして、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って
 署名の上、日本側と手交した。
  1937年7月11日、停戦は成立した。
  協定内容は、中国側は、協定違反などの責任者を処分
 する・・
  また、将来、再び、この様な事件の惹起をすることが
 無きよう防止につとめること・・
  また、蘆溝橋、及び、龍王廟から兵力を撤去し、保安
 隊を以って治安維持に充てること・・
  及び、抗日の各種団体の取締を行う・・など
  しかし・・この後、この年の1937年12月になって・・、
 上海の日本人の生活している居留民地区(他の国々の人
 たちも居る地区)の日本人地区に、大部隊の中国の国民
 党軍が攻めて来る。
  日本兵は3000人くらいであったが、アメリカなどが支
 援するその数が10倍以上の大部隊で攻撃して来た。
  日本は、戦わざるを得ない状況に置かれて行った。
  この時、日本の兵力はわずかだった・・日本からの支
 援部隊を送らざるを得なくなった。
  支那事変(日中戦争)が起こされて行った。
.
2019年4月1日、アメリカは、中国の態勢が崩れるところま
 でやる!・・今・現在のトランプ政権の姿勢・・
  『ニュース女子』 #207(平成を振り返る~経済・社会・
 政治・国際情勢~) ・・以下は、その聞き取り記述・・
  https://www.youtube.com/watch?v=_YA9HIqvWCo
・平成元年(1989年)12月、日経平均株価、最高値3万8,957
 円を記録した。
  第26代、日銀総裁の三重野康氏が、バブル経済の抑制
 を目的とした「金融引き締め策」を実施した。
  これはかえって景気が悪くした。
  平成2年(1990年)バブルは崩壊した。
  その結果、「失われた20年」がやって来る・・不況が
 続く時代へと突入した。
  平成9年(1997年)四大証券の一角の山一證券が経営破
 綻し、つぶれた。
  「山一證券」の最後の社長の野澤正平氏が、「私ら(
 経営陣)が悪いのであって、社員は悪くありませんから!」
 と、涙で記者会見をした。
  号泣状態の会見がメディアで大々的に報じられた。
  平成9年(1997年)タイのバーツが暴落し、アジアが通
 貨危機に陥(おちい)った。
  日本の金融業界はいずれも業績が悪化し、銀行は生き
 残りをかけて合併に次ぐ合併の再編が行われた。
  平成13年、さくら銀行+住友銀行=三井住友銀行
  平成14年、第一勧業銀行+富士銀行+日本興業銀行=
 みずほ銀行
  平成18年、東京三菱銀行+UFJ銀行=三菱東京UF
 J銀行
  急速に拡大したのがITベンチャー企業・・ライブド
 ア、楽天、ヤフー、サイバーエージェント
  六本木ヒルズに拠点を持った。
  セレブな生活を送る・・「ヒルズ族」と言われた・・
  ライブドア元社長の堀江貴文氏は・・
  平成16年(2004年)プロ野球球団買収、平成17年(2005
 年)ニッポン放送買収を仕掛けて世間を騒がせたが、ど
 れもうまく行かなかった。
  平成18年(2006年)堀江社長は逮捕された・・証券取
 引法違反容疑だった・・ライブドアの株価は暴落(ライ
 ブドア・ショック)ITバブルの陰り・・ライブドア株
 価がたったの94円となる。
  平成20年(2008年)平成最大の金融危機・・リーマン・
 ショック・・アメリカの罪・・アメリカのサブプラムロ
 ーン問題が発端・・国際的な金融危機・・世界中、また、
 日本にも大打撃を与え、株価が大暴落した・・
  そして、歴史的な円高となる・・企業業績はみるみる
 悪化し・・その後遺症は残ったままとなる・・何時、良
 くなるのかの見通しが立たない状態・・
・平成は災害の時代・・未曾有の大災害が日本に襲来した・・
  平成7年(1995年)1月7日、阪神・淡路大震災(マグニ
 チュード7.3)兵庫県南部・・国内観測史上初の最大震度
 7を記録した・・商業ビルや高速道路が倒壊した・・死者
 6,434人(関連死を含む)、住宅被害は約64万棟(消防庁
 確定)・・
  平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災(マグニチ
 ュード9.0)東北地方・・マグニチュード9.0は国内観測
 史上最大・・死者1万5,897人(警察庁発表、2019年3月1
 日時点)、行方不明者2,533人・・福島第一原発、水素爆
 発・メルトダウンなど重大事故が発生した・・
  平成7年(1995年)地下鉄サリン事件・・オウム真理教
 が起こす・・世界で初めて化学兵器が一般人に使用され
 た無差別テロだった・・死者13人、負傷者6,300人以上・・
 平成30年(2018年)死刑囚13人の死刑が執行された(オ
 ウム真理教元代表・松本智津夫元死刑囚ら)・・
・事故・・
  平成17年(2005年)JR福知山線脱線事故・・JR福
 知山線の塚口駅~尼崎駅間で発生・・死者107人(運転士
 1人含む)、負傷者562人・・史上最悪事故・・
・凶悪事件・・
  平成9年、神戸連続児童殺傷事件、さかきばらせいとと
 名のった。
  平成10年、和歌山毒物カレー事件
  平成12年、世田谷一家殺害事件
  平成13年、附属池田小事件
  平成20年、秋葉原無差別殺傷事件
  平成28年、相模原障碍者施設殺傷事件・・最大の殺傷
 事件
・雲仙普賢岳(長崎県)の噴火・・平成2年(1990年)11月、
 198年ぶりに噴火。
  翌年、再噴火後、最大の火砕流が発生し、43人の使者・
 行方不明者を出した。被害者の多くが報道陣や消防団関
 係者だった。
・平成の経済史・・
  リーマン・ショック、
  ライブドア事件、
  銀行破綻、
  消費税導入、
  バブル崩壊・・日銀と大蔵省が導いた。
  1991年1月、皆がこのバブルは終わらないと考えていた
 が、不動産価格が下落し、株価が下落し、生活も一変し
 た。
  これが、今だに尾を引いている。
  失われた20年、30年と言われる・・
  今に残るこの出来事の要因は2つ・・日銀の金融引き
 締め(利上げ)と、大蔵省の総量規制、産業規制(不動
 産、建設、ノンバンクへ融資をするなとした)・・ピー
 クを過ぎた頃にやって、かつ、やり過ぎた・・大崩壊へ・・
  株価は違法な取引で高くなっていたのは事実、土地も
 そう・・それで、税法が修正された。
  また、インフレになってないのに、やってはいけない
 この様な時に、引き締めを日本銀行がやってしまった・・
 不動産規制はやっても良いが、金融引き締めは、日銀の
 大間違い。
  この大間違いを国内で言わないのが不思議・・
  世界では、国際社会では、皆が言っているのに??・・
  逆に、日本国内では、三重野日銀総裁はバブル退治に
 邁進して「平成の鬼平」とマスコミは「称賛するという
 始末」・・ていたらく・・
  平成元年から金融引き締め政策を実施した犯人・張本
 人は日銀・・日銀は馬鹿なことをしたのだった。
  物価が上がってない時にやったら駄目なのだ、絶対に
 駄目なのだ・・
  それでも、日銀は、「正しい正しい」と言っている・・
  この引き締めをズーット続けた日銀の罪も重い・・
  失われた30年は日銀が作った・・そして、大手銀行も
 破綻して潰れる状況・・日本長期信用銀行も潰れた(1952
 年、設備資金等長期資金の安定供給を目的として設立さ
 れた銀行)・・
  皆が、都市銀行が潰れるなどと想定してないことが起
 きてしまった・・
  預金を集めるのが業務だったのが、借り手を探す世の
 中になった・・バブルで企業に金が余っているので借り
 手が居ない・・だから、無理に金を貸してビルを建て替
 えさせた。
  「税金対策に良いですよ」と言って無理に借金を作ら
 せた・・しかし、バブルが崩壊して、不動産価格が暴落
 して、その借りた方たちは借金だけが残り、借金の山を
 築いた・・
  破綻した個人が多く出るという悲劇が生まれた・・千
 代田区、港区に、特に、多く出た・・銀行の口車に乗っ
 た人たちの悲劇が起きた・・
  北海道拓殖銀行も潰れた。
  官僚に「潰しに行け」という指示が出る時代だった・・
  平成9年、北海道拓殖銀行が経営破綻。
  平成10年、日本長期信用銀行が経営破綻。
  バブルの時は、大蔵省担当の者が居て、大っぴらに接
 待攻勢をかけていた・・ノーパンしゃぶしゃぶが大流行
 した。
  この様な大問題を生じさせた日本銀行は、その責任を
 とったのか??
  今だに、全然、その責任をとっていない。
  政策をミスするのは人間だからあるのだろうが、その
 責任をとらない日銀は大問題だ。
  1989年(平成元年)国際経済や政治ががらっと変わっ
 た年だった。
  冷戦も終わり、日本の戦後の居心地の良い温室が壊れ
 た。
  安全保障はアメリカ任せだったし・・軽武装で、経済
 成長と、経済だけを謳歌しているだけで良いとしていた。
  その甘い時代は終わった。
  大衆文化の代表の美空ひばりも死んだ。
  戦後の終わりを感じさせた。
  そして、日本に大変な時代がやって来た。
・平成の社会史・・東日本大震災や原発事故から思うこと
 は・・
  「大きな技術は、皆、嘘だった」ということが露見し
 た・・「地震の予知がまったくできない」ということが
 分かっているのに、東海地震に金をかけてやった。
  東海は山ほどやったのに・・阪神・淡路の大震災が起
 き、東北大震災が起きた。
  完全な技術のミスだ。
  津波の予知のブイは、ほとんど東海地方にしか置いて
 なかった。
  東北地方も予知されていたがブイは置かなかった。
  そのブイで、津波の大きさが分かっていれば、消防団
 の方々が海岸で退避勧告をする危険性も予知できたし、
 その他の方々へその大きな津波の規模の危険性を伝える
 ことが出来た・・のに・・
  その犠牲者は15,000人の方々だ。
  予知ができないのに、今でも発生確率を発表している。
  『科学で地震の予知はできない』。
  「無いよりまし」な程度と思うか? まったく無駄と
 思うか?・・の話。
  この30年に起きた地震は、発生確率が5万分の1などと
 非常に小さく低い地域に発生している。
  予知を出すから問題が起きるのだ。
  下手に予知をするから、「見落とされたところの被害
 が大きくなる」のだ。
  しかし、その場所で、どのくらいの大きさの地震が起
 きるのか?は分かる。
  エネルギーの蓄積度が分かっているからだ・・
  だから、自治体から出ているハザードマップは非常に
 正確だ。
  それを見て、家の対策をすれば安全が確保できる。
  この様な事の周知徹底がなされていないという現状が
 ある・・それで知って、対策を事前に立てよ!・・
・原発事故について・・
  二つの大きな嘘がつかれた・・
  チェルノブイリは爆発するけど、軽水炉の原発は爆発
 しない・・
  それは、事故制御性と多重防御の二つの柱で事故が発
 生しないようにしている・・しかし、これは嘘だった・・
  専門家会議でも嘘が通っていた・・これは、今でも嘘
 をついた状態となっている・・
  この様な専門家の嘘が存在することが問題・・
  嘘をつかない専門家となることが大切なことで基本だ・・
  間違ったなら正直に言うのが大切・・次のステップア
 ップに役に立つ展開に持って行くのが大切・・これがな
 されていない・・
  この点、東北新幹線は、東日本大震災の時に、28両が
 走っていたが事故を起こさなかった・・
  これは、それ以前の新潟の教訓が生きていて、耐震策
 を行なったからだった・・
  300キロ/時で走っていたのが27両も居たが、事故にな
 らずに対策が生きた・・技術は正直に積み重ねるのが大
 切な基本・・(面子で嘘をついて糊塗するな!)・・
  今、運転している原発の安全性は大丈夫か?・・
  (技術上の)本当のことを言ったら、総ての原発関係
 の仕事から外された・・
  「官僚に周りを固められて動きが取れない」という答
 えが返って来た・・
  その様に言う本人にも覚悟がない・・責任者が国民の
 命よりも自己保身に走った・・勲章が貰いたいという意
 識が垣間見られる・・だから、真実を絶対に言わない・・
 (「それでも地球は回っている」とキリスト教裁判所で
 言ったガリレオの如く・・技術は、誠実に実施し、行動
 してこそ生きるのだ)・・
・オウム真理教の事件について・・
  日本の憲法の現状から、「日本は無防備状態」で来て
 いる・・
  オウムの事件は、テロ事件であるが、本当は、国防事
 件である・・
  本当は、軍隊レベルで対処しなければならない・・
  長野県のサリンの事件も、地方の警察が対処するには
 荷が重すぎる・・
  日本で使われた初めてのサリン事件で、警察で対処で
 きるものではない・・
  日本の軍がしっかりしていれば、軍が出て行ってしっ
 かり調べ、対処しなければいけなかった問題だった・・
  しかし、曖昧にしてしまった・・
  日本はこの様な体制が出来ていないという『大問題』
 がある・・
  国軍の必要性はこの様な点からもある(必要な憲法の
 改正)・・
  これから、「国民の生命と財産」の安全のために、逃
 げて通れるものではない・・
  オウムは、ロシアともやろうとしていた・・ロシアか
 らヘリコプターを買い、オーストラリアのウランを手に
 入れようとし、核爆弾の開発もしようとしていた・・
  日本の公安調査庁も不十分だ・・機能不全に陥ってい
 る・・
  破壊活動防止法:暴力主義的破壊活動を行う団体に対
 する規制措置を定めるなど、公共の安全を確保する事を
 目的とする法律・・
  この法律がありながら、必要な行動ができなかった公
 安調査庁だった・・
  国際的な感覚から「ずれている日本」・・世界はこの
 問題が最大の問題と捉えているのに、のほほんとしてい
 る日本の当事者や日本の公的担当機関・・
  また、国会でこの法律の議論が『タブー』とされてい
 る・・
  前向きな改善に進まない「最大の病根」となっている・・
  議論もできなければ、『言ってはいけないのだ』と言
 われる日本の国会となっている・・
  まともな行動がとれない元凶が「ここにある」・・
  諜報機関も日本にはない・・
  ちゃんとした情報を持ち得ない現況の日本は、「お手
 上げ状況にある」・・
  逆に、国会議員たちは束(たば)になって「発言者の
 口を封じをしようとする」という「異常さ」・・
  これから移民が日本に押し寄せて来るが、そして、色々
 な人が入って来るという日本であるが・・「その対応が、
 まったくできてない」という状況を「さらけ出している」・・
  相手に「好き勝手が出来ますよ」と言っているような
 もの・・
  スパイ防止法や特定秘密保護法を作ったが、この法律
 もまったく「骨抜きになっている」・・
  諜報活動がやり放題の日本・・国家としての日本が、
 その国家としての対応が出来ないという状態にある・・
  オウムの事例が生きていない・・反省をしているのか?・・
・政治・国際情勢編・・
 日本国内・・
  平成5年(1993年)自民党、55年体制に終止符・・細川
 連立内閣が誕生した・・細川護煕総理大臣が誕生・・
  平成13年(2001年)小泉純一郎総理大臣、小泉内閣発
 足・・郵政民営化、聖域なき構造改革、
  平成14年(2002年)拉致問題解決のため、北朝鮮へ電
 撃訪問・・
  平成17年(2005年)社会保険庁、年金記録問題、ミス
 ター年金の活躍、悪夢の序章、
  平成21年(2009年)民主党が政権奪取、鳩山由紀夫総
 理大臣、鳩山内閣が誕生、円高に誘導して企業の競争力
 がなくなり経済は大混乱に陥った、次の菅政権も酷かっ
 た、
  平成23年(2011年)3月11日、東日本大震災、菅政権の
 福島原発事故での酷い対応、菅内閣が大失態をする、失
 態続きだった、
  平成24年(2012年)第2次安倍内閣が誕生、アベノミク
 ス政策で経済が安定、
・国際情勢・・
  平成元年(1989年)ベルリンの壁が崩壊した、
  平成3年(1991年)ソビエト連邦が崩壊した、米ソ「冷
 戦」が終結した、
  平成5年(1993年)EU(欧州連合)が発足、通貨の統
 合、
  平成13年(2001年)9月11日、米国同時多発テロ事件、
  平成15年(2003年)イラク戦争の勃発、同時多発テロ
 事件の報復としてやった・・その後、国際テロ組織が乱
 立する、
  平成22年(2010年)尖閣諸島で中国漁船衝突事件
  平成24年(2012年)李明博韓国大統領が竹島へ上陸
・民主党政権は円高を放置して酷かった、企業の業績悪化
 で就職難になった、公約は何一つ守らなかった、消費税
 を上げた、政権交代で出来た民主党によって国民は悪夢
 を見た、
・郵政民営化・・平成17年成立、平成19年実施、
  小泉総理による行政改革の本丸で、郵政選挙に勝利し
 法案を成立させた。
  郵政三事業(郵便、簡易保険、郵便貯金)などを国か
 ら民間会社に移行した、
  民営化の1000頁の法案ができた・・「郵政民営化」以
 外は民営化ではない、水道の民営化も民営化ではない、
 地下鉄の民営化も民営化ではない、道路の民営化も民営
 化ではない、これ等のすべては「会社化」というもの・・
  株式も民間で、働く人も民間なら民営化で、これは郵
 政以外は無い・・
  株式は、国が持つものがほとんど、だから、民営化で
 はない・・東京の地下鉄も株式は国が持っている・・外
 資に郵政が盗られると言われたので、法律で盗られない
 様にした・・
  世襲制の郵便局員が「郵政民営化」に反対した・・郵
 便制度ができる時に協力し、資産を貸し、また、郵便業
 務に協力した人たちが世襲制となっている・・
  郵便事業は採算が合わない事業、だから、民営化は無
 理・・田舎の「人がほとんど居ない方たちへまで」郵便
 を届けなければならないという責任がある事業・・3割の
 年賀状で儲かるだけ、あとわずかなビジネス便だけ・・
 「郵政民営化」への執念が強かった小泉総理・・
・選挙制度・・実現しない二大政党制・・
  「選挙制度改革」は大失敗・・
  中選挙区制度から小選挙区制へ変わったのは改悪だっ
 た・・小選挙区比例代表並立制は駄目だ・・
  選挙制度改革:平成6年に公職選挙法が改正されて、衆
 議院の選挙制度が、中選挙区制から小選挙区比例代表並
 立制に変更された・・
  小選挙区制は、「執行部が絶対的な権力を持つ」制度・・
 公認の権利を持つ執行部・・
  小選挙区比例代表並立制は、有権者が1人2票を持ち、
 小選挙区と比例代表の2つの選挙を並行して行う。
  定数が465人で、小選挙区289人・比例代表176人・・
  1選挙区で1人が選ばれる一騎打ち方式なので、公認を
 受けないと絶対勝てないという選挙の状態になる・・そ
 のため、選挙に勝つには公認を貰うのが必須となる・・
  「その公認権を持つ執行部」に権力が生まれた・・
  執行部の言う事を聞かざるを得なくなる候補者となる・・
 議論などできない、自分の意見なんて言えなくなる・・
  自民党に派閥があるが、派閥のトップの力が落ちた・・
  派閥のトップで、総裁になろうとする人さえいない状
 態・・
  「議論が基本の政治」を駄目にした「選挙制度改革」・・
 自民党の活力も無くなった・・定数3の中選挙区制へ戻す
 べきだ・・
  二大政党制で、政権交代が出来る様にとして小選挙区
 制にしたが、その思惑は空振りだ・・
  国民の選択次第で代わるだけ・・
  金権腐敗政治の根絶を掲げた「選挙制度改革」でもあ
 った・・政党助成金を税金から出す様にした・・
  だからと言って、政党への企業献金を禁止してないと
 いうのが現状・・
・国際情勢について・・
  「1991年のソ連の崩壊」と「中国の興隆」・・
  1989年11月、ベルリンの壁崩壊だが・・、
  緊密な関係がある「ソ連の崩壊」と「中国の興隆」・・
  平成元年12月、マルタ会談:地中海のマルタで行われ
 た米国とソ連の両国の首脳会談。
  この会談をもって、44年間続いた東西冷戦は終結した・・
 ブッシュ大統領(父)とゴルバチョフが船上で会談した・・
  1990年8月、イラクのクエート侵攻・・
  1991年1月、湾岸戦争、中東への介入が泥沼化して行く・・
 この様な事が、30年間続いて・・
  2018年に、トランプ政権が、シリアからも、そして、
 アフガニスタンからも引くとした・・アメリカの30年の
 武器介入は終わった・・
  この30年間で、「漁夫の利で一番力を付けたのが中国」・・
 米中の対決時代となってしまった・・
  日本は、その中国の脅威にさらされるという状態とな
 った・・
  日本の経済力も、その30年間に下る一方で、中国に凌
 駕された・・
  ベルリンの壁崩壊が、世界に与えた影響は、良かった・・
  ソ連よりも全体主義の強い東ドイツが、平和裏に崩れ
 たのが良い・・史上まれに見る平和的な解決だった・・
  これは、世界の考え方も変えた・・
  資本主義と社会主義の対立軸の見方が崩れて変わった・・
  社会主義は明確に敗北した・・そして、ソ連の抑えが
 無くなった中東で暴れる者が出て来た・・
  ソ連崩壊で社会主義が駄目となり、市場主義万能とな
 った・・
  そして、ボーダーレス化し、自由化し、何でもよいと
 なった・・
  「ソ連崩壊」で急速に進んだボーダーレス化だった・・
  ボーダーレス・エコノミーで、貧しい人も豊かな人も、
 もっと豊かになれると思った・・しかし、違った・・
  グローバル化の大競争の時代に入った・・市場の取り
 合いもあって、一面、資本主義が元気な状況になった・・
  だが、ボーダレス化は良い面ばかりではない・・総て
 が「市場化すれば良い」というものでもない。
  体制の出来てない所に、その様な国を、無理に市場化
 したら弊害が起きる・・国境があるという状態で、経済
 をしっかりさせないと、「基本を作らないと駄目だ」と
 分かった・・
  それが分かった今・現代だった・・
  そして、米中の対立が始まったが、これは、「中国の
 態勢が崩れる」まで、アメリカは行なう・・
・出演者・・
  司会:上念司(経済評論家)
  西川史子(医師・タレント)
  武田邦彦(中部大学教授)
  筆坂秀世(元参議院議員・政治評論家)
  藤井厳喜(国際問題アナリスト・評論家)
  髙橋洋一(元財務省官僚・嘉悦大学教授)
  須田慎一郎(経済ジャーナリスト)
  杉原杏璃(タレント)
  脊山麻理子(フリーアナウンサー)
  大田明奈(タレント・舞踊家)
  眞鍋由佳(主婦)
.
2019年4月30日、ドイツ国民の半数以上が、難民に対して
 「否定的な感情を持っている」と、アンケートの調査結
 果で明確となった。
  この日の読売新聞によると・・ドイツの政治財団「フ
 リードリヒ・エーベルト財団」が25日に公表した難民に
 関するアンケート調査の結果・・
  54.1%が、難民申請者に対して否定的な感情を持って
 いると答えた。
  調査は、昨年・2018年9月~今年・2019年2月に、ドイ
 ツ国内の1890人を対象に実施された。
  ドイツでは、難民申請者が2015年に急増して約90万人
 に達した。
  2017年は(難民申請者が)約19万人に減ってはいるが、
 難民による暴行事件なども起こっていて、反難民感情が
 高まっている・・これがアンケート結果に浮き彫りとな
 った。
  旧東独地域では63.1%が否定的となっている。
  経済発展の遅れから、難民対応の予算を投入すること
 への不満も背景にある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

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