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(増補版)564E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年10月)

2017-11-10 03:31:47 | 日記
題:*(増補版)564E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年9月、ロシア皇帝のアレクサンドルⅢ世は、シベリア
 鉄道建設反対派の蔵相・ヴィシネグラツキー(1849年~
 1915年)を更迭した。
  この当時、ロシアは首相職がなく、蔵相職が事実上の
 政府の最高責任者だった。
  シベリア鉄道の建設計画は、1882年に、アレクサンド
 ル3世によって決定され、
  1891年から実行に移された。
  (全長8000キロに及ぶ膨大な計画で、建設費が巨額の
 ための着工遅れた)
  この時の蔵相がヴィシネグラツキー。
  このヴィシネグラツキー蔵相は、財政均衡を重視し、
 鉄道建設に、終始、難色を示して来ていた。
  しかし、皇帝は、人口の稠密(ちゅうみつ、ちょうみ
 つ、隙間もないほど多く集まっていること)状態の改善
 と、
  当時、中国において、イギリスとドイツが半植民地化
 して、美味しい汁を吸い、勢力拡大していた。
  これに、対抗して加わりたいとした(このロシアと、
 この後、日本はぶつかる)
  また、イギリスは、アムール河やウスリー河の地域を
 も侵略・拡大しつつあり、覇権を獲得しつつあった(中
 国の最大の植民地獲得国・イギリス)
  この地域の人口1200万に対して、ロシア人7万3000人
 (0.6%)という、ほとんど居ないという状況だった。
  しかし、ロシア皇帝は、鉄道敷設によって、この地域
 の領土確保をしたいとした。
  皇帝は、建設着工式に、皇太子のニコライ2世を出席さ
 せ、日本にも立ち寄らせ・・大津で暴漢に襲われる事件
 が起きた。
  ロシア経済は、急成長していたものの、まだ、植民地
 収奪の先輩の西洋列強諸国に比べると劣っていた。
  皇帝は、鉄道反対派のヴィシネグラツキー蔵相を解任
 し、鉄道建設を良く知るウィッテを蔵相に任命した。
1892年10月1日、小包郵便業務が開始した。
  小包郵便取扱(小包郵便法を実施した)
  日本は、郵便制度の超先進国で、日本において通信制
 度が現れたのは、伝馬などを利用して公用通信に供した
 「大化の駅制」だった(645年の大化の改新時に、唐にな
 らって日本は始めた)。
  この駅制は盛衰を続け、鎌倉時代に至って飛脚が出現
 する。
  戦国時代には、大名の書状送付に飛脚が頻繁に利用さ
 れるなどの発達を経て・・、
  徳川時代(江戸時代)には、幕府の整備により、武家
 や町人までもが利用できる飛脚屋・飛脚問屋などの制度
 が発達した。
  また、幕末期には、開国され、各国領事館も設置され、
 その公文書が蒸気船や軍艦によって運搬させた。
  また、日本国民の手紙も便乗させた(領事館郵便)
  そして、これが、業容を拡大し、独立の局舎を設けて
 専任の従業員を抱えた。
  これが在日外国郵便局で、アメリカ・イギリス・フラ
 ンスが、横浜・兵庫・長崎に持った。
  この在日局は、各国の郵便ルールに従った。
  切手販売、手紙引受、押印という基本的な業態が行わ
 れた。
  因みに、横浜の居留地では、サザーランド切手が使わ
 れた。
  明治時代に入って郵便となり・・、
  1870年5月、駅逓権正となった前島密が、太政官に郵便
 制度の創設を建議した。
  1870年6月、前島が上野大蔵大丞に差添し、渡英したこ
 とで、郵便制度創設の建議は、後任の駅逓権正・杉浦譲
 と各地の官史に引き継がれた。
  1871年1月24日、「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃
 銭切手高並代銭表」、「郵便規則表」等、郵便に関する
 一連の太政官布告が公布された。
  1873年、そして、特に、それまでの法制を改めた1873
 年の郵便規則が布(し)かれ・・、
  1882年、郵便条例・・そして・・
  1892年、小包郵便法が補完された・・そして・・、
  1900年、旧郵便法が、明治憲法下で公布され、統合さ
 れて、近代的な郵便法制が確立した。
  日本は、郵便事業は、大切な国家事業であるとの認識
 で精力的に進められて来た。
1892年10月1日、乗車綴切符取扱手続を制定し、施行した。
  「綴切符」は、1冊100枚つづりで、上・中・下等に共
 通して使用できた。
  乗車区間・運賃など、発売の都度、記入する方式だっ
 た。
1892年10月1日、両毛鉄道会社が、日本鉄道会社への業務委
 託を解除して、業務の自営を開始した。
  両毛線は、関東平野の北部を東西方向に結び、栃木、
 佐野、足利(あしかが)、桐生(きりゅう)、伊勢崎(いせさ
 き)、前橋などの都市を連ねているが・・、
  これ等の都市は、江戸時代から機業地(きぎょうち、
 絹・木綿その他の布を織る事業地)として知られ、
  この地域を相互に連絡する目的で、1888年~1889年、
 両毛鉄道によって開業した。
  (新前橋~前橋間の一部は、1884年に、日本鉄道によ
 り開業する)
  そして、日本鉄道への統合を経て、1906年に国有化さ
 れた。
1892年10月1日、シカゴ大学が開校した。
  アメリカのイリノイ州シカゴにある私立大学で・・、
  1890年に創立された。
  ロックフェラー財団の経済的援助と、初代学長ウィリ
 アム・レイニー・ハーパーをはじめ、歴代学長の識見や
 指導力によって急速に発展した。
  都市社会学を開拓・推進したシカゴ学派。
  初代総長W・R・ハーパーは、真の学術研究中心大学
 の創造を目ざし、学部課程のカレッジ教育、大学院教育、
 専門職業教育、地域社会へのサービス奉仕、大学出版部
 活動など、高等教育の活動と考えられるものはすべて大
 学に取り込もうとして取り入れ、研究重視の新しい総合
 大学の創造に尽くした。
  1896年、教育実験学校を設置
  1919年、オリエント研究所が設けられ、
  1920年代、シカゴ学派と呼ばれる都市社会学の研究者
   が輩出・・、
  1929年、30歳で第5代学長になった教育学者ロバート・
 R・ハッチンズ(1899年~1977年)は・・、
  古典による一般教育カリキュラムを導入、ジョン・デ
 ューイの教育実験学校の設置、四学期制の創始(クォー
 ター制)、成人のための公開講座やプログラムの開始、
 大学前期教育としてのジュニア・カレッジの考え方、女
 性に対する平等な教育や就職機会の開放(シカゴ・プラ
 ンによって特色あるカレッジ教育)を行なって、アメリ
 カ高等教育の先駆けとなったことから大学の名を高から
 しめた。
  大学の課程、研究分野として生物、自然、社会、人文
 などの科学領域 (学部、大学院共通) があり、大学院の
 専門部門として商学、神学、法学、医学、社会事業など
 がある。
  また、成人対象の経営など実学系プログラムも含む一
 般教養を学ぶグラハム・スクールも擁している。
  そして、学部課程よりも、大学院レベルの学生数が圧
 倒的に多い。
  図書館、研究所、病院などの諸施設を有し、成人教育
 講座、通信講座も置かれている。
  2003年現在、教員数2160人、学生数約1万3400人(学部
 課程の学生は約4400人)。
1892年10月4日、乾電池の発明
 世界で初めて、日本人の屋井先蔵(やいさきぞう)が、
 完全な乾電池を完成させ、特許を出願した。
  佐久間象山(1811年~1864年)は、すでに、日本人とし
 て初めて電池(ダニエル電池:液体式か?)を製作してい
 たが・・、
  1863年、世界に誇る日本人による乾電池の発明者:屋
   井先蔵が、新潟県長岡の越後長岡藩士屋井家に生ま
   れる。
  1869年(6歳)父が死去し、叔父に引き取られる。
  1875年(13歳)東京の時計店の丁稚となるが、病気の
   ため帰郷する。
    そして、修理工として年季奉公をした後、東京高
   等工業学校(現・東京工業大学)の入学に臨むが失
   敗。
    独力で永久自動機などの研究をする。
  1885年(22歳)電池で正確に動く「連続電気時計」を
   発明した。
    しかし、使用した電池が、液体式のダニエル電池
   などで、手入れが必要なうえ、冬場は凍結し、使え
   なくなった(乾電池の開発動機)
    日中の会社の仕事をしてから後の、夜に、電池開
   発を続けた。
    3年間の平均睡眠時間は3時間程度だった。
    東京物理学校(現:東京理科大学)の実験付属の
   職工ともなって頑張った(屋井は産学協同の先駆者
   とも言える)
    正極(+極)に薬品が沁み出し、金具腐食が起き
   て使えなくなることが問題だった。
    この点の改良に悩まされ、苦労した・・しかし・・
   炭素棒にパラフィンを含浸することにより解決策を
   見い出した。
  1887年(24歳)「乾電池」が発明された。
    しかし、日本における乾電池の特許の第一号は、
   屋井ではなく、高橋市三郎となっている。
    海外では、ドイツのガスナー、デンマークのヘレ
   センが、1888年に、乾電池の特許を取得している。
  1891年(28歳)「連続電気時計」が特許として認めら
   れた。
    (わが国の電気に関する初めての特許)
    また、この年に、繁(しげ)と結婚をしている。
  1894年(31歳)に、日清戦争が勃発し・・、
    ある日、発行された号外で、満州において使用さ
   れた軍用乾電池の大成功に関する記事が掲載された。
    従来の液体型の電池が使われていたら、満州の寒
   気で使用できなくなっていたが、
    乾電池であるから、満州の寒気に乾電池だけが使
   用できた。
    号外で、「満州での勝利は、ひとえに乾電池によ
   るもの」と報道された。
    新聞は、この乾電池が、屋井のものであることを
   聞きつけ、取材され、翌日の新聞にこれが書かれた。
  1910年(47歳)屋井乾電池販売部を、神田区錦町一丁
   目に新築して立ち上げ、同時に浅草神吉町に工場を
   設け、乾電池の本格量産にとりかかった。
    現在の乾電池のスタイルを確立していた。
    海外品との競争にも勝ち、国内乾電池界の覇権を
   掌握するまでに発展し、「乾電池王」とまでうたわ
   れるようになった。
  1927年6月1日(63歳)若いころからの刻苦勉励がたた
   ったのか? 屋井は、胃がんに侵された。
    そして、急性肺炎を併発して急逝された。
   (享年63歳4か月だった)
    残念なことに、屋井乾電池は、後継者を得なかっ
   た・・そして・・
  1950年(昭和25年)屋井乾電池の名が、乾電池工業会
   の名簿から消えてしまった。
  2014年、世界最大の技術者団体、電気電子技術者協会
   であるIEEEマイルストーン(IEEE=The Institute
   of Electrical and Electronics Engineers 、本部
   米国)が、この年、屋井先蔵らの栄誉を顕彰した。
  尚、エピソードとして、要確認情報だが・・、
  発明にしたにもかかわらず、貧乏のため乾電池の特許
 を取得はできなかった。
  (特許取得料が高額で出願できず・・もし、世界特許
 に出願していたら、日本に特許料が入り、国も潤ってい
 たであろう)
  また、乾電池を発売した当初、大半の世論は「乾電池
 などという怪しいものが正確に動くはずがない」という
 見方で、屋井先蔵の乾電池は全く売れなかった。
  さらに、持病の為に寝込む日が続き、生活は貧窮を極
 めた。
  さらに、屋井先蔵の乾電池の価値を知った外国人が、
 万博にて自分が発明したものだと主張したため、しばら
 くの間、世界で最初に乾電池を発明したのが、屋井先蔵
 であると認知されなかった。
  (電池工業会のホームページなどを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:北朝鮮の核とミサイルは完成している・・日本は、完全に射程範囲内に入っている。
  この核抑止力の為・・アメリカの原潜と核ミサイルを乗員ごと、とりあえず1隻・・買え!!
.
紀元前1200年頃、ペトラ遺跡
  エドム人がペトラ付近に住み始めた。
  1985年、ユネスコの世界遺産に登録された・・、
  また、2007年、新・世界七不思議に選出された。
  ペトラ遺跡は、ヨルダンにある遺跡。
  死海とアカバ湾の間にある渓谷(岩礁地帯)にあり、
 自然の崖にある要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を
 防ぐのに適している所)となっている。
  紀元前1200年頃から、エドム人たちがペトラ付近に居
   住した。
  紀元前300年頃に、文化が発祥・・、
  紀元前1世紀頃から、立地条件の良さから、古代ナバテ
   ア人の有力都市として栄えた。
   エドム人たちは、南へとナバテア人たちに追いやら
   れた。
   ナバテア人は、アラビア付近の貿易を独占し、栄え
   た。
  紀元前64年、ローマのポンペイウス将軍に、ナバテア
   人は支配下に置かれた。
   ローマは、ナバテアの自治を認め、課税した。
   ローマ風建築の造営が始まった。
  紀元後105年、ペトラが反乱を起こすが(武力の格差)、
   ローマに降伏させられる。
  紀元後106年、ペトラとナバテア人は、ローマの属州と
   して完全に組み込まれた。
   この頃から、墓を使わなくなる。
  紀元後365年、地震が起き(363年説あり、ガリラヤ地
   震)、多くの建物が崩壊し、また、水路網も破壊し
   た。
   この後、キリスト教を受け入れ、キリスト教に改宗
   させられる。
  5世紀初め、大洪水が起きた。
   完全な岩礁地帯であるので、農業は出来ない。
   また、雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内をその水
   が流下(りゅうか、流れ下ること)して行った。
   都市は流された。
   ナバテア人はダムを作って対策を取った。
  6世紀後半まで生存した。
   水道管を通して給水設備を作り上げた。
   ナパテア人は、砂漠に水を引くことで農業が可能と
   なった。
   雨水を貯水した。
   テラコッタ(粘土で作った素焼きのもの)によって
   水を浸透しにくくして貯水し、また、水を通した。
   王宮には巨大なプールがあった。
  663年、イスラム帝国によって征服された。
   ペトラは、次第に衰退へ向かう・・、
  748年頃(749年説あり)また、ガリラヤ地震が起きた。
   大きな被害が発生し、ついに、ナパテア人はペトラ
   を断念し、放棄する。
  1812年、スイス人探検家(ルートヴィヒ・ブルクハル
   ト)が発見し発表した。
  20世紀初頭から発掘調査がなされ始めた(現在も続行
   中)
  2014年現在でも、なお85%が未発掘となっている。
   荘重(そうちょう、厳かで重々しいこと)な東側入
   口は有名、宝物殿(エル・カズネ)、列柱通り、ロ
   ーマ劇場、宮殿の墓、北の壁、大神殿、凱旋門、翼
   を持ったライオンの神殿、博物館、砕石場、水路、
   ダム、ローマ兵の墓、べビのモニュメント・・など
.
19世紀、欧米列強は、自分たちの植民地の卑劣な虐(いじ)
 め支配を、歪曲した言い方で正当化した。
  19世紀は、「重荷を担った白人」とか、「未開民族の
 啓蒙」とか・・という言葉で正当化し、この言葉が新聞
 紙面に踊った。
  20世紀になると、「解放」とか、「後進地域の自決権
 と民主化を行なってあげた」だった。
  いずれの時も、自分たちの搾取の行為を、勝手に、ま
 た、都合のよい言葉で正当化し、自分たちの利益を
 道的行為で得ていた。
  そして、アメリカは、第二次世界大戦後、日本を「元
 の島国に戻すという方針の目的を持った」。
  そして、アメリカは、中国を、ロシアの対抗勢力にし
 ようと考えた。
  アメリカの勝手な「やりたい放題」だった。
  そして、世界へ向かって「日本は、狂暴で貪欲だから
 だ」と説明し、アメリカは正当なのだと宣伝した。
.
1897年11月、中国の山東省で、ドイツ人カトリック宣教師
 が殺害された事件を口実に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
 が山東省に派兵し、膠州湾を占領し、そのまま清政府か
 ら同地を租借地として奪った。
.
1905年7月、アメリカの黒人の方々の解放へ向けての活動で
 ある「ナイアガラ運動」の第1回会議が開かれた。
  これは、アメリカにおける公民権運動の先駆となった
 運動で・・、
  アメリカの黒人社会運動家W・デュ・ボイスの呼びか
 けだった。
  教員や編集者などの急進的な黒人の代表者の方々が、
 黒人の権利獲得のために、黒人を組織化しようとした。
  第1回会議は、1905年7月に、ナイアガラ瀑布付近のカ
 ナダ領フォートエリーで・・、
  W・デュ・ボイスら黒人知識人が集まり・・、
  すべての黒人の方々が、差別反対運動を展開すること
 を訴える宣言をした。
  そして、人種や、皮膚の色に基づく差別の撤廃、成年
 男子の普通選挙権、教育の機会均等などを発表した。
  第2回会議は、翌年・1906年8月に、J・ブラウンの蜂
 起の地であるバージニアのハーバーズフェリーで行われ
 た。
  そして、黒人の方々のための完全な人権の確立、公共
 施設における差別の撤廃、だれとでも交際できる権利の
 獲得、黒人保護のための効果ある法律の制定、子弟の教
 育の保障を要求をした。
  1909年、資金難やワシントン派との抗争などの影響で、
 運動体としては大きく成長できず、この年、全国黒人向
 上協会の前身にあたる全国黒人委員会に合体することに
 なった。
  組織としては発展的解消ということになった(1910年
 説あり)
  組織体の解消とはなったが、その果たした役割は大き
 かった。
  この「ナイアガラ運動」という知的な黒人の方々によ
 って、黒人差別制度に対する抵抗運動を起こしたことは、
  また、「近代的な黒人解放運動家」が、少数だが、再
 び、戦闘的積極的な黒人の方々が立ち上がって行った。
  また、1881年には、アラバマ州のタスキーギに、黒人
 の方々のための「職業教育の大学」が創設された。
  徳性のある中産階級の黒人の方々が生まれ、白人と尊
 重し合う階層の人々が生まれることを目指した。
.
1906年、アメリカのサンフランシスコ市の教育委員会が、
 日本人や朝鮮人学童の隔離教育を決定した。
  極東の異人種に対する卑劣な隔離政策。
.
1910年8月、日韓併合
  日本は、アメリカやイギリスが、植民地支配としてア
 ジアでやっていた略奪一方の植民地搾取行為と違って・・、
  日本が、朝鮮・韓国でしたことは・・、
  朝鮮・韓国社会に役立つこと、社会インフラの巨大投
 資をするなど、多岐にわたって行った。
  しかし、韓国は、なんだかんだと日本を貶(おとし)
 める。
  ダムを作り、鉄道を引き、学校などを建てて教育制度
 を充実させ、行き渡らせたりなどなど・・その日本の貢
 献をまったく評価しないで無視する・・逆に、日本を貶
 める。
  2014年の韓国の教科書には、ありもしない記述がなさ
 れている。
  それは、「鉄道建設のための用地買収に応じない反日
 地主を捕らえ公開銃殺をした」と、感受性の鋭い子供た
 ちの教科書に、この様な嘘記述をした・・、
  これは、まったく根拠のない嘘話であり、作り話であ
 る。
  何で、今まで、「徒歩で行かなければならない所」を、
 鉄道敷設をして、「すぐに行けるようにしますよ」と言
 われて反対し、死ぬ様な事までの行為をするのか??
  本『歪められた朝鮮総督府』には・・、
  「総督府が、民衆や義兵を、実に十万人単位で虐殺し
 た」という嘘があると記したものだが・・、
  なぜ日本人は、韓国人ばかりを虐殺したのか、他地域
 では起きていないことを、「した」というのか? その
 原因など・・どう考えても理由がわからない。
  この韓国の虐殺話は嘘で、作り話なのである。
  十万人単位の虐殺の記録が、『まったくない』という
 状況なのである。
  しかし、韓国は、「虐殺された、虐殺された」の話だ
 けが存在するという状況にしている。
  感謝の「かの字」もない。
  その膨大な死体は・・どう処理されたのか?
  ナチスのようにその処理場が必ずある訳だ。
  そして、その処理場があって、行為があったと言える
 のだ。
  その様な事の立証も、証明も、韓国は出来ない。
  特殊な処理工場や大きな遺構など、なんでも韓国は立
 証できるはずなのだが、その立証行為もできないし、立
 証しようともしない。
  ただただ、日本に対して悪口を言うだけ・・、
  韓国の言うその虐殺人数の痕跡が何もないという事は、
 ただ、嘘を言うだけ、デッチ上げを言うだけとしか言え
 ないこととなる。
  韓国という国は、昔からこの様な国なのである。
  日本がそれをしたというなら、日本側にその特殊部隊
 が居る訳だ。
  半端な数ではない、その人数は、昨日・今日、殺され
 たという程度の話ではない、行為ではない、そんな簡単
 にできる行為ではない。
  韓国の誠実な立証行為が必要な話なのだ。
  万単位の人間の死体が埋められたというなら、必ず分
 かる人数で、規模なのだ。
  発掘すれば多くの、大量の遺骨が出る訳だ。
  その、何一つ、韓国は立証していない、立証できない
 事という話に、これまでの時間の流れが立証している。
  そんなウソ話を、韓国は、子供の教科書に記述して、
 何も知らない子供を繰っている・・洗脳している。
  日本に対する嫌悪感を、ただただ、植え付けている・・、
.
1910年、日韓併合について、アメリカとイギリスは反対も
 しなかった・・それは、条約による正式な「双方の合意」
 に基づくものとの当然の見方をした。
  世界も、当然、その見方であった。
  しかし、嫌日国家の韓国は、その様には考えない。
  アメリカとイギリスは、逆に、日本に朝鮮(韓国)に
 『居てもらいたい』と考えていた。
  積極的な「日韓併合・賛成論」なのである。
  ロシアが、朝鮮(韓国)に居る事が許せなかった。
  また、朝鮮(韓国)自身も、また、中国も、西洋勢力
 が朝鮮(韓国)に居るより、日本が居る方が良いとした
 事実があった。
  そして、「西洋勢力から遠ざかりたい」とした。
  それまでの欧米列強のえげつない収奪に辟易していた。
  また、アメリカ・イギリスの本当の狙いは中国であっ
 て、朝鮮(韓国)はどうでも良かった(美味しい中国だ
 けで十分だと)
  その証拠に、1870年代半ばまで、朝鮮(韓国)は、何
 ら、欧米列強と関係のない状態に置かれていた。
  関心外の朝鮮(韓国)だった。
  日本は、その間、数々の戦いを列強各国と行っていて、
 痛い目に会い、罰の大金を払わされていた。
.
1910年8月、日韓併合のこの頃、「日朝同祖論」という思
 想が日本に風靡した。
  そして、日本では、朝鮮(韓国)人との結婚を奨励し
 たりした。
  朝鮮(韓国)を特別に大切に扱おうとして、『血縁共
 同体』を強調した。
.
1910年8月、日韓併合がなされて、朝鮮(韓国)の内政は、
 正されて行った。
  それまでの韓国の国内は乱れに乱れていた。
  アメリカ人のハルバートは、本「朝鮮滅亡」に書いて
 いる・・
  「裁判は、金の力で正義の秤(はかり)が上下する」
 と・・、
  また、「文明国なら、たちまち民衆の反乱を呼び起こ
 すに相違ない様な不正かつ野蛮な事件を見聞きしないで
 済む日はない」と・・云々・・とある。
.
1911年、辛亥革命(しんがいかくめい)で清朝が滅んだ。
  ラストエンペラーの溥儀(ふぎ)が紫禁城を追われ、
 中華民国が生まれた。
  しかし、いくつもの軍閥が入り乱れて勢力争いをする
 という乱れた状況となった。
.
1919年11月7日、日本が、日本委任統治領「南洋群島」を、
 ヴェルサイユ条約の批准によって委任統治を開始した。
  (~1945年8月15日まで、ポツダム宣言受託により領有
 権を放棄したとされている)
  第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約(
 1919年6月28日)によって、日本が委任統治をする事にな
 った。
  日本は、南洋庁を置いて、島々を開拓し、産業の扶植
 を行なった。
  そして、学校を建て、教育も行った。
  第一次世界大戦では、アメリカは、日本にドイツと戦
 いなさいと言って、ドイツが敗れるとドイツの持ってい
 た太平洋上の島々(南洋群島:北マリアナ諸島、パラオ・
 マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)を日本にくれた。
  国連のお墨付きの承認の日本の委任統治領となった。
  しかし、この様なアメリカは、第二次世界大戦の後は、
 アメリカは、日本のこの領土を得た。
  アメリカ信託統治領「太平洋諸島」とした。
  そして、アメリカは、終戦後すぐに、ビキニ環礁にお
 いて、原子爆弾の実験をし、放射能で汚染した。
  そしてまた、その後、水爆実験場ともして、幾度とな
 く核実験の放射能汚染で、住民の方々を泣かす様な行為
 をした。
  悲しいかな、住民の方々は、核アレルギーの精神疾患
 を持つ様な方々にされてしまった。
.
1922年2月6日、九カ国条約(ワシントン)
  ワシントンでの会議によって・・、
  第一次世界大戦で、日本は、ドイツに対してアメリカ
 と共に戦ったが・・、
  そのドイツから得たドイツの中国権益の返還などを・・、
  この時、後になっての1922年に、アメリカなどから求
 められた。
  ドイツの権益を得る時、日本は、国際法上においての
 問題もない「中国との条約」を交わしていた。
  日本は、条約で、中国の主権を尊重し、領土保全と門
 戸開放も確認し、機会均等も確認してもいた。
  この時の「山東省のドイツ権益(膠州湾)」の返還な
 どが求められ・・決められた。
 この九カ国は、アメリカ・イギリス・フランス・イタリ
 ア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国・・そして、
 日本の九カ国だった。
  何で、条約で「いいですよ」と了解した中国が居るの
 だ・・と言いたい・・アメリカの命令・・、
  アメリカは、中国の大都市に大租界を持ち、軍隊を駐
 留させ、中国の河川や海上に自国・アメリカの砲艦を遊
 弋(ゆうよく、艦船があちこちを航行すること)させて、
  そして、治外法権の特権を持っていた。
  そして、中国以外にも、アジアのあちこちに覇権を持
 つ第一の大国だった。
  また、中国での勢力権を持って支配していた。
  国際連盟は、日本と満州との結びつきについて、何ら
 非難するという事もなく認める形にあったのだが・・
  つまり、アメリカは、れっきとした中国の大覇権国で
 あり、アメリカより狭い日本の満州との関わりに、非難
 が起きる状態ではなかった。
  この様な日本を、アメリカは、「日本が侵略した、侵
 略した」と称した。
  日本が侵略国なら、アメリカこそ「大侵略国」だった。
  つまり、アメリカは、アメリカの勢力圏だと思ってい
 た中国に、日本が来て・・「その日本が目障りとなって
 来ていた」。
  また、日本の勢力圏を取りたいためもあった。
  そこには、「まだ弱小国である日本」が、中国に勢力
 圏を持ったという蔑視観もあった。
  日本が、アジアの小国が、西洋列強の様な事をやった
 という面を咎(とが)めた。
  アジアの民族が、そのアジアに、勢力圏を持つという
 怖さもあった。
  歴史的には、「アメリカ・イギリスによる膨張する日
 本を抑え込む行動」と記されている。
  幕末に、「列強の連合」に押え込まれた日本であった
 が、この時も、この状況の様に、日本は、また、抑え込
 まれる立場に置かれた。
  また、この時、アメリカが合意し、アメリカとの間で
 交わされていた石井・ランシング協定も破棄された(手
 のひら返し)
  この九カ国条約は、「アメリカの外交上の勝利」と言
 われた。
  しかし、この条約の卑劣な所は・・また、劣った所は、
 『チベット人、トルキスタン人、モンゴル人、満州人、
 回教徒の方々などの存在を無視し、このすべてを、漢民
 族に与えた』ところにあった。
  これ等の民族の方々の「独立権をも無視した」・・
  これが、今・現在においても、虐げられ、苦しめられ
 ている状況が、今なお続き、現出し、その苦悩が極まっ
 ている。
  アメリカなどの列強の「欲得で世界をいじくった」『
 未解決の大きな罪』となっている。
.
1922年11月13日、アメリカ連邦最高裁判所が、「黄色人種
 (日本人を指している)は、『帰化不能外国人』であり、
 帰化権はない」とする判決を出した。
  まったく、驚くべき破廉恥な判決である。
  人種差別の悪が極まった判決である。
  この様な判決を出す国自体をさえ軽蔑する。
  この判決は、『すでに帰化した日本人の権利』まで剥
 奪できるとした。
  また、第一次世界大戦で、アメリカ兵として従軍し、
 死を賭して戦った日本人移民(日系アメリカ人)にまで
 帰化権を(時を遡って)認めず、剥奪した。
  (注)法律を、時を遡って適用するという事はあり得
    ない行為・・
  この時の判決の趣旨説明は・・
  「1790年当時の(帰化)法の立案者が考えたことは、
  アメリカに居住していた黒人やインディアンを除外す
 る目的で作られたが、
  これら2人種だけを、当時は除外の対象としていたとい
 うのは真実かもしれないが、
  法律立案者の意図が、その2人種だけに限られると解釈
 するのは法の肯定的形式を無視することになり、
  本規定は、黒人とインディアンを除外すると言ってい
 るのではなく、
  実質的に、自由白人のみを「帰化権有資格者」に含め
 ると言っているのであって(白人優越思想)、
  つまり、法の意図するところは、建国の父が白人とし
 て認めていた人のみに市民権を授与し、
  逆に、それに当てはまらない何者にもこれを拒否する
 という事だ」・・と・・、
  さらに、アメリカは、『ケーブル法』を制定し、二世
 女性にまで直接的な攻撃を加えた・・、
  ケーブル法は、いかなるアメリカ人女性でも、「帰化
 不能外国人」と結婚した場合、「アメリカ市民ではなく
 なる」と規定した。
  (市民権剥奪で脅して、白人女性の日本人との結婚を
 否定し、拒否した)
  そして、またさらに、アメリカは、1924年に、さらに
 さらに『異常な法律』を制定する。
.
1933年9月、フランクリン・D・ルーズベルト(第32代アメ
 リカ大統領、在任期間:1933年3月4日~1945年4月12日)
 の言葉・・、
  「朝鮮(韓国)の独立は、その戦略的位置に鑑(かん
 が)み、日本の死命を制する大事であった。
  したがって、日本は、朝鮮(韓国)が名実ともに独立
 する事を心から願っていたのである。
  しかしながら、独立は悪政に潰された。
  朝鮮(韓国)国民の能力を超えるものであった。
  朝鮮(韓国)が、中国、または、ロシアの手に落ちる
 のを防ぐため、日本は二度の戦争を経て、朝鮮(韓国)
 を保護下に置くことを宣言した。
  この実験は失敗した(戦争には勝ったが・・)。
  そこで、1910年に締結した併合条約によって、日本は、
 (朝鮮・韓国の)廃墟の上に新しい朝鮮(韓国)を建設
 する責任を担ったのである」。
  水野錬太郎「現代の日本」1933年9月
.
1940年、アメリカが、中国に武器・弾薬を渡していたが、
 その「援蒋ルート」が、日本軍によって、1940年の北部
 仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐によって遮断された。
  アメリカは、1937年の日中戦争が始まって以降、秘密
 裏に、中国・国民政府(蒋介石)軍へ武器・弾薬などを
 援助した・・、
  また、後に、秘密裏に参戦もして、日本軍と交戦して
 いた。
  時を遡って、この事を見てみると・・、
  第一次世界大戦の後、世界一の経済大国となったアメ
 リカで、1929年、株価が大暴落し恐慌が起こった。
  不況の波は世界中におよび、怖(おそ)ろしい世界恐
 慌となった。
  悲惨な世界恐慌の嵐にもまれて日本は苦しんだ。
  この恐慌の後、日本国内に、ドイツやソ連のような国
 家体制の下での統制経済を理想とする風潮が広がった。
  また、1933年頃から、広大な植民地を持っていたイギ
 リスやフランスなどは・・経済のブロック化を行なった。
  イギリスやフランスなどは、本国と植民地との経済的
 な結びつきを強め、その経済圏の内部で重要な商品の自
 給自足を図りつつ、高い関税をかけて圏外の商品を締め
 出すブロック経済の政策をとった。
  日本は、この後、このブロック経済から締め出される
 という卑劣な虐(いじ)めに会う。
  また、さらに、ABCD包囲網という卑劣な連合体制
 で、よってたかって経済的孤児とされた。
  大切な物品の輸入が出来ない状況とされた。
  まったく、国が存立の出来ない状況に置かれ、このた
 め、自衛のための戦争をせざるを得ない状況に追い詰め
 られて行った・・第二次世界大戦へ至る道へ追い込まれ
 て行った。
  日中戦争においても、アメリカは、中立を守っている
 風を装った・・が・・、
  卑劣な事に、中国・国民政府(蒋介石)を秘密裏に支
 援していた。
  蒋介石を援助するルートという意味の「援蒋ルート」
 があった。
  援蒋ルートには、仏印ルート、ビルマルート、香港ル
 ート、ソ連ルートがあった・・、
  後になって、隠せなくなってアメリカは、公然と支援
 を行なうようになった。
  これも、アメリカと日本との戦争の原因の一つとなっ
 た。
.
1941年、日本と第二次世界大戦を戦うという「この年のア
 メリカ」であったが、この様な時にも、盛んに私刑(リ
 ンチ)をして、黒人の方々を死刑にするという卑劣なア
 メリカがあった。
  黒人の方々の・・何と多くの血が、流された事であろ
 うか??
  黒人の方々は・・、黒人の方々への差別を無くす法律
 を、アメリカ国内に成立させて来た。
  本当に誇らしい歴史を刻んで来た。
  リンカーンなんかじゃない・・黒人の方々の努力だっ
 た・・命をかけた戦いだった。
  このアメリカが、外国へ法を説く時には、「民主主義」
 を説いた。
  ・・が、しかし、このアメリカの民主主義が分からな
 い国には、アメリカは、『正義をかざして』、「武力を
 行使する」ことまでして、「アメリカの民主主義を強制」
 した・・それが『正義なのだ』と称した。
  しかし、自国・アメリカ国内の黒人の方々に対しては、
 この民主主義の『民』さえない状態だった。
  黒人の方々を、暴力で殺戮する白人・アメリカ人で組
 織される集団が、いくつもできるというアメリカだった・・
  そして、アメリカ国内のあちこちで、黒人の方々の殺
 戮行為が横行した。
  アメリカ国内に、その国土に、風土の中に、この様な
 状況が定着していた・・軽蔑すべき状況だった。
  白人優越=黒人蔑視の人種偏見の社会だった。
  キリスト教の教義・考え方「有色人種蔑視」に洗脳さ
 れ、大々的に宣伝されていた。
  また、社会は、絶えず暴力を扇動し、黒人の方々を迫
 害するという状況だった。
  私刑(リンチ)が絶えず行なわれるという、「卑劣な
 死刑が行われる」という卑劣さであった。
  1890年~20世紀初頭が、その中でも特に酷かった。
  1882年~1947年の期間を、ざっと調べただけでも3426
 件のリンチがあった。
  凄まじいリンチ社会だった。
  アメリカが、日本に戦争・第二次世界大戦を仕掛けた
 1941年も、アメリカという国は、盛んに有色人種への
 蔑視から来るリンチをする社会だった。
  また、アメリカを動かす「アメリカ北部」。
  その中心的な位置にいる「アメリカ北部資本家」。
  独占段階に達したアメリカ資本主義。
  たんに黒人の方々を搾取するのではなく、労働者階級
 全体を搾取していた。
  その為に作りだされた法制的、暴力的、イデオロギー
 的なアメリカ特有な収奪体系で社会は動いていた。
  この差別の風潮は、北部諸都市の雇用、住宅をはじめ
 様々な所で現れた。
  「ジム・クロウ」という言葉がはやった。
  (参考)1896年、アメリカ最高裁判決:「隔離は差別
     ではない」「隔離すれども平等」と判決した。
      この判決の考え方・理屈で、差別が合法とさ
     れて、差別が、全国的に堂々となされるアメリ
     カ社会であった。
      卑劣なアメリカ社会は、このジム・クロウ制
     度が、黒人の方々への差別の法体系として全面
     的に発展した。
      そして、長期間に渡って続いた。
      ホテル、学校、キリスト教会、病院、映画館、
     レストラン、バス(乗り物)、トイレ、投票権
     など、あらゆるところで、入場拒否、隔離行為、
     差別などが行なわれた。
      公立学校でさえ差別された。
      キリスト教徒の新島襄が、日本に居る時、美
     しい話をキリスト教宣教師に言われて、アメリ
     カに行ったが・・有色人種の日本人の新島襄は、
     卑劣な人種差別に会い、まったくキリスト教と
     アメリカという国に失望する。
      ほとんどすべてのキリスト教会も、厳格な人
     種隔離の原則を採用するというアメリカだった。
      この卑劣な判決があって、黒人の方々の運動・
     行動もまったく正当化されなかった。
.
1948年1月6日、アメリカ陸軍長官ロイヤルが、演説中「日
 本を反共の砦(壁)にする」と発言した(反共・封じ込
 め政策開始)
  1948年6月、ヨーロッパでは、共産勢力の台頭を防ぐた
 めマーシャルプランが発令された。
  また、日本については、日本と他のアジアの労働者の
 質を現実的に比較して、
  日本の工業施設を、戦後賠償としてアジアに移転させ
 てしまうより、役務賠償や日本で生産した工業製品によ
 る現物賠償が有力という現実的な判断が深まり、日本製
 造業の見直しの機運を盛り上げた。
  さらに、日本の経済的自立の立ち遅れが、アメリカの
 占領費用負担に繋がるという納税者の論理も働いていた。
.
2016年7月6日、読売新聞(2016・7・6)によると・・、
  中国は、財政が困窮するギリシャの最大の港(ピレウ
 ス港)を買った。
  そして、このたび、この港を活用した経済協力の拡大
 で両国は一致した。
  「地中海最大のコンテナ積み替え港にしたい」と、中
 国の習近平国家主席は述べた・・と読売は伝えた。
  「本音は、中国艦船の軍港として使いたい」と言われ
 ている。
  中国の世界戦略の中のヨーロッパ地域の拠点となる。
.
2017年11月1日、韓国が、ユネスコの『世界の記憶(世界記
 憶遺産)』に申請した『慰安婦問題の関連資料』の登録
 が見送られた(読売新聞、2017年11月1日)
  日本政府は、「適切な対応がなされた」と評価した。
  2015年には、これも嘘の「南京大虐殺の文書」が、中
 国の申請で登録されるというミスがあったばかり・・、
  これは、審査の中立性や透明性のない中での登録だっ
 た。
  今後、当事者間で、事実関係や歴史認識について、見
 解が異なる案件は、話し合いがまとまるまで審査を保留
 することになった。
  慰安婦問題について、韓国は、『慰安婦問題の真実を
 未来の世代に伝え、不幸な出来事が再び起きないように
 教育する努力」が政府の責務で、登録に向けて「外交的
 努力を続けて行く」と表明した。
  韓国政府は、韓国政府が音頭をとって、韓国の若い女
 性方たちを組織して、外資を稼ぐため、慰安所を作って、
 売春行為を韓国政府の官制で行わせて来た。
  不幸な出来事が再び起きないよう、未来へ伝えるため
 教育する努力が政府の責務と言うのならば、この長く続
 いた韓国政府の外貨稼ぎの官制慰安所の話もユネスコへ
 登録申請をすべきであるし、また、韓国の小学生の教科
 書にも書くべきである。
  また、韓国は、冊封下にあった中国に、長い期間、
 慰安婦接待を常にして来た韓国政府の行為をも教えるべ
 きであり・・、
  また、アメリカ軍への慰安婦所を作って、長い期間、
 韓国女性方たちへ外貨稼ぎをさせたことも、また教科書
 に書くべきだし、
  また、ベトナム戦争時の韓国兵のベトナム女性への行
 為などもユネスコへ申請し、かつ、小学生や中学生など
 へ教育の努力を、その様に言われるのなら・・おやり下
 さい。
  この様な、女性の人権を踏みにじる行為を、数々、韓
 国政府もろともやって来ましたと教育しなさい。
.
2017年、北朝鮮の核とミサイルは完成している・・日本は、
 完全に射程範囲内に入っている。
  この核抑止力の為・・、
  アメリカの原潜と核ミサイルを乗員ごと、とりあえず
 1隻・・買え!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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