はなこのアンテナ@無知の知

たびたび映画、ときどき美術館、たまに旅行の私的記録

(5)母なる証明(原題:Mother,韓国)

2009年11月01日 | 映画(2009-10年公開)
「究極の母性愛」に恐怖するも、共感する自分がいる

 久々に映画の感想を書いてみようと思う。選んだ1本は韓国映画『母なる証明』。韓国の鬼才、ポン・ジュノ監督の最新作である。監督が「韓国の母」と呼ばれるベテラン女優キム・ヘジャの「美ぼうの内側に秘めた感情の激しさと繊細さにインスピレーションを受けて企画した」(2009.5.19シネマトゥデイ記事)作品らしい。

 とにかく、先ずキム・ヘジャ演じる「人目も憚らず息子を溺愛する母ありき」の作品。この母の人物造形があまりにも特異で、冒頭から印象が鮮烈。

 究極の母子愛を描くべく、この「強烈な母」の息子役に選ばれたのは、兵役後本作で本格復帰の人気俳優、ウォン・ビンである。

 5年と言う長いブランクを経て再登場した彼は、ファンが彼に対して常々抱いていた、或いは期待しているイメージを敢えて壊すような役柄に挑んでいる。そこにウォン・ビンの復帰への並々ならぬ意気込みを感じて、個人的には好印象。

 ポン・ジュノ監督作品は『殺人の追憶』『グエムル-漢江の怪物』と見て来たが、1作ごとに違う作風で、今回もどんな作品かと期待したら、昔からよくある「母もの」と来た!しかし、そこは奇才ポン・ジュノ監督。描いているのは、従来の「清く、正しく、美しい母性愛」ではなく、「力強くもエゴ丸出しで、他人のことなどお構いなしの特異な母性」なのだ。その身も蓋もないえげつなさが、母性と併存する人間の本性の負の部分を率直に描出していて、理想像を求めて止まない美談仕立てよりも、却って胸に迫るものがある。


 物語は、韓国のとある田舎町で起きた殺人事件を巡るサスペンスだ。その中心に据えられたのは、薬草の加工、販売で細々と生計を立てる、貧しい母ひとり子ひとりの家庭。母(キム・ヘジャ)は、知的障害のある息子トジュン(ウォン・ビン)をひたすら溺愛している。その溺愛を一身に受けるトジュンはと言えば、遊び仲間のジンテとつるんで度々警察沙汰を起こすものの、周囲には理解者も少なくない。

 そんな彼がある日、町で起きた殺人事件の容疑者として逮捕される。

 田舎町で久しぶりに起きた凶悪事件に、不謹慎にも色めき立つ警察や町の人々。衆人環視の中、執り行われる実況検分。ズサンな田舎警察の捜査。母の切なる訴えにも、真摯に取り合おうとしない弁護士。度重なる面会時のやりとりでも、一向に判然としない息子の事件当日の記憶。そんな状況の下、息子の無実を信じて疑わない母は、自ら真犯人の究明に乗り出す…


 思い起こせば2年前の韓国周遊旅行は、釜山を起点にソウルまで、ワゴン車を駆って4日間で韓国に点在する世界遺産を巡る旅だった。後半のソウル及びその近郊は殆ど雨に祟られた為、比較的天気に恵まれた前半の慶州を中心とする地方の方が、より強く印象に残っている。その意味では、本作で描かれた風景、町並み、人々の暮らしは、私が個人的に抱く韓国のイメージにかなり近いものであったと言えるだろうか。

 どんな国も首都や商都と言われる所にはその国の富が集中し、国の威信をかけて厚化粧を施している。文明生活の利便性を享受すると言う意味では、東京もソウルもケニアのナイロビもそれほどの差はないのである。とどのつまり世界に数多ある国々を先進国、中進国、開発途上国とカテゴライズしているのは、地方のインフラ状況であったり、些細な点を挙げれば、トイレット・ペーパーやティッシュ・ペーパーの材質であったりするのだろう(実際、韓国旅行中、地方の食堂のトイレはどこも一応水洗トイレではあったが、浄化槽の問題なのか、些か固めのトイレットペーパーを流すことができなかった。しかも個室の隅に使用済みのトイレットペーパーが堆く積み上がっていて、不衛生極まりなかったhekomi因みに3泊4日で約12万円の、けっして安くないツアーでの話である。経済成長著しいトルコも地方に行けば、似たような状況であった)。その意味で、各国の原風景や独自性は、地方の風土・風俗でこそ見いだせるものなのかもしれない。


 物語の舞台である地方の田舎町は、首都ソウルの繁栄とは対極の、ひなびた佇まいを見せている。映画が始まって間もなく、その郊外にあるゴルフ場を目指して、黒塗りの高級車が閑散とする町中を走り抜けるシーンがある。そのシーンはほんの一瞬の出来事を映しながら、弥が上にも都市と地方の経済格差を見せつけているようだ。と同時に「厚化粧を施した都市」と「良くも悪くも素顔をさらけ出している地方」、さらには「従来の”母もの”」と「一種異様な本作」の対比を暗示して、何やら象徴的である。

 最初から最後まで「母」の強烈な"存在感"と"執念"と"狂気"と"愛"に圧倒されながらも、同じ一人息子を持つ身としては、共感する部分もある。それは自分の内に、彼女と同種の母性(偏愛?それとも狂気?)の存在を感じるからだろう。敢えて「母」の名前が劇中で登場しないのも、そのキャラクターに普遍性を付与しているようで意味深。あな恐ろしや。

 それにしても韓国映画。数多ある韓国での公開作の中から、日本では厳選された作品が公開されているのだとは思うが、所謂”ハズレ”がない。特に人間の逃れられない「業」のようなものを描かせたらピカ一である。必要とあれば残酷描写にも躊躇なく、その徹底したリアリズムは、見る者の心をエグるようである。毎回見終わって直後は後味の悪さに辟易しながらも、その本物(本格?)志向が病みつきになり、韓国製サスペンス映画の新作が出る度に見てしまう自分がいる。




【トジュンの悪友ジンテのキャラクター】

ジンテはトジュンが知的障害者であることを利用して自分の犯罪行為の言い逃れをするような卑怯な男で、友人の親から平気で金を巻き上げるような薄情な男だが、その一方で、彼の相手に有無を言わせぬ”ジャイアン”的腕力は時に頼りになる。こういう小狡い男は個人的には嫌いだが、案外世渡り上手に(要領良く)生きて行くタイプの人間なんだろうなあ…

【不謹慎にも、映画を見ながら顔面相似形が気になって気になって…】

「母」役のキム・ヘジャさんが「オノ・ヨーコさん」に見えて仕方なく、ウォン・ビンは以前から指摘のある「若かりし頃のキムタク」を彷彿させ、悪友役のジンテ演じるチン・グが角度によって「中居正広」に見えたり、「成宮寛貴」に見えたりで、物語に集中したいハナコとしてはチョット困ったhekomi

【トジュンのアキレス腱】

自分が幼い頃にも、身近にトジュンのような人がいた。知的障害がそれほど重篤でなく、自分の知的障害にある程度自覚があるから、他人の心ない言葉により一層深く傷つくのかもしれない。果たして彼の心の目に、この世界はどのように映っているのだろう。

ただし、トジュンには無垢で邪気のない行動の中に、時折年齢相応の性衝動が織り込まれ、どこか危ういところがある。障害者の性をタブー視せず、障害者の人物造形にも徹底したリアリズムが貫かれている点が、本作を見応えのある人間ドラマにしている。


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