米島地区は、春日部市役所の東約4kmのところです。
春日部市役所北側の「中央6丁目」信号を南東へ、市役所通りです
約600mの「立沼橋」信号を左(東)へ、「ユリノキ通り」です
古利根川のユリノキ橋を渡って間も無く道路は「はなみずき通り」となって進みます
約4.1kmの「⇐関宿・県道42号線」の標識に従って、信号を左(北西)へ
約200mに「香取神社参道」の案内板がありますので右(北東)への坂道を上がります

左手に東南東向き参道で香取神社が鎮座します
境内に
車を止める事が出来ました

手水舎です

参道先に目的のムクノキです



南東側から

説明版です
御神木 椋の木
伝承樹齢800年、一説によれば落雷により、このような樹形になったと言われています。
樹皮一枚で長年生きてきた大木です。大地にしっかりと根を張った、生命力の強い木です。
御神木に手を触れてパワーを戴き、毎日を元気に過ごしましょう。


南側から

御神木の標柱です


西側から、幹の半分が無くなってしまっています


北西側は根元から幹の上まで腐朽が進んでしまっています

拝殿脇から見ました

拝殿です

本殿覆い屋です

本殿南側には天満宮です

説明石碑です
合社由来の記
此の合祀社の御祭神は、武甕槌之大神(鹿島宮)・菅原道真(天満宮)・大雷之命(雷電宮)の御三神で御座います。
天満宮は天保9年米島村字西宮123番地附近に、鹿島大神宮は嘉永6年5月字西宮217番地附近に、雷電神社は同年12月字中屋補1175番地附近にそれぞれ勧請し守護神として祠り、地域住民の無病息災・五穀豊穣を祈願して居ったものです。
時は移って明治の御代となり太政奉還廃藩置県と続きました。当地でも政府の命令に従い行政の基礎を揺ぎ無きものにする為、近隣の村と合併し川邊村を作りました。
其れ以来当米島村は大字米島となり、元の字は其の儘小字となり現在に至って居ります。(以後町村合併により庄和村から庄和町となる)
明治29年、政府は人心の収攬をより強固なものにする一手段として大字内には神社は一つとの目標を掲げる神社統合を発令致しました。そこで各神社の総代は鳩首協議に入りました。
協議の結果合社に使用する社屋は、三社の中で一番大きく丈夫で而かも傷みが最も少ない鹿島宮の社屋を使って三神を合祀する事に決定し、その祭地は大字米島1番地香取神社の境内境内とする事と致しました。
合意をみたものの事業はすぐに実行に移せないのが世の常です、何しろ間口7尺・奥行き8尺・高さ9尺、回りは嵌め板張りの社屋其の儘800m以上の距離を運ぶ仕事ですから、当時としては費用・仕事共大変な事業でした。
色々と迷って居るうちに世は戦時態勢となってしまい、又々移転が延びてしまいましたが、幸い此の戦も明治38年5月日本海々戦の勝利を以って終息致しました。為に戦勝気分も手伝い、翼39年12月漸く移転が実行されました。
その移転は今と違い、立派な運搬用具・機械も無く、大八車を連ねての運搬でした(大字米島206番地山崎要作氏よりの口伝)運搬して来た社屋は拝殿向かって左側手前に安置して遷宮の式典を行い、合社の全事業は完成致しました。
それから時を経ること75年、昭和56年香取神社社屋修理並びに境内環境整備事業が氏子会に依り決定されました。
事業の進捗に伴い此の合祀社も大変傷みが酷くなって居た為、建築委員会の委員相計り色々と協議を重ねました、新築か修理移転か、祭地は何處の邊か等々、その結果社屋は新築、祭地は現在の所と決定し昭和57年5月吉日新築完了遷宮されたものです。
平成11年12月23日・西暦1999年 米島香取神社氏子会撰

赤い鳥居の「願い石」です、白い小さい石には文字が書かれていました

説明版です


本殿裏側(西側)の石碑です

稲荷神社です

稲荷神社再建記念碑です
では、次へ行きましょう

2025・3・21・13・35
春日部市役所北側の「中央6丁目」信号を南東へ、市役所通りです
約600mの「立沼橋」信号を左(東)へ、「ユリノキ通り」です
古利根川のユリノキ橋を渡って間も無く道路は「はなみずき通り」となって進みます
約4.1kmの「⇐関宿・県道42号線」の標識に従って、信号を左(北西)へ
約200mに「香取神社参道」の案内板がありますので右(北東)への坂道を上がります

左手に東南東向き参道で香取神社が鎮座します

境内に


手水舎です


参道先に目的のムクノキです




南東側から


説明版です
御神木 椋の木
伝承樹齢800年、一説によれば落雷により、このような樹形になったと言われています。
樹皮一枚で長年生きてきた大木です。大地にしっかりと根を張った、生命力の強い木です。
御神木に手を触れてパワーを戴き、毎日を元気に過ごしましょう。


南側から


御神木の標柱です



西側から、幹の半分が無くなってしまっています



北西側は根元から幹の上まで腐朽が進んでしまっています


拝殿脇から見ました


拝殿です


本殿覆い屋です


本殿南側には天満宮です


説明石碑です
合社由来の記
此の合祀社の御祭神は、武甕槌之大神(鹿島宮)・菅原道真(天満宮)・大雷之命(雷電宮)の御三神で御座います。
天満宮は天保9年米島村字西宮123番地附近に、鹿島大神宮は嘉永6年5月字西宮217番地附近に、雷電神社は同年12月字中屋補1175番地附近にそれぞれ勧請し守護神として祠り、地域住民の無病息災・五穀豊穣を祈願して居ったものです。
時は移って明治の御代となり太政奉還廃藩置県と続きました。当地でも政府の命令に従い行政の基礎を揺ぎ無きものにする為、近隣の村と合併し川邊村を作りました。
其れ以来当米島村は大字米島となり、元の字は其の儘小字となり現在に至って居ります。(以後町村合併により庄和村から庄和町となる)
明治29年、政府は人心の収攬をより強固なものにする一手段として大字内には神社は一つとの目標を掲げる神社統合を発令致しました。そこで各神社の総代は鳩首協議に入りました。
協議の結果合社に使用する社屋は、三社の中で一番大きく丈夫で而かも傷みが最も少ない鹿島宮の社屋を使って三神を合祀する事に決定し、その祭地は大字米島1番地香取神社の境内境内とする事と致しました。
合意をみたものの事業はすぐに実行に移せないのが世の常です、何しろ間口7尺・奥行き8尺・高さ9尺、回りは嵌め板張りの社屋其の儘800m以上の距離を運ぶ仕事ですから、当時としては費用・仕事共大変な事業でした。
色々と迷って居るうちに世は戦時態勢となってしまい、又々移転が延びてしまいましたが、幸い此の戦も明治38年5月日本海々戦の勝利を以って終息致しました。為に戦勝気分も手伝い、翼39年12月漸く移転が実行されました。
その移転は今と違い、立派な運搬用具・機械も無く、大八車を連ねての運搬でした(大字米島206番地山崎要作氏よりの口伝)運搬して来た社屋は拝殿向かって左側手前に安置して遷宮の式典を行い、合社の全事業は完成致しました。
それから時を経ること75年、昭和56年香取神社社屋修理並びに境内環境整備事業が氏子会に依り決定されました。
事業の進捗に伴い此の合祀社も大変傷みが酷くなって居た為、建築委員会の委員相計り色々と協議を重ねました、新築か修理移転か、祭地は何處の邊か等々、その結果社屋は新築、祭地は現在の所と決定し昭和57年5月吉日新築完了遷宮されたものです。
平成11年12月23日・西暦1999年 米島香取神社氏子会撰

赤い鳥居の「願い石」です、白い小さい石には文字が書かれていました


説明版です



本殿裏側(西側)の石碑です


稲荷神社です


稲荷神社再建記念碑です

では、次へ行きましょう


2025・3・21・13・35
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