昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

三ノ瀬小学校

2022年07月29日 05時19分05秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


昭和44年 ( 1969年 ) 10月14日
上蒲刈町向 祖母の家から撮影

海峡こえて
私の祖母 ( 母方 ) は、
この景色を愉しみに眺めてたと謂う。
小学校で学ぶ、見える筈も無い孫の私を眺めていたのである。
「 はなだゆきのりくん 」
・・・と、先生が私を呼ぶ声、
時折、風に乗って、聞えて来る。
それが愉しみだった。
・・・そうである。

三ノ瀬~向を眺る
昭和54年6月19日 
吾母の故郷である

安芸郡
下蒲刈町
 
三ノ瀬小学校
当時の全校生徒数 263名・・と、私は記憶している。
昭和38年 ( 1963年 ) 3月、小学2年生まで学んだ。

昭和36年 ( 1961年 ) 
小学校一年生・七歳の
懐かしき・・想い出いづ
一 
宿題忘れて立たされて

「 ユキ君、今日は宿題ないんか ? 」
佐々木のおばさんが、遊んでいる私に訊ねた。    (丸谷・近所)
「 ん 今日はないんじゃ 」
私は、完全に忘れていた。
そして翌日、
罰として、立たされた。
して、 泪して しまった。
「 ケン なんか 毎日忘れちょる のに、立たされた事がない 」
「 ワシ は 初めてじゃのに・・・」

小学校一年生
宿題を忘れた・・これが最初で最後のこと
宿題を忘れて立たされたことよりも、皆の前で泪した事がなさけなかった。
不覚を執った・・ そう思ったのである。

 
主役になった

吾が 三ノ瀬小学校に
向の小学校の児童生徒を招いて合唱・合奏を披露することに成った。
向の小学校には、
従兄妹の しのぶ ( 4年生 ) や 京子 ( 2年生 ) 
まさるあんやん ( 5年生 )、昇あんやん ( 5年生 ) が居る。

♪ みんなおいで あそびましょうよ
おててつないで 輪になって
まわれまわれ ランラララララン ♪

私は 向の小学生の前で、ソロ で唄ったのである。
しのぶ が 照れくさそうにこちらを見ていた。
私は 鼻が高かった。

写真
玄関の左側
2階の教室には
テレビがあった。
高い処にあって、神棚を仰ぐように、皆して、テレビを見上げたのである。
NHKの番組
「♪ ならんだ ♪ならんだ」
一番の楽しみだった。

印象深いのは
一人の少年が現れ、ストーリー展開していく番組
その中で
時々 折鶴を両手でかかえた少女の像 が出てくる。
それが、何であるのか、私には、分からなかった。
担任の花田日出子先生からの、説明も特に無かった。
小学一年生や 二年生には
「 原爆 」 
授業としての話は、
未だ早い・・と、謂う判断だったのであらう。

写真
玄関右には

二宮金次郎像
が有った。

薪を背負いながら勉強する姿は、
日本人の心を打った。

「 二宮尊徳 」  
明治、大正、昭和ひとけた、の大人達から、
仕事もして、且つ、勉学に励んだ
『 苦学の鑑 』 であると

修身教育の、模範であったと
そう・・聞かされた。 
リンク→偉い人 苦学の鑑・二宮尊徳


苦学

学費を稼ぐために働くを苦学と謂う人もあらう
然し、私は
働きながらも、学問を習得する・・を採る。
金の卵と謂われ
集団就職で上京した若者達は仕事の終った夜間、
学校へ行って勉強したのである。
彼等の心懐に存ったのは、夢、
将来の夢に向かって、努力したのである。


「  いつでも夢を  」
昭和37年 ( 1962年 ) 日活映画
苦学も明るく生きる青年のその姿は日本中に勇気を与えた。
働くことが希望と繋がったのだ。
♪ 北風吹きぬく寒い朝も心ひとつで温かくなる ♪
・・そう、日本中が歌ったのである。
私の過ごした幼年期は、昭和30年代の日本は
そんな時代であった。
・・と、そう想う。


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