昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

握り飯の忠義

2021年01月29日 05時32分59秒 | 10 三島由紀夫 『 男一匹 命をかけて 』

「 訊くが、
 ・・・もしだ、もし陛下がお前らの精神 あるひは行動を御嘉納にならなかった場合は、
 どうするつもりか 」
「 はい、神風連のやうに、すぐ腹を切ります 」
「 そうか 」
「 それならばだ、もし御嘉納になつたらどうする 」
「 はい、その場合も直ちに腹を切ります 」
「 ほう 」
「 それは又どういうわけだ。説明してみよ 」
「 はい。  忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、
ただ陛下に差上げたい一心で握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。
其結果、もし陛下が御空腹でなく、すげなくお返しになつたり、
あるひは、『 こんな不味いものを喰へるか 』 と 仰言つて、
こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、
顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。
叉 もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上がつても、
直ちに退つて、ありがたく腹を切らねばなりません。
何故なら、草莽うもうの手を以て直じかに握つた飯を、
大御食おおみけとして奉つた罪は萬死に値ひするからです。
では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま 自分の手もとに置いたらどうなりませうか。
飯はやがて腐るに決つてゐます。
これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。
勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります 」
「 罪と知りつつ、さうするのか 」
「 はい。殿下はじめ、軍人の方々はお仕合せです。
陛下の御命令に従つて命を捨てるのが、すなはち軍人の忠義だからであります。
しかし一般の民草の場合、御命令なき忠義はいつでも罪となることを覚悟せねばなりません 」
「 法に従へ、といふことは陛下の御命令ではないのか。裁判所といへども、陛下の裁判所である 」
「 私の申上げる罪とは、法律上の罪ではありません。
聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に生きてゐながら、
何もせずに生きて永らへてゐるといふことがまづ第一の罪であります。
その大罪を祓はらふには、瀆とく神の罪を犯してまでも、
何とか熱い握り飯を拵こしらへて献上して、自らの忠心を行為にあらはして、
卽刻 腹を切ることです。
死ねばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、右すれば罪、左すれば罪、
どのみち罪を犯してゐることに変りはありません 」


三島由紀夫著  奔馬から


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