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旧嵯峨御所 大本山 大覚寺 その1

2007-10-05 02:10:34 | 神社、仏閣、名所、
「旧嵯峨御所大覚寺門跡」と言い(真言宗大覚寺派の大本山)
嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で天皇崩御の後、貞観十八年(876)に寺に改め大覚寺と名付けられました。
その後一時荒廃しましたが、徳治二年(1307)に後宇多天皇が、入寺し寺を復興すると共に大覚寺統を形成、以後持明院と皇位継承についって争い明徳三年(1392)南北両朝の講和会議が成立、日本で最も古い門跡寺院です。

門跡寺院とは天皇又は皇族が住職に就かれた時院の事です。遠く平安の昔、嵯峨天皇の離宮嵯峨院が建立され、弘法大師も幾度も立ち寄られたそうです。
その後、嵯峨天皇の皇女正子内親王(淳和天皇皇后)が清和天皇に上奏して大覚寺に改め、嵯峨天皇の孫に当る恒寂法親王が所代の住職に就かれました。
現在では、近畿36不動尊霊場の13番札所として、全国各地からの参拝者が訪れるそうです。又、心経写経の根本道場、いけばな嵯峨御流の総司所でも有ります
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大玄関・・
式台玄関の壁画は、狩野永徳による「松に山鳥の図」
(実際には、国宝の文化財、重要文化財、壁画、装飾が等総て収蔵庫に収められていて見る事が出来ません)
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宸殿・・
震殿は、江戸時代の初め延宝年間(1673~81)
後水尾天皇の中宮東福院和子(徳川二代将軍秀忠の娘)が使用した女御御所の宸殿を賜ったもので、入口の格子戸に蔀といい其の金具部分には、蝉の装飾がして有るそうです。前庭は、一面、白川砂が敷かれ大海を表し正面の「右に橘」「左近の桜」旧御所の名残をとどめています。
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宸殿と前庭・・
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震殿のお部屋は五つに分かれ正面牡丹の間は、格式が高く襖絵には、狩野山楽により描かれた牡丹、紅白梅、松、鶴等桃山美術の代表作です。
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