心の扉 神戸カウンセリング花時計

心理療法や催眠療法、ストレス解消や悩み等メンタルに関するもの、そして日常の出来事を自由気ままに掲載します。

宝地院~荒田八幡神社

2018年05月01日 | 名所巡り(兵庫)

何となく思い立って今年の3月頃に

JR兵庫駅の海側を散策したことで

それまで殆ど興味が無かった

平清盛に少しばかり興味を持つことに。


あれから神戸と平清盛の深い関係がある場所を

もう少し巡ってみたいと逸る気持ちを

なだめる日が続いていましたが、

ようやくその日を持つことが出来ました。

 

湊川公園

湊川公園は、平清盛とは直接関係がないのですが、

ある目的のために寄り道をしました。


湊川公園は、1911年に洪水防止のために

湊川の流れを変えて出来た河川敷を

埋め立てた場所に完成した公園です。

 

殉職消防隊員の碑

殉職消防隊員の碑があるのですが、

殉職者は不明です。


誰かが夜中に勝手に建てたはずがないので

殉職者の指名を

非公開としているだけなのかも知れませんが。。。

 

大楠公騎馬武者像

湊川公園に寄り道をした理由が、

この楠木正成公(大楠公)の像を

写真に収めるためです。


前にも書かせて頂いたことですが、

私が学生の頃に大阪城公園で見たはずの

大楠公の騎馬武者像もこんな感じで

色がもっと濃い色の像だったのですが。。。

 

あの日、私が大阪城で見たはずの

大楠公の騎馬武者像は、長らく行方不明状態です。

人?私の記憶力は当てになりません。

 

荒田公園

湊川公園の少し北に進んだ所にある

荒田公園の新緑を楽しみながら、

最初の目的地、宝地院に向かいます。

 

平和と穏やかな世界が存在するこの場所で、

何もかもを一旦切り離して、唯木々の緑を愛でる。

 

浄土宗 宝地院

宝地院は、ごくごく普通のお寺の佇まいですが、

安徳天皇の菩提寺となっています。

 

安徳天皇は、高倉天皇の第一皇子で

母親は、平清盛の娘の徳子です。

 

『平家物語』によると

壇之浦の戦いで源氏に敗れ

安徳天皇は、母、徳子と入水をして

徳子は源氏に助けられましたが

安徳天皇は亡くなられたとあります。

 

宝地院 本堂

宝地院は、第二次大戦のアメリカ軍の

無差別空襲によって全てが焼失。


昭和24年に本堂を再建するも

阪神大震災で甚大なる被害を受けたそうです。


敷地内には保育園も併設されているので

門が固く閉ざされていたのですが、

運よく通りかかったご住職にお声がけをして、

敷地内に入らせてもらうことが出来ました。

 

宝地院のご住職とのお話によると

福原京の時期には、

平家の立派な屋敷が立ち並んでいて

その敷地内で流鏑馬も行われていたそうなので

平家は、この地で広い敷地を確保していたことになります。

 

私はすでに福原遷都が計画された一帯に

足を踏み入れているようです。

 

宝地院 聖徳太子像

どこの馬の骨かも分からない私を、

敷地内に招き入れてくれたご住職の

ご厚意に感謝申し上げます。

 

荒田八幡神社

宝地院から少し歩くと

石垣に囲まれた荒田八幡神社があります。


荒田八幡神社が建っているこの場所は、

平清盛公の邸宅があったとされる平野の南西に位置し、

平清盛公の弟『平頼盛公』が

山荘を構えていた所だと言われています。

 

荒田八幡神社 手水舎

 

荒田八幡神社 拝殿

1985(昭和60)年に再建された拝殿。

この辺り一帯は、平清盛公によって築かれた

福原京の中心地です。


1180年の6月に

三種の神器と文武百官を従えて

福原の地に着いた安徳天皇は、

平頼盛公の屋敷を皇居とします。


そして、『雪見御所』と呼ばれる

平清盛公の邸宅に移り、

その入り代わりに高倉上皇が

荒田の平頼盛公邸に居を移しました。


平清盛が強引に進めた福原遷都ですが、

それに反対する寺社や皇族の方々、

源氏の決起などによって

半年ほどで平安京に還都することになります。


福原京が上手く進み、もっと長く続いていたら

日本史の教科書には、平安時代と鎌倉時代の間に

福原時代と記載されていたかもしれませんし、

この地の街並みも

今とは違っていたかもしれませんね。


荒田八幡神社 狛犬

さて問題です。

神社の狛犬には雄と雌があるのですが、

この狛犬はどちらでしょうか。

 

「安徳天皇行在所址」と「福原遷都八百年記念之碑」碑

荒田八幡神社の境内には、

「安徳天皇行在所址」と

「福原遷都八百年記念之碑」碑が建っています。


荒田八幡神社は、平頼盛公のお屋敷が在り、

安徳天皇が仮の皇居とした場所ですが、

滞在したのは僅か一日のようで

その翌日には雪見御所と呼ばれる

清盛公のお屋敷に移られているようです。


ちなみに、頼盛公は、清盛公の異母弟で、

清盛の男兄弟の中で壇之浦の戦い後も

ただ一人生き残った人物です。


たった一日、わずか一日と言えども

この場所がその昔に皇居であったと言う凄さ、

ゾクゾクします。

 

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