先日参加した「倫理創成研究会」のご報告。
おふたりゲストがいて、うち一人の話は、すでにエントリーにしました。はい、技術者倫理の話。カンタンにまとめすぎですか...
もうお一人は、北海道大学の方でした。ここではM王さんといたします。
タイトルは「北大における科学コミュニケーション教育の現状と課題」。科学コミュニケーション教育ということで、北大CoStepの話やサイエンスカフェの話がちらっと出たりして、大変盛りだくさんな構成でしたが、メインは、大タイトルの「科学技術倫理の実践と教育」に絡むところでしょう。
んなわけで、豊富な事例紹介の先に行き着いた問いとして提示されたのが、タイトルの予防原則に合理性はあるのかというもの。
M王さんは、何とか予防原則の合理性を理論的に擁護したいそうですが、現状、そういった予防原則の合理性を理論的に擁護する研究や論文は、めちゃくちゃ少ないそうですな。
逆はめちゃくちゃ多いそうですが。
でも、「合理性」って何ですかね。
予防原則というのはよく知ってます。環境問題の議論でもしょっちゅう出てきますし。
M王さんは、「予防原則は、一般人(Lay person)の市民的判断の合理性、つまり市民の合理性や価値観」と説明されていました。
これを当てはめると、「予防原則に合理性はあるのか」という問いは、「市民の合理性や価値観」に「合理性」はあるのかという問いになるんですが、いいんでしょうか。
これ、前カッコの合理性と後カッコの合理性って同一じゃないって前提にて成り立つ文章ですね、もちろん。 だって、「あるのか」っていう問い方はそうでしょ。
まぁ、一般的に考えれば、↑こういう違いなんでしょーがっ。...とか思うが、それじゃツマンナイというか、そんなこと分かりきったうえでの報告に違いないので、何かレベルの異なる話をしてたんだと思いますが、正直、分からなかった。
ルーマン的構造的カップリングが云々の質疑応答(さすが文学部)もあったけど...撃沈。はい、精進します。
ルーマン理論(オートポイエーシス、構造的カップリングなど)の、日本で、いや世界で一番わかりやすい講義だそうです。ギザわかりやすかったとです。一般人が視聴していいんでしょうか。視聴できました。
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ところで、M王さんが行き着いた先は、何故「予防原則」だったのでしょうか。
先ほども書きました通り、M王さんは、北海道大学で、科学コミュニケーション講座に所属し教えておられますが、その中の「科学ジャーナリズム特論」という講義で、「リスク判断」「政策決定」の際の二つのモデルを検討していたそうです。
その講義をともに担当していたK本さんが示したモデルが「テクノクラティック型」。M王さんが示したモデルが「決断主義型」というもの。
レジュメを転記します(一部を加筆修正)。
K本さんの視点(テクノクラティック型):
・科学・技術の社会問題への責任は、専門家が負うべきであり、専門家が主体的に方向付けを行うべきである。
・メディアの主体性は、独自の判断形成を行うことにあるのではなく、こうした専門家の判断の中から適切な選択肢を選び取ることにある。
・メディアは専門家が気づいた事実を正しく効果的に伝える「拡声器」に過ぎない。M王さんの視点(決断主義型):
・適切な選択肢がつねに専門家の側に用意されているとは限らない。
・事実を突き詰め、専門家の意見を見分ける眼識をもつことは必要に違いないが、メディアが、専門家にない部分で、市民サイドに立って独自の判断形成を行うことはないのだろうか。
・科学ジャーナリストの存在意義は、自分がいなければ永遠に埋もれてしまう事実を掘り起こすこと。-つまりメディアと科学ジャーナリストは別物?
うーむ。なるほど。つまり、M王さんの視点は、専門家に拠らない市民サイドの独自の判断形成を擁護したいわけですな。うーむ。
しかし、ふたつのモデルはそれぞれに一長一短です。ツッコミどころ満載。
おふたりは、軸足の置き場(専門家 or 市民)がはっきりと違うのでしょうか。
いつも専門家の判断に任せるべきだとか-逆もそうですが-の極論を言わない限り、おふたりの違いは大してないような気もします。
ワタシ的に一番気になったのは、K本さん視点の「専門家が責任を負い、主体的に方向付けを...」というところ。
なるほど、大変ありがたい話なんでしょうけど、でも、どうやって「責任を取ってくれる」んでしょうか。
「専門家の責任者」って、いずれ出てきますかね?
...いやいや、そんなこと期待してませんので、以前も書きましたが、AvsBの討論会などをしていただくと、市民的にも大変わかりやすいと思うし、その上でなら、市民として決断させていただけるんだろうと思うんですよ。