アレクシェーヴィチの『セカンドハンドの時代』にこういう記述があった。
必要なのは自由な人間、でも、そんな人間はいなかった。いまもいません。ヨーロッパでは200年のあいだ民主主義の手入れを続けているのです。(489頁)
日本に於ける「戦後民主主義」とはいかなるものであったのだろうか。1945年の敗戦。そのあと劇的な「戦後改革」が行われた。日本国憲法もその一環であった。
だが、日本国憲法も今や「壊憲」への道を走り始めているように思える。「戦後民主主義」はホンモノであったのだろうかという疑問が湧く。やはり「与えられた」ものであったのだ、と。
その後、確かに60年安保闘争など、「戦後民主主義」を表すような動きはあった。だが、それらは持続せず、つねに一時的なものに終わったように思える。
敗戦によって、たしかに大きく変わった。だが、権力機構を担う人びとは変わらなかった。司法も含めた官僚制は、「大日本帝国」のまま生き残った。彼らは、「大日本帝国」の復活をめざしうごめいていた。「戦後民主主義」をつぶすために、彼らは必死に働いた。
治安維持の一環である司法官僚、従順な人間を育成する文部省官僚など、「戦後民主主義」をつぶすために少しずつその歩みを進めていった。おそらく彼らにとってその最終地点が見えてきているのではないだろうか。
官僚や自民党の政治家たちの万能感。私は、高かった日本の国際的地位が下がり続けているのに、なぜ彼らはあんなに自信過剰なのかと思っていたが、「戦後民主主義」を葬り去るその時期が来たからなのだろう。それが彼らの自信過剰の背景ではないのか、と思うのだ。
私たちは、「戦後」のあいだ、「民主主義の手入れ」を行ってきたのだろうかと自省しなければならない。
「戦後民主主義」を主導してきた人びとは、もうほとんど残っていない。色川大吉さんも鬼籍に入った。