浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

啄木(7)

2018-06-16 06:54:50 | その他
 私は、啄木の人生を4つに分けた。

1 誕生から上京まで(1886.2~1905.5)

2 結婚、そして彷徨(1905・5~1909・3)

3 啄木として生きる(1909・3~1911・2)

4 死に向かう日々(1911・2~1912・4・15)

 2は結婚を始期とし、3は東京朝日新聞校正係となったとき、ここから評論などの面で啄木の能力がもっとも発揮される時機、4は慢性腹膜炎で入院する、そして死に至る時期である。いずれにしても、啄木は満26歳で病死する。夭折である。

1 誕生から上京まで(1886.2~1905.5)
1886(明治19)年・・・2月20日岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる。 本名一(はじめ)。父石川一禎、母工藤カツ、姉にサダ、トラがいる。
 父は曹洞宗の僧侶であったので、宗教上の理由で父母は戸籍上の婚姻関係になかった。

1887(明治20)年・・・父の北岩手郡渋谷村宝徳寺への転出に伴い渋谷村に転住。
1888(明治21)年・・・12月20日妹光子生まれる。
1891(明治24)年・・・渋民渋谷尋常小学校に入学。
1895(明治28)年・・・3月渋民尋常小学校卒業。4月盛岡高等小学校入学(両親と離れ て盛岡の親戚に寄宿)
1898(明治31)年・・・4月岩手県盛岡尋常中学校(現在の盛岡第一高校)に入学。
1899(明治32)年・・・4月中学校令改正により校名が岩手県立盛岡中学校となる。2年生に進級。この頃、堀合節子と知り合う。夏休み上京(次姉トラの夫)。
1900(明治33)年・・・4月3年生に進級。『明星』創刊。
1901(明治34)年(15歳)・・・2月教員排斥など校内刷新のため中学校でストライキ、啄木も参加。4年に進級。この頃『明星』などを読み、文学に耽溺。回覧雑誌発行。ユニオン会を組織。『岩手日報』に啄木の短歌掲載(白羊会詠草)。文学者としての啄木のスタート。

 啄木にとって、『明星』の発刊は文学者としてのスタートとなる。『明星』を読み、『明星』に投稿する中で彼の能力が発見されていったからだ。
 
 啄木のその頃の作品。

【秋の川に あしの穂白き 夕暗(ゆうやみ)に 主なき小舟 野末に去りぬ】

【手にかざす 花は紅(くれなひ) 花うりの 面(おも)うつくしき 朝もやの野路】(桔梗売りの娘を見て)

【紺(こん)青(じよう)の 雲雀たちゆく 春の空に 煙かすれて 森の香深き】
   (『岩手日報』同年12月)

 このとき15才である。情景が思い浮かび、語彙も豊かだ。詩情が溢れる。私は15歳の時に、どう逆立ちしても、このような歌は詠めない。

1902(明治35)年(16歳)・・・1月ユニオン会の友人等と『岩手日報』号外を販売し、その利益を足尾銅山鉱毒被災民に送る。堀合節子、盛岡女学校を卒業。啄木の成績は119名中82番。啄木5年進級。しかし4年3学期末の試験で不正を行ったことで譴責処分を受ける。7月1学期末の試験で不正を働いたことで譴責処分。第1学期の出席104時間、欠席107時間。10月中学校退学。

 すでに堀合節子との相思相愛の関係はできていたのだろう。また社会的な関心を抱いていた。そして中学校内で文学仲間など親しい関係を築いていたが、しかし彼は登校しない。この頃の歌。

【血に染めし うたをわが世の なごりにて さすらひここに 野に叫ぶ秋】 (『明星』1902.10)

 これは退学をした頃に詠んだものだろう。文学者として生きていく覚悟といったものがこめられているように思う。

 後年、啄木は何故に退学したのかを、こう書いている。

【若し予に今、多少の学力とか才識とか云ふものがあるとすれば、それは大抵学校以外の学校で教へられた、非組織的な唯僅々数百冊の書巻と実際の見聞とによつて聚(あつ)めたものに過ぎぬ。・・・・・「人生」といふ不可測の殿堂の俤と、現在自分の修めて居る学科、通つて居る学校との間に何の関係もないらしいといふ感じであった。・・・予は此煩悶の為めに毫厘の楽しみも「学校」なるものに認むることが出来なくなつた。そして大抵の先生をさへ、今に至つて慚汗に堪へぬ次第であるが、壊れた時計の如く、進むも退くも人生に何の影響なき人々であると思ったのである。】 (「林中記」、『盛岡中学校校友会雑誌』第9号 1907年3月1日)

 「人生とは何か」という問い。思春期に訪れるこの煩悶は、答えがないだけになかなか厄介である。確かにその答えは学校の授業などで提供されるものではない。どうしても本を読むことになる。

 私も、振り返ってみれば、そういう煩悶に遭遇した。高校一年生の時であった。啄木と同じように学校に行かず、ひたすら本を読み(亀井勝一郎の人生論など、当時読んだ本は書庫に今もある。)、家にジッとしていた。私が学校に行き始めたのは、ある日、二人のクラスメートがわが家を訪ねてきてくれたからだ。村木君と村松君。村木君は今どうしているかわからないが、村松君は仏具屋である。

 啄木は、学校への失望を記しているが、しかし私の場合は、放課後の友人との語らいは、とても有意義であった。読書家の前川君(法政大学教授)のおかげで古今東西の文学を渉猟したのもこの頃だ。学校に行き文学の話をし、そのなかで出された作品を帰りに書店によって購入し読む。その感想を翌日また語り合う。この頃私は「学科」の勉強もせずに、ひたすら本(文庫本)を読んでいた。睡眠時間、4時間くらいだった。若かったからこれが可能だったのだろう。

 啄木が足尾鉱毒事件に支援金を送る活動をしたように、人生を考えるということは、社会をも考えるということである。私も、当時アメリカの侵略によるベトナム戦争、その悲惨な実態に怒りを覚え、ベトナム人民支援の活動を始めていた。文学だけではなく、とりわけベトナム戦争に関わる本を読み、アメリカという国家の蛮行を許せないという気持ちを強く持った。それは今も持ち続けている。

 「林中書」で啄木が退学した理由を書いたのは二十歳くらいのときだろうか。学校や教師への絶縁状である。それが校友会誌に載せられるというのも驚きである。退学しても、その学校にいたということから「校友」なのだろうが、よく載せたなあと思う。同時に、「林中記」、なかなか長い文であるが、読ませる内容である。

 そして彼は上京する。

 (つづく)



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