のぞき穴のむこう

後援:博愛主義ネクロフィリア協会(嘘)

ざっくり手探り・火中の栗

2010-09-23 19:01:43 | 
書き方を、忘れないように?

なにかの練習なんだ。きっと。



知りたい?  なぜ?    なにを?


そういえば、知識欲は減退しない。
一日に何回かは辞書に潜ってるし、調べてる間は夢中になってる。
そんなに無邪気なもんじゃないかもしれないけど、
周りが見えなくなって、時間が経ってて。
目隠しになっているのかもしれない。
ぼくの中の、無防備な部分を、何かから守るための。

今興味があるのは、
歴史?
インドとヨーロッパの間辺りの、いろんな国が伸びたり縮んだり点いたり消えたりするのを、
時代を追って把握するのに一生懸命。
文字もすきだな。
意味も分からず覚える気もないのに、成り立ちなんかに関心してる。
宗教への興味も健在。
中でもキリスト教の聖書は、抜群の面白さ。ユダヤのやつより、生々しくて、荒削りで。
それだけに、力強い?最初に同じ話が四つ続く、ナリフリかまわぬ感じとか。
たくさんある手紙の類なんて、つい吹き出したり、ため息ついたりしちゃうよ。
クルアーンの章は、時系列で並べなおしてほしい、けど、きっとだめなんだろうな。
そう、食文化について、体系的に広く浅く学びたい。
ヨーロッパ限定だけど、格好の叢書を、たしか持ってたはずなのに、見つからない。
どこにいったかなぁ。

ならべてみると、元気がなくなってくる。
対象として、客観化すると、なんだかとてもつまらないことのような。

幸せになるって、幸せでいるって、むずかしいんだ。


なにがどうなったら、うれしいのかなあ。
文句なしの幸せを、感じた経験が、
きっとある、と思うのだけど、
うまく思い出せない。
事前に刷り込まれていたなにかが、広くさえぎって邪魔をしている感じ。
それが衝動になるんだろうか?ふつうは。
そんなはずはないって、未知の、好ましい経験を、求め続ける。
ならば
すべて既知になった、もしくは手が届かなくなったという実感が、
動機を、単なる事実、に換えている?


こういうこととか、
もうやめたいとか、そういうことは、
当たり前すぎるほど当然で、
あえてここに書く理由なんて、ほとんどない。
信仰の告白めいて、鼻白む。
そうじゃないことを、可能性の証拠として、集めるべきだ。なにかするのなら。
それがまっさらな聖典の、最初のページ。



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