虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

滔天「三十三年の夢」

2007-12-27 | 読書
中国革命に関心がむいてきたので、久しぶりにめくってみた。この本はすぐに中国訳が出て、この本で初めて無名だった孫文の名が中国の人に知られることになる。三十三年とは、明治33年のこと。

中国革命の本拠地は日本だった。中国の革命家、留学生たちは、日本を革命の策源地とした。中国のさまざまな革命派を大同団結してできたのが中国同盟会であり、この成立に大きなはたらきをしたのが、滔天だ。革命派の薩長を同盟させた龍馬のような働きをしたといえるかもしれない。

辛亥革命がなっても、孫文は軍閥袁世凱と妥協せざるをえず、革命は挫折するが、袁世凱(皇帝になろうとする男)は、滔天に、これまでの中国の功績にむくいるために、年々の米の輸出権(利権)を与えようと申し出るが、滔天は、「渇しても盗泉の水は飲まぬ」と断ったそうだ。大正6年、黄興の葬儀にでたとき、学生の毛沢東もいて、毛沢東は、「お目にかかってご高説を承りたい」と手紙を出したそうだ(手紙が残っているそう。以上、岩波「三十三年の夢」の解説から)。

この滔天、一目見たら婦女子ならギョッと驚く豪傑の風貌なのだが(よく見るとやさしそうなのだが)、自分についてはこう書く。
「つらつらおもうに、私というものは、女性的性分をうけえて、誤って男子に生まれた一種の変性漢です。酒の援助なくては、人様の前に自分の意思を言明することもよくせず、なるべくは人様のご意見に譲歩して、その人の満足をもって自ら満足せんとする弱虫なのです」

実際、青年時代から人前で演説することが大の苦手で、熊本の蘇峰の塾にいたのだけど、毎週の演説会がいやで、そこを逃げ出したようなふしがある。そのくせ、東京に出るときには、ボロボロの着物に、背中には2本の白鞘の刀を背負っていたという。

滔天は大正11年に52歳で亡くなるが、その後の日本の中国侵略を目にしなかったのだけが救いといえるのかもしれない。

漱石の「草枕」のモデル、滔天のヨメさんの姉卓さんも、中国同盟会の機関紙民報の発行所民報社で働き、民報おばさん、とよばれる。
日本人にもこんな人がいたのか、と思える人の一人だ。