らんかみち

童話から老話まで

作品に人格を投影してはいけない

2011年03月02日 | 陶芸
 関西に住んでいたころの飲み仲間にロクロ子先輩というおばちゃんがいて、還暦間近だというのに未だに夜ごと飲み歩いているらしい。知らない人には愛想が良い人だけど、酔って暴れるのに備えてか、彼女のスカート姿を見たことがない。

 フィジカルな暴力もだけど、言葉の暴力たるや、アムネスティーに訴えたくなるような傍若無人で情け容赦のない毒吐き女です。
「あんたの作品なんかゴミ、ゴミ、ゴミ! そんなもん人にあげるなんて失礼ちゃうか。あんたなんか私に追いつくのは100年早い。fu◯kin×××←ぼくの名前」と、陶芸作品をメールに添付したら無礼極まりない講評を返してくる人です。

 いつぞや古巣を訪ねて飲んでいたとき、余りにも無礼な物言いしたので引導作法してやりました。引導作法とは、「あなたはもう死んでいる」と、この世にとどまって浮遊霊とならぬよう死者を納得させる儀式です。
 1年くらいはそれで大人しくなったんですが、陶芸公募展を実施するに当たってどうしても分からないことが出てきました。

 数々の陶芸公募に入選を果たしているロクロ子先輩に聞けば分かるだろうな、ああでもゾンビみたいに復活しても困るし、そうはいっても予算申請の期限が迫っているし……と悩んだあげくキヨミズ電話しました。そしたら案の定ですわ。口汚い言葉が返ってきて、肝心の陶芸公募に関する質問にはまともに答えてもらえませんでした。

 やつに聞いたのが間違いだったなと後悔してたら、後日になって質問の回答と作品の写真がメールに添付されてきました。その写真を見て、なんと人格と整合性のない、つつましくおしとやかで清楚な作品だ! 人となりとその作品は比例しない、という見本みたいな話ですよね。

 ぼくたちは、ややもすると自分の人格や理想をその作品に投影しようとする。物語においても、悪人を登場させておきながら情状酌量の余地を残したりもする。
 陶芸でいえば、几帳面で温厚な人の作品は概ね面白味に欠ける。美しくできていても、見た人を魅了できるような作品たり得ることは、そうない。自分で自分に「誠実であれかし」と、手かせ足かせを施し、限界を自らで設定してしまうからだろうか。

 ぼくも作品を書く上において嘘つきになりたいと思うけど、なかなかそうはいかない。それを考えると、ロクロ子先輩のなんと見事な騙り様でしょう。
 作品においては人格を騙っても咎め立てされることは無いのだから、今後は思い切って……いや、そもそもロクロ子先輩が嘘つきだから易々とできることなんだろうか。