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ぽかぽか春庭「臨江閣と群馬の女子教育」

2018-05-05 00:00:01 | エッセイ、コラム

臨江閣

20180505
ぽかぽか春庭アート散歩>建物散歩2018春(2)臨江閣と群馬の女子教育

 姉の法事で群馬に帰ったとき、妹モモが臨江閣に連れて行ってくれました。
 2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』で、後半は群馬県に舞台がうつり、最終回、群馬県令楫取素彦が妻美和とともに群馬の人々とお別れの宴を開く場面に臨江閣が出てきました。

 熊谷県との統廃合ののち新制群馬県が誕生し、楫取素彦(1829-1912)が、初代群馬県令(群馬県知事)として赴任してきました。
 楫取は皇族などを迎えるための迎賓館設立を訴え、群馬の地元有力者たちの寄付によって建設されたのが臨江閣です。
 宮大工・今井源兵衛が腕をふるった数寄屋風の近代和館。本館と別館、茶室などが群馬県や前橋市の重要文化財に指定されています。

 木造二階建て、入母屋造り、桟瓦葺の数奇屋風建築。利根川に臨み妙義山や浅間山を望む場所(現在は前橋公園として市民の憩いの場)に建てられました。明治時代には明治天皇や皇太子(のちの大正天皇)の行在所として迎賓館の役割を果たしました。



 竣工直後、最初の臨江閣での宴会が、1885(明治17)年、県令職を辞して去ることになった楫取の送別会でした。
 明治維新後廃藩置県の騒然とした地方行政のなか、1876(明治9)年に群馬に赴任した楫取素彦は、最初のうち「長州もんに何ができる」と冷ややかに迎えられました。しかし、県令として10年間群馬県に尽くした功績をみなが惜しみ、お別れの宴には大勢の人が集まりました。

 現在の別館大広間。現在は、畳150畳。ステージ30畳分の広さがあります。
 

現在はカフェとして営業されているへや


 天皇行幸当時には風呂場がなかった臨江閣だったので、階段踊り場に臨時の浴室を設けたそうで、踊り場に風呂設置時のあとがのこされていました。(文化財係長さんの説明による)


 2015年の『花燃ゆ』放映中は混んでいるだろうから、放映終わってすいたころに、と思っていたら、2016年から修復工事で公開中止。臨江閣の一般公開は2017年に再開されました。

 改修前の別館大屋根に上がっていた鴟尾瓦


 妹モモは、前橋での会議を計画したとき、ほかの会議室がとれなかったので、臨江閣の貸し出し用の部屋で会議を開いたことがあるそうです。部屋の使用は有料ですが、館内の観覧は無料です。



 1945(昭和20)年からは市庁舎の仮庁舎として、1955(昭和30)年からは前橋市公民館として利用されました。



 モモは「私は何度も中に入ったことあるから、ひとりで見てきて。休憩所で待っているから」というので、駆け足でひとり見学。

廊下


 『花燃ゆ』なんぞを思い出しながら見て回りました。
 『花燃ゆ』の主人公美和子(1843-1921)は、杉百合之助(常道)の四女として誕生し文(ふみ)と名付けられました。家督を継いだ長兄杉民治。次兄は吉田家に養子に行った吉田松陰。松陰の友人小田村伊之助(後の楫取素彦)と結婚した姉の寿(ひさ)。弟敏三郎ほか11人家族で育ち、松陰門下の久坂玄瑞と結婚しました。しかし、禁門の変によって玄瑞は自害し、22歳で未亡人に。

 寡婦となった文は、藩主毛利家の奥女中として働き、名を美和と改めます。明治維新後、夫の赴任地に従っていた姉ひさが中風を病み、ひさの頼みにより楫取素彦の家政を担うことに。
 ひさが1881年に死去した後、ひさの息子ふたりの行く末を案じた実家の母の懇願により楫取と再婚しました。

 群馬県令として働く楫取素彦を支え、美和子もともに群馬県女子教育に尽くしたようすが、ドラマ後半に描かれていました。
 楫取は群馬赴任後、教育に力を注ぎ、就学率を全国トップレベルに押し上げました。また、県立医学校の設立、上野三碑の国有地としての借り上げなど群馬県の文化と教育に大きな功績を残しました。

 玄関の「臨江閣」の文字は楫取素彦筆と伝わるそうです。


 群馬県は明治維新後、寺子屋などを利用して小学校を各地に開校しました。楫取が群馬県令として赴任した当時、統廃合を経て140校ほどありました。しかし女子就学率は低く、学校で学べる女子は少数でした。
 楫取が県令であった時代の女子教育改革のひとつとして、明治11年「前橋女学校」開校があげられます。明治13年に前橋市連雀町に新校舎落成。落成式には楫取素彦県令はじめ、前橋の名士が出席。(下村善太郎など前橋25名士という人たちが著名)
 女子の就学もしだいに増えていったのですが、明治16年の前橋大火で校舎が焼失してしまいました。

 その後、1902(明治34)年には「群馬県女子師範学校」が前橋に開学したほか、明治から大正年間に、群馬県の女学校は、裁縫伝習所、裁縫学校などとして設立されていきました。全国水準からみて、女子教育が普及していた県だったのは、生糸産業などで女性の力が大きかったこと(富岡製糸場など)や、楫取素彦美和子夫妻のように女子教育に力をいれた先人がいたこともあげられるだろうと思います。

 歴史ドラマとしてみると、『花燃ゆ』群馬編もけっこうな史実無視のシナリオでしたが、それは大河ドラマはいつも「主人公はぜったいいい人」の描き方なのだから、まあ仕方ないでしょう。楫取素彦も美和子もとてもいい人に描かれていましたが、群馬県女子教育に貢献したということは、事実なのだと思ってドラマを見ました。
 
 さて、群馬の女子教育。
 大正年間に設立された女学校のうち、1920(大正9)年に開校した町立実科高等女学校が、1923(大正12)年4月1日に県立高等女学校となりました。戦後は県立女子高等学校。この女子校が、私の母校です。やっちゃんやひさちゃんたちと3年間学びました。父は、姉、私、妹と3人姉妹がそろってこの県立女子高校の卒業生であることを自慢にしていました。

 戦後、女学校を共学化した都府県が多かったのに、群馬県と栃木県だけは男女別学を通しました。数少ない県立女子大学もあります(群馬県立女子大学)。
 群馬県の県立の有力進学校は、男女別学をこれからも貫くのかどうか。進学率が高い学校ほど別学支持者が多いのです。

 昔はそれほどの進学校でもなかったと思うのだけれど、今は県内でも「強い進学校」となっている母校、これからも女子高校を続けるのかしら。女子教育先進県という伝統と誇りが今でもOGを支え、「共学化反対」を続けていくってことも考えられます。(ひさちゃんは、女子高支持派)。

 私の女子高時代、「あの時代に、何をやるにも女子が主導権を発揮できた」という点ではよかったと思っています。東京へ出てきた後、共学の大学では、「男子をたて、男子を支える女子学生がモテる」というのを目にして、共学だと女子は「あなたをお支え申し上げます」役割しかできないのか、と思いました。
 しかし、なにせ21世紀。この先共学化するなら、それはそれでいいと思っています。(なげやり)

臨江閣の日本庭園

 
 前橋公園の中、臨江閣に隣接してルナパーク(中央児童遊園地)があります。
 1954年に開園した子供遊園地。私が小学生だったころは、田舎の子供のあこがれの遊び場でした。今も大人気の理由は、「日本一安い」遊園地であること。入園無料。11枚つづり500円のチケットで、乗り物などアトラクションを11回利用でき、しかも3歳までの子供は無料。大人といっしょに乗り物に乗るという設定の料金なので、500円で一日遊べる。モモが孫たちを遊ばせるには最適な場所です。
 回転木馬は私がこどものころからのものを変えていないというので、次に来たら乗ってみたい。

 ぐるぐる回る回転木馬。
 車輪とか、糸車とか、ぐるぐる回るものって、なぜか時間の流れを想起させます。たぶん、太陽や月星、が空をぐるぐる回っているからでしょうね。

 臨江閣をながめて、回転木馬をながめて、時代をぐるぐるさかのぼっているうちに桜の花びらもちらほらと舞い降りてきました。

 群馬県の春の一日。
 ふるさとの春のひと日はうらうらと明治につどいし人らを思う<春庭
 昭和の子を乗せて回転した木馬あのころの未来はきらきらしてたね<春庭

 こどもの日、世界中のすべての子ども達が望む教育を受けることができますように。

<つづく>
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2 コメント

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こんな建物があったのですね (くちかずこ)
2018-05-05 12:29:52
ガラス板は、古いままのようですね。
先日、プチ同窓会で行った下関の長府邸と似ているわ。
末永く保存されますように。
高校時代、共学でしたが、女子、強かったですよ。
進学校でしたが、成績でも、負けていなかったように思います。
気分は、いつも、横一列だった気がします。
くちこだけの実感?
回想・・・
くちこも、よくします。
そして、目眩がしそうになります。
あまりに長く生きてきた時間の長さに。
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くちかずこさん (春庭)
2018-05-05 22:26:54
高校での女子活躍率もくちかずこさんと春庭の10歳差は大きいのかもしれませんね。25歳売れ残りという方はどうでしょうか?適齢期は24歳までで25歳になればお相手の条件はぐんと悪くなったの。女子の生き方も年代によりけりかも。
近代和館は似たような建物が多いですが、長州出のかとりなのでデザインはかとりの好みが反映したのかも。
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