20180602
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>言葉は生々流転(1)そうなんですかぁ
ジャズダンスの先生が、レッスンを始める前に、怒り表情で(若者用語では、プンプン激オコ。もうすたれている言い方かも)、「e-Naちゃん、日本語の先生だから聞きたいんだけれど」と近づいてくる。おっと要注意。若く見えるけれど、ミワ先生も古希。この世代が言葉について物申すときは、若い世代の物言いが気に入らない時がほとんどです。
「あいずちを打つときね、若いアナウンサーなんかが、そうなんですかぁ、とか、そうなんですぅって言っているの、あれ、日本語としてどうなの」とのおたずね。やっぱりね。
「それにね、おいしいもの食べてもヤバイって言うの、どうにかなんないの、あんな言い方」
日本語教師は、おっとり答える。
「はい、どうにもなりません。日本語を話す人口の50%が使うと、三省堂辞書に載ります。80%が使うと広辞苑にのります。ヤバイを誉め言葉に使う、というのは、すでに三省堂に書かれています」
「ええ~、そうなの?」
2009年には、ヤバイの意味説明が、三省堂国語辞典 第六版では、「危険、悪いこと」のほかに、「すばらしい。むちゅうになりそうで あぶない」と出ています。もう10年前ですから、定着しています。
e-Naちゃんから先生に逆質問
「先生、超絶技巧のすばらしい踊りを見たとき、すご~い!って、いうことありますか」
「いうこともあるわね」
「すごいっていうのは、平安時代までは<すごし>ということばで、ぞっとするほどおそろしいという意味でした。それが、ぞっとしてふるえがくるほどすばらしいという意味が付け加わって、紫式部も源氏物語で使っています。たぶん、さいしょは、すごしを誉め言葉につかうことに非難ごうごうだったんだとおもいますけれど、千年たってみれば、すご~い、は、ごく普通に誉め言葉として使います。つまり、自分が生まれる前の変化は受け入れられる、自分が生きてしゃべっている間の変化は受け入れられない、というだけのことです」
先生は「そうなんですかぁ」という相槌ことばが気に入らないので、テレビ局に投書したのだけれど、受け入れられなかったので、憤懣を私にぶつけてきたのでした。
先生は相手に同意するときの相槌としては、「左様でございますか」を使いたいらしい。
私は、相手に同意を示したつもりで「なるほど」を多用するタレントに違和感を感じたことあるけれど、それはひとつひとつに「なるほど」を連発するボキャブラリーの貧困(ボキャ貧)にたいして感じたことであって、「左様でございますか」だって、こればかり使われたら違和感を感じるでしょう。
さまざまな言葉の意味変化、文法的な使い方の変化(例:見れる、食べれる、というら抜き言葉)も、自分が言葉を話し出す以前の変化であるなら、当然のこととして受け入れます。
受け入れられない言葉が出てきたということは、年をとった、ということです。
自分が気に入らないことばは、若者に迎合して使うことはない。拒絶して「自分の前では、おいしいものを食べて、ヤバイとか言うな」と、釘を刺しておきましょう。
でも、さまざまなことばの変化、あと百年たてば辞書に載っています。あと百年日本語が話されているとしてですが、今の状況では、百年後の日本語の未来おぼつかない。若者言葉が日本語を滅ぼすのではありません。
子供を育てる親が、「英語をペラペラ話せるほうがきちんとした日本語を話すよりも、よい職場に就職できて、よりよい生活ができる」と感じたら、その時点で日本語はおわり。
ま、日本語滅びる前に日本語教師生活もとっくに終わっているだろうから、私の生活には影響ないかもしれないけれど、1300年の言語文化が伝わらなくなるのは惜しい。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>言葉は生々流転(1)そうなんですかぁ
ジャズダンスの先生が、レッスンを始める前に、怒り表情で(若者用語では、プンプン激オコ。もうすたれている言い方かも)、「e-Naちゃん、日本語の先生だから聞きたいんだけれど」と近づいてくる。おっと要注意。若く見えるけれど、ミワ先生も古希。この世代が言葉について物申すときは、若い世代の物言いが気に入らない時がほとんどです。
「あいずちを打つときね、若いアナウンサーなんかが、そうなんですかぁ、とか、そうなんですぅって言っているの、あれ、日本語としてどうなの」とのおたずね。やっぱりね。
「それにね、おいしいもの食べてもヤバイって言うの、どうにかなんないの、あんな言い方」
日本語教師は、おっとり答える。
「はい、どうにもなりません。日本語を話す人口の50%が使うと、三省堂辞書に載ります。80%が使うと広辞苑にのります。ヤバイを誉め言葉に使う、というのは、すでに三省堂に書かれています」
「ええ~、そうなの?」
2009年には、ヤバイの意味説明が、三省堂国語辞典 第六版では、「危険、悪いこと」のほかに、「すばらしい。むちゅうになりそうで あぶない」と出ています。もう10年前ですから、定着しています。
e-Naちゃんから先生に逆質問
「先生、超絶技巧のすばらしい踊りを見たとき、すご~い!って、いうことありますか」
「いうこともあるわね」
「すごいっていうのは、平安時代までは<すごし>ということばで、ぞっとするほどおそろしいという意味でした。それが、ぞっとしてふるえがくるほどすばらしいという意味が付け加わって、紫式部も源氏物語で使っています。たぶん、さいしょは、すごしを誉め言葉につかうことに非難ごうごうだったんだとおもいますけれど、千年たってみれば、すご~い、は、ごく普通に誉め言葉として使います。つまり、自分が生まれる前の変化は受け入れられる、自分が生きてしゃべっている間の変化は受け入れられない、というだけのことです」
先生は「そうなんですかぁ」という相槌ことばが気に入らないので、テレビ局に投書したのだけれど、受け入れられなかったので、憤懣を私にぶつけてきたのでした。
先生は相手に同意するときの相槌としては、「左様でございますか」を使いたいらしい。
私は、相手に同意を示したつもりで「なるほど」を多用するタレントに違和感を感じたことあるけれど、それはひとつひとつに「なるほど」を連発するボキャブラリーの貧困(ボキャ貧)にたいして感じたことであって、「左様でございますか」だって、こればかり使われたら違和感を感じるでしょう。
さまざまな言葉の意味変化、文法的な使い方の変化(例:見れる、食べれる、というら抜き言葉)も、自分が言葉を話し出す以前の変化であるなら、当然のこととして受け入れます。
受け入れられない言葉が出てきたということは、年をとった、ということです。
自分が気に入らないことばは、若者に迎合して使うことはない。拒絶して「自分の前では、おいしいものを食べて、ヤバイとか言うな」と、釘を刺しておきましょう。
でも、さまざまなことばの変化、あと百年たてば辞書に載っています。あと百年日本語が話されているとしてですが、今の状況では、百年後の日本語の未来おぼつかない。若者言葉が日本語を滅ぼすのではありません。
子供を育てる親が、「英語をペラペラ話せるほうがきちんとした日本語を話すよりも、よい職場に就職できて、よりよい生活ができる」と感じたら、その時点で日本語はおわり。
ま、日本語滅びる前に日本語教師生活もとっくに終わっているだろうから、私の生活には影響ないかもしれないけれど、1300年の言語文化が伝わらなくなるのは惜しい。
<つづく>