白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

ミクシィ質疑応答(2チャンネルから)

2007-04-12 01:59:28 | Weblog
 2チャンネルに、先日こんな質疑応答が載っていましたが、この質問に対しての上祐さんの回答に、どうしても違和感を感じてしまうのは、私だけなのだろうか?おそらく以前は、違和感無くそのまま言葉を受け入れ、「そうそうその通り。」と思っていたと思うのですが、最近はへそ曲がりになってしまったものですから、こういう文章を見ると何か妙な感じがして仕方ありません。

『質問者
「何故お布施を欲するのですか?他人の金で賠償金ですか? 」

上祐氏回答
 「宗教的には、お布施は、在家信徒が出家修行者に行う宗教的実践であると共に、実際的には、教団がなす宗教的サービスに対する在家信徒の支払いの側面もあり、やってみれば分かりますが、お布施を受けることは容易ではありません。」』

回答の文章を3つに分けて考えたいと思います。

「宗教的には、お布施は、在家信徒が出家修行者に行う宗教的実践である」

 これは間違いないのですが、何か違和感を感じるのは、出家修行者に布施するのは何のためなのかという点に引っかかるからかもしれません。大体において、なぜ出家が生まれるのか?覚者や真理勝者がこの世に生じたことで、その法を学び、実践するために出家制度が出来上がるのだと思うのですが、M派は真理の御霊を否定してしまっていますし、行くところがないサマナのためとか、賠償金支払いのためと言う理由で出家制度を維持しているのであれば、そういった本来の出家の目的からは、はずれてしまっているのではないだろうかという疑問が湧いてきます。

 旧団体からの制度的な引継ぎのために、残しているとしか思えないのですが、そうするとM派に布施しても、他のボランティア団体に布施しても、功徳という点で変わらないのではないかということになってきます。大体M派に布施して、功徳になるのだろうかというのも疑問です。

次に、
「実際的には、教団がなす宗教的サービスに対する在家信徒の支払いの側面もあり」

 これは、一番分かりやすいです。為したサービスに対しての対価として支払われるわけですから、ヨーガ教室の授業料みたいなものと考えてよいのでしょう。これは、宗教事業といわれる部分なのかもしれません。

最後に、
「やってみれば分かりますが、お布施を受けることは容易ではありません。」

 これは、ミクシィ内での一般の方に対する回答なんですよね?
この回答をされて、理解できる一般の方がいるのだろうかという疑問があるのですが、どうなのでしょう?だいたい、普通の方の感覚としたら、前に座って黙っていても、5000円や10000円のお布施を、信者がうやうやしく持って来てくれるんですから、受け取れるものなら受け取りたいと思うのが人情じゃないですか。(笑)2,3時間で10万円くらいは集まるわけですから、時給4,5万円といったところです。誰でもやってみたいんじゃないでしょうか。

 信徒相手にこの発言をしたなら、信徒は教義に基づいて、煩悩の塊であるお金を受け取ることによって、受け手は相手の煩悩を引き受け、ひどく精神的にも肉体的にもダメージを受けるのだろう。それは大変なことだろうなと、推察することも出来ますが、教義も入っていない、一般の方相手にこんなことを言っても、??が一杯増えるだけのような気がします。
 逆に、お布施は口八丁手八丁でうまいことやらないと、相手から引き出すのはなかなか大変なのだな、などと言う、曲解さえ生まれかねないのではないかと心配してしまいます。

 私は以上のような点から、どうも違和感を感じてしまっています。