「青霄を独歩す(せいしょうをどっぽす)」
青空のもと一人颯爽と歩むこの先には気持ちの良い青空が広がっていると信じて
山川宗玄妙心寺派管長
4月8日はお釈迦さまの降誕会です。降誕会とは、「釈尊の誕生を奉讃する法会(ほうえ)。灌仏会(かんぶつえ)」(広辞苑)です。
キリストさまのクリスマスに比べて、地味で知らない人も多い。僧侶たるもの、4月には声を大きくして「花まつりだー」と叫ばなくてはいけないと思う。
さて、4月は新入社員もいるし入学式もあるし、新学期もはじまる。「新」の季節です。わが妙心寺教団が発行する月刊誌『花園』も4月号から表紙と巻頭のデザインが一新されました。4月号の表紙は山川宗玄妙心寺派管長の墨跡で、「青霄独歩」とあります。「霄」はなじみのない字だけど、白川静『字通』を引くと,「みぞれ。くも、宵(よい)と通じ、きえる、暗くはるかない意によって、天空の意にもちいる」とあるから、少々複雑でただの青空ではなさそうです。花園誌には「せいしょうをどっぽす」と、読みがなもふられています。その上、管長様ご自身の解説まであります。(管長は、禅宗では教団の代表者をあらわす職名ですが、実務的な代表というよりは、象徴的存在です。現管長の山川宗玄老師は昨春に就任されました。宗玄老師は昭和24年、東京東久留米市の米津寺に生まれ埼玉大学理学部物理学科卒業というおもしろい学歴です)。長くはないので、全文を載せます
青空のもと一人颯爽と歩く、なんと清々しい言葉でしょうか。
この春新しく社会人になる方、新たに進学する方たちにこの言葉を贈ります。
我々は誰でも色々な人たちに助けられながら生きています。しかしその分、世間のしがらみに束縛されることも多いようです。真に自由な人間となるには先ずこの柵(しがらみ)から自立することが必要です。孤独と共にある清々しさ、何ものにもとらわれず歩む自由、そして独り堂々とこの人生を歩んでいくのだという自覚。
人生の岐路に立つ多くの人に、今こそしっかりと自分をもち、自分の人生に責任をもって独り歩いていただきたいと願います。誰かのせいにする人生はつまらなく、美しくないものです。
そうして独り歩むこの先には気持ちの良い青空が広がっていると信じて。
管長さまの墨跡と解説は、まさしく、降誕会の言葉です。
約二千五百ほど前の四月八日、現在のネパールにあるルンビニーで生誕された釈尊は、「手助けなくして四方に行かれること各七歩されて、自ら、天上天下、ただ我のみ独り尊し」。そう、仰ったという。いくら聡明な釈尊でも、生まれてすぐに歩きはしないし言葉も発しない。後の時代にできた神話です。そんな神話化は、釈尊ご自身にとっても迷惑な話でしょうが、現代日本では、「唯我独尊」を、「ひとりよがり」のたとえと誤解するから深刻です。このやっかいな4文字があるから降誕会の説明は簡単ではない。4文字をいかに読み解けば良いか。キーワードは、「独」の字です。
宗玄管長さまは解説のなかで、「孤独と共にある清々しさ、何ものにもとらわれず歩む自由、そして独り堂々とこの人生を歩んでいくのだという自覚」。そう書いておられる。まさしくこれは、「唯我独尊」の現代語訳ではないだろうか。
しかしひとつだけ、管長さまに向かって凡僧の私などが申し上げるのは非礼ではありますが、「独り歩むこの先には気持ちの良い青空が広がっていると信じて」東西南北に各七歩されたのが、釈尊の誕生で仏教のはじまりになるわけで、凡夫はそれに気がつかないから、そこのところを明らかに記していただきたかった。もっとも、「奧に潜めた深意がわかるかなぁー」と、にんまりして読者を試しているかもしれない