こんばんは、白黒茶々です。
ついにやって来ました、台風18号が
今回の台風は強力で、私の住む東海地方を直撃し、そのまま北に去っていきました。

その嵐が去ったあとに箔を連れて散歩に出たら、家の近くの神社には大きな木の枝が落ちていて、カープミラーも倒れていました。
後者のほうは、根元が腐っていたのでやむを得ないトコもあるのですけど、たまに箔がシッコをかけていたので、ひょっとしたらその遠因を作っていたのかも。

また海岸のほうの様子も見に行ったら、海はまだ荒れていて、その堤防道路は砂をかぶっていました。
波がこの上にまで来ていたのでしょうか?

その台風の影響で、白黒茶々地方は上陸の前日の15日から雨が降っていて、その日に予定されていた合同体育祭は中止となってしまいました。
それは、中学校と地域の体育祭を合同でおこない、たつぴの活躍(?)を観ながら、私や箔母さんも参加できるという画期的なイベントだったのです。昨年まで19年間、中止になることはなかったのですけど、よりによってたつぴが現役のときにこうなるなんて……… 中止宣言のあと、体育委員会の方によって参加予定だった私たちにお弁当だけが配られました。
しかし、その直後に天気が回復し、陽が出てきたのですよ。
こうなったら、家でおとなしくしているのはもったいない。たつぴを連れて、以前から私が気になっているところに行くことにします
せっかくなので、箔もついてきなさい。
その「以前から気になっているところ」とは……… 平成の大合併によって現在は浜松市の一部となっている旧周智郡春野町には、過疎化などによって廃校になった学校がたくさんあるのですけど、それらが今どのようになっているのか、実際に見に行こうというのです。
しかしそのような学校跡は地図からは消えているので、正確な位置を特定できないということが多々あるのですよ。なので場所によっては、私の勘まかせということに。
私たちが最初に向かった廃校も、そのようなところでした。
私の手元にある地図は平成5年(1993年)版の古いもので、その学校もまだ載っているのですけど、春野町が田舎……… いや、緑豊かな山間地ということもあって、大まかな表示となっていました。
春野南部の犬居地区の街中を何回かグルグル廻っても見つからず、うっかり中世の山城の犬居城跡に至る山道に入ったりしましたけど………

犬居小学校の裏側に、最初の目的地の廃校こと、旧春野町立春野南中学校はありました。こちらの学校は、平成17年(2005年)に近隣の中学校との統廃合によって閉校となりました。

それでも校門や校舎、体育館は当時のまま残っていました。校庭に草が生い茂ってはいるものの、この日は日曜日ということもあって学校は休みで、明日になったら生徒たちが通学してきそうな気がします。

「自主協和」の校訓や、校歌の歌詞が刻まれた石碑が、どこか悲しげです。
また、水道の蛇口をひねっても、水は出てきませんでした。

昇校口を覗いていたら、なぜか箔は何かに反応してブンブン前足を振りだしたのです
そこに何かいるの
違う意味で賑やかだったら、困ります。といったとこで、そろそろ次の目的地に向かうことにしましょう。

国道362号線を北上していくと、その道沿いに春野文化センターがあります。
そこに入っていくと………

なんと、私たちの正面に巨大な天狗のお面が迫ってくるのです
これは、この地方の伝説やお祭りにちなんだものなのでしょうか?
とにかく、インパクトはありありです。

その敷地内には、白井鐵造記念館もあります。
彼はこの地方の出身で、宝塚歌劇団の演出家であり、「すみれの花咲く頃」の訳詞でも知られています。時間のある方は、こちらのほうもご見学くださいませ。

それだけではなく、二宮尊徳(金次郎)の石像もあるということは……… そうです
実はこちらも昔の学校の跡だったのですよ。春野町立宮川小学校といって、昭和47年(1972年)までその学校はありました。よく見てみると、先ほどの入口には標札はないものの、学校の門柱が残っています。
だんだんとノッてきたので、この勢いのまま次に向かいますよ

国道362号線をさらに北に進んでいくと、その左側に小石間隧道というトンネルが見えてきます。
車1台がやっと通れるその隧道(敢えてこう呼ばせてください)は先が見えないほど長く………

皆さんの「ちょっと待って
」という声もおかまいなしで入っていきますよ
長くてなんとなく不気味なその隧道は、真ん中あたりにちょっと広くなっている退避所があるだけです。それでも、できたら対向車は来ないでくださいね。
その隧道を抜けた先の、集落を見下ろす高台の上には………

こちらにも、廃校となった学校がありました。
その標札には………

春野町立豊岡小学校と書いてあります。こちらの学校は、昭和55年(1980年)まで存在し、この地域の教育の中心となっていました。
現在はその敷地内に公民館の新しい建物が建てられているのですけど、

かつての小学校のものと思われる古い建物もありましたよ。
失礼して、その中の様子をちょっと覗かせていただきます。

廊下と思われる空間はやや荒れているみたいですけど、これは体育館か講堂だったトコでしょうか?昔ながらの外便所は、写真に撮るのは自粛しましたけど、「使用禁止」となっていて、トイレの花子さんが出そうな雰囲気でした。

また、こちらにも二宮尊徳さんの像がありました。報徳教育の手本として崇められた尊徳さんは、古い学校には必ずといっていいほどありました。学校がなくなったあとは、その地が教育の場だったということを指し示すシンボルとして残り続けていてもらいたいです。

まだまだ私たちの廃校めぐりは続きますよ
今度は、車1台がやっと通れる山道を進んでいきました。先ほど以上に「対向車、来ナイデ
」と叫びながら進んでいったその先には………

「周智郡 立勝坂小学校」とありますね。石碑や建物に「気多村立」とか「春野町立」とかいろいろな形で標記されているのですけど、とにかく勝坂小学校の跡なのですよ。

こちらの学校は、昭和43年(1968年)に閉校になったのですけど、木造2階建ての校舎は当時のまま残っていて、現在は公民館として活用されているそうです。
最近その校舎が建設当時と同じピンク色に塗り直され、そのことが新聞の県内版に載りました。私はその記事によってその存在を初めて知り、廃校熱に火がついたのでした。

その建物の窓に手をかけたら開いたので、またまた失礼してその中の様子を撮らせていただきました。
昔の教室がそのまま残っていますね。

せっかくなのでその校舎をバックにして、箔の写真を撮っておきましょう
う~む、昔の学校に昔ながらのワンコは合っていますね。
それよりもこの組み合わせは、なんて昭和チックなのでしょうか
さらにそれらをセピア色に加工してみたら………

おおっ
ノスタルジック度が上がりましたよ。昭和30年代の懐かしい風景がそこに。嗚呼、あの頃に戻りたい……… って、私はその頃にはまだ生まれてなかったのですけど。
今回私たちは、遺跡を確認するようにして廃校を巡っていきました。
校舎などの建物が失われてもその面影は残っていて、目を閉じて耳を済ませば、そこに通う生徒や児童たちの声が聞こえてくるようでした。
私とたつぴだけが楽しんでいたら申し訳ないので、箔のためにもこの日のドライブの締めに、新東名高速道路の浜松サービスエリアのドッグランに寄ることにしましょう。そちらでの様子については、次回レポートさせていただきます。

今回の箔のブンブンが怖かったという方は、こちらに投票してやってください。
ついにやって来ました、台風18号が



その嵐が去ったあとに箔を連れて散歩に出たら、家の近くの神社には大きな木の枝が落ちていて、カープミラーも倒れていました。



また海岸のほうの様子も見に行ったら、海はまだ荒れていて、その堤防道路は砂をかぶっていました。


その台風の影響で、白黒茶々地方は上陸の前日の15日から雨が降っていて、その日に予定されていた合同体育祭は中止となってしまいました。




その「以前から気になっているところ」とは……… 平成の大合併によって現在は浜松市の一部となっている旧周智郡春野町には、過疎化などによって廃校になった学校がたくさんあるのですけど、それらが今どのようになっているのか、実際に見に行こうというのです。


私の手元にある地図は平成5年(1993年)版の古いもので、その学校もまだ載っているのですけど、春野町が田舎……… いや、緑豊かな山間地ということもあって、大まかな表示となっていました。


犬居小学校の裏側に、最初の目的地の廃校こと、旧春野町立春野南中学校はありました。こちらの学校は、平成17年(2005年)に近隣の中学校との統廃合によって閉校となりました。

それでも校門や校舎、体育館は当時のまま残っていました。校庭に草が生い茂ってはいるものの、この日は日曜日ということもあって学校は休みで、明日になったら生徒たちが通学してきそうな気がします。


「自主協和」の校訓や、校歌の歌詞が刻まれた石碑が、どこか悲しげです。


昇校口を覗いていたら、なぜか箔は何かに反応してブンブン前足を振りだしたのです




国道362号線を北上していくと、その道沿いに春野文化センターがあります。


なんと、私たちの正面に巨大な天狗のお面が迫ってくるのです



その敷地内には、白井鐵造記念館もあります。


それだけではなく、二宮尊徳(金次郎)の石像もあるということは……… そうです




国道362号線をさらに北に進んでいくと、その左側に小石間隧道というトンネルが見えてきます。


皆さんの「ちょっと待って




こちらにも、廃校となった学校がありました。


春野町立豊岡小学校と書いてあります。こちらの学校は、昭和55年(1980年)まで存在し、この地域の教育の中心となっていました。


かつての小学校のものと思われる古い建物もありましたよ。


廊下と思われる空間はやや荒れているみたいですけど、これは体育館か講堂だったトコでしょうか?昔ながらの外便所は、写真に撮るのは自粛しましたけど、「使用禁止」となっていて、トイレの花子さんが出そうな雰囲気でした。


また、こちらにも二宮尊徳さんの像がありました。報徳教育の手本として崇められた尊徳さんは、古い学校には必ずといっていいほどありました。学校がなくなったあとは、その地が教育の場だったということを指し示すシンボルとして残り続けていてもらいたいです。


まだまだ私たちの廃校めぐりは続きますよ



「周智郡 立勝坂小学校」とありますね。石碑や建物に「気多村立」とか「春野町立」とかいろいろな形で標記されているのですけど、とにかく勝坂小学校の跡なのですよ。


こちらの学校は、昭和43年(1968年)に閉校になったのですけど、木造2階建ての校舎は当時のまま残っていて、現在は公民館として活用されているそうです。



その建物の窓に手をかけたら開いたので、またまた失礼してその中の様子を撮らせていただきました。


せっかくなのでその校舎をバックにして、箔の写真を撮っておきましょう




おおっ


今回私たちは、遺跡を確認するようにして廃校を巡っていきました。


私とたつぴだけが楽しんでいたら申し訳ないので、箔のためにもこの日のドライブの締めに、新東名高速道路の浜松サービスエリアのドッグランに寄ることにしましょう。そちらでの様子については、次回レポートさせていただきます。





昔の校舎 なつかしい~♪
いやいや!! 私もまだうまれていませんが・・・
当初のピンクに塗りなおした校舎が残っているのですね。
ピンクの校舎なんてステキですね!廃坑めぐり・・・ 私は、白黒茶々さんのレポートで行った気持ちになっておくことにします! 箔くんが感じとったなにかが・・・気になる~ (*_*)
ほとんどの学校跡には校舎は残っていなかったのですけど(4つ訪問したうち2つ)、今回私たちが最後に訪れた旧勝坂小学校には、昔ながらの木造のものがありました。
箔が反応したものは何だったのか?そのヒントというか答えは次の日記に載せるので、そちらのほうも合わせてご覧くださいませ
木造校舎…懐かしいです。 丸ジジは、小学校三年生まで、木造校舎でした。
チャイムは無く、用務員のおじさんが、鐘をならして、回っていました。当然、トイレは、汲み取り式でした。
丸ジジさんは、木造の校舎で学ばれたことがあったのですか。
今回私たちが見に行った旧豊岡小学校のトイレも、汲み取り式っぽかったです。
丸ジジの通った小学校は、平屋でした。
卒業アルバムの入学当時の写真を、丸母は、まるで、24の瞳?みたいと笑いました!!
平屋の木造校舎、いいですね。
http://blog.goo.ne.jp/hakubanoinu/e/c995a38348413e6148d614c26a47231e
丸ジジさんがかつて通われた学校も、このような感じでしょうか?こちらも、映画のロケに使えるかも
丸ジジの通った小学校は、まだ廃校にはなっていません!! あの頃 九州の炭鉱の閉山が、相次いで離職者が、仕事を求めて中部地方に大挙やって来ました。西尾市にも多くの人が来ました。その為、学校は、平屋の木造校舎から、鉄筋3偕建ての校舎が、建てられ、木造校舎は、取り壊しになりました!!
丸ジジさんの母校の小学校は廃校とは逆の道を行っていて、、児童数が増えて繁栄したのですね。
私が通った小学校は、第二次ベビーブームの世代ということもあって、1800人近くのマンモス校でした。しかし、たつぴが通っている中学校は、一学年40人未満の小規模校なのですよ。