Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

大義~R・Bパール博士を偲ぶ

2006-01-10 23:14:00 | インポート
皆様、この所私は左肩に不調が出てしまい、ご心配をおかけし申し訳ありません。
一昨日以来の症状ですが、昨日より通院して治療に取組んでいます。肩の関節の炎症の様で、なるべく早期に症状の解消を目指しますので宜しくご理解をお願いします。
さて今日1/10は、私の尊敬する外国有識者のお1人でインドの法学者、Radhabinod Pal博士の命日に当ります。
昨年末にも触れた、我国の戦後処理の中核をなした極東国際軍事裁判の関係者中、唯一の国際法の権威であった同博士は1886=明治19年1月、当時英国の統治下にあったインド、ベンガル州のご出身。母校カルカッタ大學(当時)の教授を務める傍ら、インド政府法律顧問等の要職をもこなし、極東国際軍事裁判の期間中はその職務にご専念、後国際連合国際法委員長の栄誉を担ったのは良く知られる所です。
俗に「東京裁判」と呼ばれる極東国際軍事裁判は過日も触れた様に、その法的根拠や関係者の構成等、幾多の問題を抱えたものでありましたが、同博士は自らの危険を顧みる事なくこの裁判の矛盾点、そして問題点を指弾して「所詮は勝者による報復裁判である」とのご見解を示し、所謂A級戦争犯罪人とされた被告団全員無罪の判決意見書を公になされたのでありました。なかんずく、合衆国による我国への原爆投下の蛮行に対しては、極めて厳しい姿勢をお示しになっています。
同博士の血と汗のご尽力も空しく、この100万語にも及ぶと言われる意見書は却下され、被告中7名に絞首刑が執行される結末を迎えますが、同博士のご裁定は長い歳月を経てようやくその妥当性が認知され、世界の国際法上の定説として認められ、尊重される様になりました。
昨年、靖国神社の境内に、同博士の勇気と見識を称える顕彰碑が建立され、私も一度詣でております。その時の意見書を締めくくった崇高なお言葉は、常に碑のそばにコピーが備えられ、参拝者が1部ずつ持ち帰る事ができます。この文面は我がHP「HAKASEの隠し部屋」自己紹介欄に掲出させて頂いておりますので、是非一度目を通して下されば幸いです。
最後に同博士は、そのご生涯最期まで我国との交流に尽力され、「日本よ日本たれ。日本人よ日本人たれ」と折々強く仰っていたやに聞いております。
ご逝去は1967=昭和42年のこの日。思えば大変に智勇に満ちた、濃い80余年の人生ではなかったかと思います。
常に日本を、そしてアジアを念頭に生き続けた同博士のご遺徳に対し、我々日本人は厚く一礼を申し上げるべきではないでしょうか?*(日本)*


コメント
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