TOMO's Art Office Philosophy

作曲家・平山智の哲学 / Tomo Hirayama, a composer's philosophy

哲学とはなにか What is Philosophy ?

2023年12月28日 | 哲学的考察
哲学とは

・人間とはなにか
・世界とはなにか
・人が生きる意味とはなにか

永遠に答えに辿り着くことはないであろうこれらの問いに立ち向かう無限のプロセスである。


What is Philosophy ?

What is human-being ?
What is the world ?
What is the meaning of human life ?

It is an endless process of confronting these questions that will never be answered.

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柄谷行人さん、「哲学のノーベル賞」バーグルエン賞受賞

2022年12月10日 | 哲学的考察
柄谷行人さんは東西の哲学・思想を踏破し、「独自の理論体系を築くに至った稀有な日本人」なので筆舌に尽くしがたい嬉しさです。
私が知る限り日本でこの領域に達した哲学者は片手で数えるほどしかおられません。

柄谷さんの著作を読まれたことのない方は是非一読をお薦めします。特に「探求Ⅰ・Ⅱ」は西田幾多郎の「善の研究」にも匹敵する名著です。

初心者→「倫理21」(平凡社ライブラリー)

中級者→「哲学の起源」(岩波現代文庫)

上級者→「探求Ⅰ・Ⅱ」(講談社学術文庫)

ちなみに「哲学の起源」は入門書ではありません。ソクラテスの思想背景を歴史学、社会学、地政学的に分析し、
既成のソクラテス像を刷新した野心作です。欧州の学会でも大きな波紋を呼びました。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アニメ「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」はなぜ凄いのか

2022年01月22日 | 哲学的考察
「ITは機械と機械をつないだにすぎません。人と人との心をつないだわけではないんです」

NHKのインタビューで台湾デジタル担当相オードリー・タンが語った言葉である。これは現在のインターネット、AI、ロボティクスを含むIT・デジタル(以下、「情報技術」と呼ぶ)の限界を端的に突いた指摘だろう。インターネットで人と人との心のつながりができたなら、既に戦争などなくなっているはずだ。(それどころか現実は米ソ、米中対立が象徴するように分断への道を突き進んでいるように見える)

さて、この情報技術の限界と予期しうる困難をいち早くアニメ化したのが「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」である。原作者は士郎正宗。監督は押井塾出身の神山健治。

攻殻機動隊の世界では人体を極限まで機械化する「義体化」という技術が発達し、義体化した人間同士で通信、インターネットへの接続が可能となっている。さらに義体の首筋には接続プラグが組み込まれており、「電脳」技術で各個人の記憶や感情の共有が可能になっている。一言で言えばサイボーグ化が極限まで進んだ世界ということになるだろう。

ゴースト~人が人たる条件とはなにか

それでも人間に残る「何か」を作中では「GHOST(ゴースト)」と読んでいる。ゴーストの定義は作中では明示されていない。感情か、心か、はたまた超越論的な純粋思惟とでも言うべきものなのか。視聴者は主人公の草薙素子やトグサ、バトーらの葛藤を見つめながら自ら考え、判断することを求められる。作中登場する天才ハッカーが図書館(紙媒体)に残された最後の司書であることは極めて象徴的である。

タチコマ~AIは意思と感情を持ちうるか

さらに示唆的なのは「タチコマ」と呼ばれる多脚戦車である。AIが搭載され、複数台あるタチコマの記憶(記録)は常に並列化され、個体差を発生させないよう一元管理されている。まさに近未来型の戦闘兵器である。ところが人間との会話や実戦経験を積むに従い、タチコマに個体差(個性)が生まれ、最終的に人間の感情に近い「何か」を獲得する様が描かれている。この「何か」を獲得したタチコマは人間があたえたコマンド=「命令」に逆らい、トグサを救うために自らの意思(らしきもの)で自爆する道を選ぶ。
これは「人間とはなにか」という哲学的問いのみならず、AIの「ブラックボックス化問題(※)」をいち早く捉えた問題提起であろう。

スカパーでの放映が約20年前の2002年であることを考えると、その先見性と情報技術に対する優れた洞察力には脱帽せざるを得ない。日本のアニメ、SFが世界に誇るコンテンツであることはやはり疑いようのない事実なのである。

※AIは超大量のデータやディープラーニングをもとに何等かの判断を下すことはできるが、その根拠を人間が理解することはできない

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(Amazon Prime Video)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西田幾多郎「善の研究」第十一章「善行為の動機」(善の形式)<要約>

2020年03月29日 | 哲学的考察
<本文より要所を引用>

「善とは自己の内面的欲求を満足するものをいうので、自己の最大なる欲求とは意識の根本的統一力すなわち人格の要求であるから、これを満足することすなわち人格の実現というのが我々にとりて絶対的善である。」

「人格とはかかる場合において心の奥底より現れ来たって、徐に全身を抱擁する一種の内面的要求の声である。~中略~人を欺くのが悪であるというは、これより起こる結果によるよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。」

「自己の知を尽くし情を尽くした上において始めて真の人格的欲求すなわち至誠が現れてくるのである。自己の全力を尽くしきり、ほとんど自己の意識がなくなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の活動を見るのである。」

「その人の最も真摯なる要求はいつでもその人の見る客観世界の理想と常に一致したものでなければならぬ。~中略~善行為は必ず愛であるということができる。愛というのはすべて自他一致の感情である。ただに人が人に対する場合のみでなく、画家が自然に対する場合も愛である。」

「主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫て善行の極致に達するのである。~中略~我が見る世界を離れて我はない。天地同根万物一体である。」

<要約>
1.善=自己の内面的欲求を満足すること=人格の実現
2.人格の実現(≠自分勝手)=自他一致の感情=愛
3.ただし、自他とは自分と他人だけでなく、自分と自然、自分をとりまく世界の全てを指す。
4.したがって天地同根万物一体の境地を目指すべきだ。
5.その為には知情意すべてを尽くしきり、自己の意識がなくなるまで活動を突き詰めなければならない。

善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アイヌのシンメトリー的世界観、あべこべの並行世界

2019年11月24日 | 哲学的考察
去る週末、北海道近代美術館の「アイヌの美しき手仕事」展を拝見してきた。戦中戦後の民藝運動の指導者、柳宗悦と芹沢銈介の収集したアイヌの生活用品が見られるいい展示だった。


アイヌ文様のシンメトリー


アイヌの衣装や首飾り(タマサイ)を見ていて、すぐに気づくのがシンメトリー(左右対称)だ。特にアイヌの衣装にステッチされている渦巻き文(モレウ)はほとんど全てがシンメトリーをなしている。よく見るとアシンメトリック(左右非対称)な文様もところどころに見て取れなくはないが、アクセントの領域を出ない。あくまで基本はシンメトリーである。

https://www.furusato-pr.jp/images/hokkaido/ainu-2_img_04.jpg


アイヌのシンメトリックな世界観

さて、シンメトリーは古今東西あらゆるデザイン、装飾、美術にみられる表現方法であり、それ自体をアイヌ「特有」とするのは明らかな誤謬である。ただ面白いのはアイヌの世界観がこれらの文様と呼応するようなシンメトリーを形成していることなのだ。

キリスト教の世界観(対比のために)


わかりやすく対比するために、キリスト教の世界観を俯瞰しよう。(なお、キリスト教宗派間、ユダヤ教の解釈のズレは一旦脇に置く)
キリスト今日の世界観では人は唯一絶対の「神」に似せた被造物であり、愚かにも「知恵の樹の果実」を食してエデンを追放された不完全な存在(原罪)である。死者は「最後の審判」を待って天国と地獄へ振り分けられる。つまり、キリスト教には神の住まう「天国」、不完全な存在である人間の生きる「現世」、罪人と悪魔が永遠に苦悩するよう定められた「地獄」という3つの世界があり、明確な上下関係をなしている(システィナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」がその象徴と言えよう)。

アイヌの世界観

それに対して、アイヌの世界観はこうだ。アイヌは死後、人間は皆、「神(カムイ)」となり「カムイ・モシリ」という死後の世界に向かう。ただし、人間は「カムイ・モシリ」でもこの世と全く同じ形をし、全く同じ生活を送る。その証拠にアイヌ民族は埋葬時に故人の服から刀、煙草入れまで生活に必要なものを一緒に埋葬する。
この世とあの世の違いはと言えば、「双方ともに容易に行き来はできない(運よく行き来できても透明になってしまうので互いに認識はできない)」「この世とあの世は昼夜があべこべである」「時間の流れが異なり、あの世の数時間はこの世の数週間に相当する」(浦島太郎のようである)「あの世では死んだ人々は、天井にとまるハエのように、足をさかさまにして歩く」(ホラー映画のようだ)。といった具合。あの世だからと言ってこの世より優れた上位の世界というわけではない。あの世とこの世で言わば「鏡」のような対称的な関係性が成り立っているのである。

一つ注釈を付けくわえねばならないのは「神(カムイ)」の概念だろう。アイヌの神話にも古事記のような様々な「神」が登場するのだが、キリスト教における「GOD」や天照大御神のような超越的な存在ではない。どちらかと言うと自分たちの生活圏に存在する自然(山、雪)や動物(熊、オオカミ)たちを擬人化、抽象化している側面が強い。伝承内での振る舞いも人間的である。なにせ皆が皆「神」になるわけだから、超越もなにもない。
そもそも「神」という概念自体、比較的後世に本州から輸入、影響を受けたものであることが最近の研究で判明してきているので、今後の調査に期待したい。

このようなアイヌ独特の世界観を山田孝子は「相補二元的宇宙観」(*)と命名しているが、私個人の意見としては「鏡像的並行世界観」としたほうがアイヌのイメージに近いのではないかと思われる。自然を擬人化した多神教は世界中に存在するが(ギリシャ神話やエジプト神話、古事記)、この鏡像的な世界観はあまりお目にかかったことがない。神話というより物理の多元宇宙論に近い印象すら受ける。前述の通り、アイヌの世界観は本州やロシアの影響を当然受けているので、その変遷を明らかにすることによって、善悪二元論や天国現世地獄の3階層といった暗黙の世界観に新しい可能性を投げかけてくれるかもしれない。

*アイヌの世界観 講談社学術文庫 山田孝子著


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アニメ「電脳コイル」はなぜ凄いのか

2019年10月02日 | 哲学的考察
「20XX年、子供達の間で“電脳メガネ”が大流行していた。この“電脳メガネ”は、街のどこからでもネットに接続し様々な情報を表示する機能を備えた、子供たちになくてはならないアイテムだ。」

2007年、今なにかとお騒がせのNHKで放送された「電脳コイル」は凄いアニメだ。若手詩人の最果タヒも河出書房「人生を変えるアニメ」で本作を取り上げているが、色々な意味で時代を超越した異色作だ。ネタバレしないレベルでその凄さを書き留めておきたい。

1・VR(仮想現実)ではなくAR(拡張現実)

本作で驚くべき点は2007年の時点でARが社会インフラとして確立することを示唆している点だ。2006年にはVRの草分けである「セカンドライフ」日本版がリリースされている中で、「仮想現実」ではなく「拡張現実」が社会インフラとして先に浸透することを描き切るとは驚くべき想像力である。ARゲームの金字塔である「ポケモンGO」の発売が2016年であることを考え合わせると、もはや奇跡としか言いようがない。

2・ウェアラブルデバイス

冒頭の説明文にもあるとおり、このアニメでARデバイスとして登場するのが「電脳メガネ」。映像・音声を自在にコントロールできるウェアラブルデバイスだ。現時点でウェアラブルデバイスと呼べるのはスマートウォッチくらいのもの。プレイステーションVRのゴーグルの大きさを考えると「電脳メガネ」はさらに5~10年後を予想した技術と言えるだろう。

3・AIと並行世界

「電脳コイル」のAR上にはAI(人工知能)を駆使した電脳ペットやプログラム修復ロボットが登場する。そしてARに映し出される表象の総体である「電脳空間」は所謂現実世界からは自立した独自世界を形成している。物語の後半に進むにつれ、これらの技術がもとは「医療用」に開発されたものであること。しかしながら人間の脳に悪影響を及ぼす可能性があること等が明らかになってくる。これはインターネットの普及に伴って発生した多層世界(*)や理論物理学でも話題にあがる「並行世界」を想起させる。「電脳コイル」の前では映画「マトリックス」でさえ陳腐に見えてしまうのは僕だけだろうか。
このような本来の目的を逸脱した技術利用や多元的世界観は現代社会の複雑さと生き辛さを見事に先読みしている。技術は直線的な進歩を止めないが、人間はころころと「進化」したりはしない。技術を扱う「人間の在り方」を問い直し続けることが正しい意味での倫理問題なのだ。

NHKは時々、こういった革新的なアニメ(コンテンツ)を生み出すから面白い。「未来少年コナン」「名探偵ホームズ」「ふしぎの海のナディア」等々。NHKが構造的な問題を抱えているのは間違いないし、受信料の在り方にも疑問を感じざるを得ないが、こうした挑戦的なコンテンツの作り手には必ず生き抜いてもらいたい。


Amazon Prime Video「電脳コイル」
https://amzn.to/2nOOVYt

Den-noh Coil: Complete Collection [Blu-ray]
https://amzn.to/2LJiuUw

*リアルとネットの同時進行に伴うアイデンティティの分裂はいまや社会問題となっている(ウラ掲示板やネトウヨ、「炎上」等が好例だろう)。詳しくは平野啓一郎の小説斎藤環の精神分析を参照頂きたい。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人はモノを買うのではない。イメージを買う。

2017年10月01日 | 哲学的考察
出張続きでカバンがボロボロになってしまったので、ネットでオススメのブランド品(2万円くらい)を買おうとしたら、「バックくらい自分で足使って探して来なさい!」と妻に一喝された。仕方なくパ○コやらコ〇サやらで片っ端から検分したところ、結局、紳士服量販店の6,000円のやつが軽くて機能的でしっくりきた。投資家のバフェットが「Never lose money」と繰り返していたが、その通りだと思った。

思うに人はモノを買う時、以下の3つの要素を無意識に考慮している。

①機能=必要な機能を満たしているか
②品質=金額に見合うクオリティか
③イメージ=それを手に入れた時に実現すると思われる「個性的な自分」像

である。実際のところそのモノを買うことで個性的な自分が実現するわけではないのだが、人はこのイメージに大きく左右される。ジャン・ボードリヤールの言葉を借りれば、「モノが客観的機能(道具性)を相対的に失って、記号としての意味を持つようになった」社会(消費社会)では、「個性的な自分」を演出するための「差異指示記号」としてモノが消費されるのだ。
ヴィ〇ンだかシャ〇ルだかの限定モデルのバックを持った女性が誇らし気に歩いている。必ずしも周りの人々から魅力的に見えているわけではないのだが、彼女にとってはそれが「他の人々との差異(優越感)」なのである。もちろん私とてそのような消費社会の呪縛から完全に自由ではありえないのだが、せめてムダ金は使いたくないものである。

ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「1+1=2」ではない理由~もうすぐ中学生になる娘の為に、ブライアン・イーノを聴きながら~

2016年09月24日 | 哲学的考察
~もうすぐ中学生になる娘の為に、ブライアン・イーノを聴きながら~

Tomo「ここにリンゴが1つとミカンが1つあります。合わせていくつでしょう?」

Youh「こんなの簡単。2つに決まってるじゃん!」

Tomo「そうかな~。じゃあ、問題を変えようか。リンゴジュースが1杯とミカンジュースが1杯あります。あわせて何杯でしょうか?」

Youh「え…2杯かな…。あ、でもどうやって合わせるの!?混ぜちゃったら1杯?」

Tomo「そうだねぇ。難しいね。混ぜちゃったら1杯だけど、それってミックスジュースだよね(笑)
   それにリンゴジュースが1ℓパックで、ミカンジュースが缶ジュースだったら、それって2杯なのかね?
   全然量が違うけど。」

Youh「うーん…確かに。リンゴとミカンもよく考えたら、合わせても2つにならないねぇ。
   それって、リンゴ1つとミカン1つだよねぇ。」

Tomo「そうそう!リンゴとミカンは合わせてもリンゴとミカンだからね(笑)
   でも、リンゴとミカンは『果物』だから…果物としては2つって言えるな」

Youh「う~ん、よくわからなくなってきた~。ムキー(怒)!」

Tomo「Youh、これはね、『抽象化』っていう考え方なんだよ。
   『抽象化』っていうのはそれぞれが持っている個性や特徴を一回無視してモノを考えること。
   リンゴは赤いし、ミカンは黄色い。けど、それをあえて無視して『果物』または『物体』って考えると、
   1(個の果物)+1(個の果物)=2(個の果物)になるんだね」

Youh「そうかー。じゃあ計算をするときはちゃんと意味を考えないといけないねぇ。面倒くさ~」

Tomo「まあ、テストでいちいちそんなこと考えてたら100点とれないよね(笑)
   でもね、これはとても大事なことなんだよ。
   ニュースや新聞で『昨日、○○の事故で32人死亡しました』っていう時に、
   その32人はどこの誰で、どんな家族が居て、どんな人生を送ってて、どんな人が悲しんでいるのか。
   僕らはきちんと『想像力』で補わないと、人間でさえ、ただの『物』になっちゃうんだ」

Youh「そうか。じゃあ『抽象化』するときは『想像力』も使わないといけないんだね」

Tomo「そうそう!そのバランスが大切なんだ!やっぱ天才の子は天才だなー、はっはっは(笑)」

Youh「パパはね~、他人からどう思われてるか、もうちょっと想像しないとダメだよ…」

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曼珠沙華-平山美智子 山田耕筰を歌う

2015年02月28日 | 哲学的考察
大叔母の平山美智子が歌う山田耕作は、まさに童が歌うかのような純粋さに溢れている。
「歌」とは決して非日常としてのアートではなく、人間の根源的な欲求の表出であることを再認識させられる。

作曲を本格的に始めた私に美智子叔母が言った言葉がある。
「作曲とは即ち哲学である」
作曲とは「人間が生きる意味を問う」普遍的な行為であることを伝えたかったのだと思う。

そんな大叔母が自身の集大成に山田耕筰を選んだことは極めて自然なことに思える。

大叔母はしばしば、日々の生活(「生きる」という行為)から乖離していく現代音楽の方向性を嘆いていた。
我々は彼女の歌を一通の手紙のように自然に受けとればよいのだと思う。

*ちなみに早坂文雄の「うぐいす」は実は「ある女性へ向けられた恋文なのだ」と大叔母が教えてくれたことをメモしておく(笑)

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西田幾多郎「善の研究」読後メモ 真善美は同一

2011年06月26日 | 哲学的考察
西田幾多郎の「善の研究」を大学以来、久々に読み返す。
芸術に関する点で印象に残る部分を備忘録としてメモ。

真善美は究極的には同一のもの(統一的あるもの、根源的な統一力)の異なる表現でしかないということ。善とは「人格の実現」=「意識の根源的統一力」=「実在の根底における無限なる統一力」。「主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみになるに至って、はじめて善行の極地に達するのである」。

「我々が単に内面的なる主観的精神といっているものは極めて表面的なる微弱なる精神である。すなわち個人的空想である。これに反して、大なる深き精神は宇宙の真理に合したる宇宙の活動そのものである。それで、かくの如き精神にはおのずから外界の活動を伴うのである、活動すまいと思うてもできないのである。美術家の神来の如きはその一例である。」 第二編 実在 第九章 精神

「自己の知を尽くし情を尽くした上においてはじめて真の人格的要求すなわち至誠が現れてくるのである。自己の全力を尽くしきり、ほとんど自己の意識がなくなり、自己が自己を意識せざるところに、始めて真の人格の活動をみる(これはまさに善行そのものということになるbyTOMO)のである。試みに芸術の作品について見よ。画家の真の人格すなわちオリジナリティはいかなる場合に現れるか。画家が意識の上において種々の企図をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆おのずから随う所に至って始めてこれを見ることができるのである。」第三編 善 第十一章 善行為の動機

天地同根万物一体。インド、中国をはじめとする東洋の思想を理解(体得?)できていないと感じる。また機をみて読み返してみたい。


善の研究 <全注釈> (講談社学術文庫)

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする