一句鑑賞

俳句をとおして思うこと

風呂吹

2018年11月16日 | 一句鑑賞

風呂吹にとろりと味噌の流れけり  松瀬青々

風呂吹は、大根を昆布だしなどで煮たもの。
最初に、米のとぎ汁で下茹ですることをおぼえた。
その湯を捨て、だし汁で煮る。
調味料のハイミーは、かつお、昆布、椎茸のだしの要素が入っているというので使っている。

味噌だれは、味噌とだし、みりん、砂糖をフライパンで煮詰める。
焦げないように見ていること。弱火のほうがよいようだ。

掲句の味噌だれはゆるめに作っていて、様子が目に見えてくる。

名前の由来について、ウィキペデア百科事典では、
名前の由来には諸説ある。
漆器職人は漆風呂(漆器の貯蔵室のこと)で漆を乾燥させるところ、冬は乾きが悪くて困っていた。そこで、大根のゆで汁を霧吹きすればよいと教えられ、その通りにするとうまくいった(漆は温かい湿気で固まるため)。このとき、ゆで汁を取るため、ゆでた大根を味噌をつけて食べるようになったというもの。
また、蒸し風呂で垢をこすりとる人を「風呂吹き」といい、風呂吹きを食べる様子が息を吹きかけながら垢を飛ばす風呂吹きに似ているという説。
風呂を沸かすのに息を吹きかける様子が似ているからという説もある。

私は、後の方の
風呂を沸かすのに息を吹きかける様子が似ているからという説がよい。
庶民一般的だし、単純明快だ。
俳句も、この句のように明快なのがよい。
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初雪

2018年11月15日 | 一句鑑賞

初雪や積木を三つ積めば家  片山由美子

初雪が降ると戸外での遊びは少なくなり
家の中での遊びが多くなる

昔は積木など買えなかった
積木遊びは小さな子も遊べるのでよい
テレビゲームなどと比べると
遊びらしい遊びだ
こういうことを言うと時代遅れと言われようか

初雪の降る中で積木遊びをする
そこに季節感がある
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十一月

2018年11月14日 | 一句鑑賞

余日なき十一月の予定表  星野立子

多忙な時期といえば十二月かと思うが、案外十一月も多忙である。
文化祭、冬支度・・・冬の前に何かとやることが多い。
俳人、指導者はなおさらだ。
来月は十二月。
次第に押し詰まってくる年末へと、何かと落ち着かない心境になってくる。
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八手の花

2018年11月12日 | 一句鑑賞

さかんなる八ツ手の花のうすみどり 星野立子

畑や野のものが枯れようとするとき、庭に八ツ手の花が咲いている。
冬が来ないと咲かないというのは、何か不思議な感じがする。
放射線状の大きな花も特徴的だ。
何気なく白い花と見ていたが、この句のように「うすみどり」である。
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親鸞忌

2018年11月10日 | 一句鑑賞

すすりゐる白湯のあまみや親鸞忌 森澄雄

親鸞聖人の忌日は、11月28日。
この頃、真宗大谷派の寺院や門徒の家では、報恩講が行われる。お取越しともいう。
この句、「白湯」は「さゆ」。ただのお湯だが、よく味わうと甘みがある。
寒さがつのって来る空気感と親鸞忌という伝統の持つ雰囲気、白湯の甘みというつつましさ。
そういうものが一体としてある。
でも、句が重過ぎないのは、上五七がさりげないからだろう。
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2018年11月08日 | 一句鑑賞

雪降るとラジオが告げてゐる酒場  清水哲男

ラジオをかけているのは、割と静かな酒場である。
北国のどこかで初雪が降っている。
そして、間もなくわが町にも雪が降る。
雪が降ってしばらくすると気持ちも落ち着くが、雪の降る頃はなんとなくもの淋しい。
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冬ざれ

2018年11月06日 | 一句鑑賞

冬ざれ
冬ざれや卵の中の薄あかり 秋山卓三

荒涼とした冬の感じのする中で、卵の中の薄明かりが少しの温かみを持つ。
また、ささやかな命を感じさせる。
厳しさを伴う自然の中で、命というものはいかにも小さい。
一方、世相に目を移してみると、殺人・自殺など、命が軽んぜられている現実がある。
国際的にも、内外を問わず政治的にも、命は小さい。
掲句が語りかける世界とは、まったく相反する世界観でもあるようだ。
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秋の暮

2018年10月30日 | 一句鑑賞

女ゐてオカズのごとき秋の暮  加藤郁乎
『秋の暮』所収。

秋の暮というと、少々重たい情緒が漂う。
冬に向かうという、自然の中にあるもの寂しさが、人間に生きることの憂さ、孤独などと絡まってくる。
そういうものの詰まった秋の暮というイメージをくつがえそうというのだ。

掲句の場合、オカズというのは、いかにも軽い。日々の質素な食卓の上の出来事だ。
軽くしているのは、オカズというカタカナ表記のせいでもある。

「女ゐて」というのは、必要なのだろうか。
女というものがあることによって、この句はすっきりしないことになっている。
女がいなければ、オカズのごとくにはならない、というつもりか。

いったいこの句は何を言いたかったのか、という疑念が沸く。
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小鳥

2018年10月28日 | 一句鑑賞

小鳥来るもの食ふといふさみしさに 成田一子

『現代俳句』2018年10月号より。

この「もの食ふ」というのは、誰がものを食うのだろう。
作者がものを食うさみしさを感じていると思う。
そのさみしさの中に小鳥が来る、というのである。

物を食うのはなぜさみしいのか。
ものを食うのは、生きているということである。
なぜものを食うのか、などということは考えずにである。
ふとさみしさに襲われることが、生きている証であろう。

このさみしさから逃れるために、いろいろ不要なことに精を出すのも人間。
時には、さみしさに向き合うことが必要だ。
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湯婆(ゆたんぽ)

2017年12月03日 | 一句鑑賞
湯婆と書けば書いたで笑われる 宇多喜代子

 「ゆたんぽ」は湯婆と書く。初めてこの漢字を見た時は、「はて、湯婆(ゆば)とはなんだろう」と思うだろう。「ゆたんぽ」と読むと分かっても、ゆたんぽを湯婆と書くことが笑いを誘うのである。そういう微笑ましい雰囲気が伝わる俳句である。
 ゆたんぽを「湯婆」と書くのは、どうしてなのか、不思議である。
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