雀つぎつぎもんどりうつて冴返る 菅原鬨也
「俳句」8月号、『詩といのち』ー言葉の可能性をめぐってーと題して、柳田邦男×細谷亮太の特別対談の中の紹介句の一つだ。大震災という凄惨な状況の中で、俳人としての自分を取り戻した時、もう一人の自分がいて、世の中を見ている。これぞ俳句だという細谷氏。一方、雀をメタファーとして自分がもんどり打つような驚天動地を詠んでいるという柳田氏だが、ある距離を持って自分を見ることができたとする点では同じのようだ。「俳句、短歌、詩など表現手段を持っている人は強い。それは立ち直りも早いということだ」「カオスの中にいる自分を見るもう一人の自分。そこから自己否定的ではない時間がはじまっていく」という柳田氏の言葉が印象的だった。(Midori)
「俳句」8月号、『詩といのち』ー言葉の可能性をめぐってーと題して、柳田邦男×細谷亮太の特別対談の中の紹介句の一つだ。大震災という凄惨な状況の中で、俳人としての自分を取り戻した時、もう一人の自分がいて、世の中を見ている。これぞ俳句だという細谷氏。一方、雀をメタファーとして自分がもんどり打つような驚天動地を詠んでいるという柳田氏だが、ある距離を持って自分を見ることができたとする点では同じのようだ。「俳句、短歌、詩など表現手段を持っている人は強い。それは立ち直りも早いということだ」「カオスの中にいる自分を見るもう一人の自分。そこから自己否定的ではない時間がはじまっていく」という柳田氏の言葉が印象的だった。(Midori)
「雀」は、いろんな命の象徴なのかもしれませんね。
それにしても、もんどり打つ雀が、何とも健気で可愛らしいこと♪
私は、この雀は電線にとまっていて、激震に振り落とされんばかりに電線を離れ、結果的に、もんどりをうつことになったと読み、「冴返る」に、身の引き締まる、あるいはゾッとする感じを託した。と、感じました。この隠喩は、読み手の被災の程度によって温度差があるのでしょうね。
私も、雀というかけがえのない小さな命を思いました。
柳田さんの言葉に、「その真っ只中ではその自分を見るもう一人の自分なんてありえないだろう。それをふっと、ある時間の流れの中で気がついてみると、〈冴返る〉という凍え死ぬような厳しい寒さ。低温の中に生きている。そういうものが見えてくる」とあります。「雀つぎつぎもんどりうつて」と「冴返る」の間には、いくらかの時間の経過があるのかもしれませんね。難しい~
それぞれに感じて、それで良いと思います。
きっと、「オレ知らないよ~」ですね☆