未草晩年といふ自由席 今野紀美子
晩年をどう生きるかは、各々の自由である。これまで勤めてきた職場や、守り支えてきた家庭を「指定席」に例えるならば、晩年は、まさしく「自由席」である。上五に配された「未草」に投影された作者の思いは、さて何なのか・・・?「睡蓮」としなかったということは、未の刻に開く「未草」に、晩年を重ね合わせたのかとも思う。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)
晩年をどう生きるかは、各々の自由である。これまで勤めてきた職場や、守り支えてきた家庭を「指定席」に例えるならば、晩年は、まさしく「自由席」である。上五に配された「未草」に投影された作者の思いは、さて何なのか・・・?「睡蓮」としなかったということは、未の刻に開く「未草」に、晩年を重ね合わせたのかとも思う。「滝」8月号〈滝集〉より抄出。(Midori)
睡蓮を眺めながらベンチでとろとろとしているのかも。
「とろとろとベンチにをりぬ未草」
確かにそうですね!
私も俳句はもちろん、気功で知った仲間との触れ合いはたからものです☆
歩九里さん コメントありがとうございます。
私も自由席が気に入っています。
漢詩の仲間とのおしゃべりに…
孔子の…心の欲するところに従えども…
からの発想でした。
この句は、例会で最高得点を採られたのですね!おめでとう御座いますm(__)m
自由といっても何もしない自由もあると思えば身の引き締まる思いもしました。