羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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大達羽左ェ門@OdateUzaemon、大相撲きょうの記事、明治31年から

2016年09月15日 | 大達羽左ェ門@OdateUzaemon
大達、今日の記事、明治31年から

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治31年2月12日
日清従軍経験があり師伊勢ヶ濱長女を妻とする高の戸だが、身持ちが悪く離縁話も出ている。先日師匠が地方の豪農から端渓硯等の売却周旋を頼まれたのを嗅ぎ付け、勝手に持ち出し売却。後品主から返却催促を受けたが如何ともしがたく、師匠が高を訴える。 #sumo

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明治31年3月23日
高の戸が持主だった寄席三柳亭は元剣山武蔵川が譲り受け、亭名も剣山と改める事
に。一方の高の戸は贔屓の三井三郎助が引取り生涯を安楽に送らせるというから、贔屓は有難いものと同業者中の噂となっている。 #sumo

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明治31年3月27日
福岡県若松で興行中の鳳凰海山一行は小錦朝汐逆鉾一行と合併し熊本市で興行する予定だが、この興行は力士給金だけでも莫大で利益は上がらない。それでも本興行を行うのは吉田司家を訪ねて鳳凰に横綱を張らせる為の計画であろう。 #sumo

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明治31年4月13日
大阪相撲は番付の位置で力士から苦情があり延期していたが、遂にこれを改正し発表した。東大関八陣が欄外横綱、東関脇一の濱が西大関などの変更がなされた。 #sumo

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明治31年4月30日
回向院前の花屋の二階に寓居する元両国伊勢ヶ濱は先日隣家に彼の大好物たる牡丹餅の馳走に招かれ、昼飯を挟んで二十個近くも食べて更に晩飯を抜くからと十個所望したから周囲は呆気にとられる。本人曰く老年だから一度に二十個位に加減をするのだとか。 #sumo

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明治31年6月19日
去る十七日の午前中、三崎町での興行の場所入前に荒岩は黒塗二頭立の馬車に駕し意気揚々として相撲場の横を通り過ぎ、居合わす年寄を睥睨し目下開場中の川上座に入ったので年寄らは愕然。後に聞けば贔屓客に連れられたとの事。 #sumo

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明治31年7月30日
小錦朝汐らの一行は九月に名古屋で興行の筈だが、名古屋市は彼らの師匠高砂が改正組織を旗揚げした場所だから、同所興行は全て無給金で勤め、高砂のため記念碑を建設しようと目下計画中であるという。 #sumo

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明治31年8月12日
高砂の養子秀太郎は放蕩者だが昨今後悔の情を現し、徴兵検査に合格した事を幸いに現役兵を出願、歩兵隊に編入された。この秀太郎は高砂の改正組時代の恩人の孫で、かつて行司をした事もあったが放蕩癖で数々の乱行を為してきた。 #sumo


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明治32年1月28日
かねてより場所後に東京相撲大合同の巡業が予定されていたが、高砂に旧怨のある安藤則命が贔屓の年寄を通して中止を画策、高砂派に断りを入れてしまう。これに友綱尾車は激怒、雷が再度高砂派に合同巡業を申入れるが源氏山常陸山らは応ぜず目下交渉中。 #sumo

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明治32年2月7日
回向院檀家総代青木庄太郎が、相撲隆盛の今日観客が一年二場所では見足らぬ心地がするだろうから、是非一年四場所とするよう協会に提案。協会は目下協議中と回答。なお元大達千賀ノ浦らはこれとは別に、幕内力士の十日目出場を主張している。#sumo

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明治32年2月9日
梅ヶ谷常陸山の好評喧しい今日、既に柳橋の芸妓も梅党と常陸党に分かれて場所見
物、互いに反目している。先場所常陸が梅に勝った時、狂喜して踊り回ったのは常陸党の領袖、裸足のまま茶屋に逃げ込み泣き倒れたのは梅党の姉さん。 #sumo

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明治32年2月14日
先年友綱が北国巡業で発見した老木彌次郎青年は国見山にも勝る体格、力量優れ有望だが、この程いよいよ力士となる決心を固め出京したため、取り敢えず龍山と改め回向院で仲間と引き合わせた。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:後年の太刀山の入門記事。しかし、老本が老木となっていたり、力士となる決心をして上京したとある(実際は東京に半ば無理に連れて行かれ説得される)など誤りもある。入門前一時的でも「龍山」と名乗ったならば興味深いが、これも単なる太刀山の誤りかもしれない。

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明治32年2月21日
好角同志会は一千円余を銀行に預け、会長に板垣伯を推して尚拡張するというが、本年の年始めはまず知恵の矢の扶助に着手する都合。目下年寄株は空きが無いので取り敢えず世話役ともいうべき役職を付し組合中に加え置かんと協議中。 #sumo

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明治32年2月25日
近来高砂浦五郎病死の噂があるが、同人の病気は快方に向い日増しに肉付きて元気も幾分か回復した。しかし相変わらず話は夢中の如く不明で、弟子の中で弁識出来るのは小錦のみ、彼は閑さえあれば病床に侍している。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治32夏、大見崎が梅ノ谷に勝った相撲は大が猫だましを見せたとされているが、読売日日朝日ではいずれも梅が突く所を大がたぐり、潜ってからの頭捻りとあって猫だましと思しき表現が無い。 #sumo

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明治32年5月7日
東京相撲年寄の定数はかつて36見附に因んで36だったが、近年に至り増員を重ね遂に80余名の多数に及び、その中には幕下二三段目より出たものもある。そこで、幕下以下の年寄は部方金を各自に差戻し、年寄を廃止しようとの秘密相談があるとか。 #sumo

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明治32年6月7日
横浜福富町の八百米と呼ばれる八百屋は生来の相撲好きで、その為に身代を潰し本場所中は高砂部屋の食客となっている。彼が昔勝った大達を賞賛し土俵に登ったが、五月蠅いと大達が殴り、これに横浜の八百屋が結束力し大達を破門にしたのだとか。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 勿論大達破門の原因はこれではないが、彼がその振る舞いの為様々な反感を買っていた事を示唆する。

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明治32年6月26日
小錦鳳凰一行の大阪興行に対抗できぬ大阪相撲の年寄が力士行司を集め改良策を決議する。出世大相撲の休場者は一日につき一点の勝星を取消す事、顔触の後の休場届は診断書を必要とし、病気でないのに休場したなら勝星を取消す事などが含まれている。 #sumo

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明治32年6月28日
三段目玉ヶ関が両国川で溺死。大阪力士秀の海の実弟で、兄の不甲斐なき根性を憂い彼を土俵の砂に埋めんと稽古に励んでいたが、小緑ら4人で舟を浮かべて、面白がり舟を揺すると丁度通った汽船の余波に煽られ浸水、泳げぬ玉は遂に水死した。 #sumo

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明治32年7月28日
柳橋の芸妓は相撲好きが多く、常陸山党と梅の谷党に分かれて東西桟敷に互いに踏み入れぬ程の熱心だが、大の東、常陸山贔屓の荻江愛子は特に熱心、先日も梅党数人に一人切り込み梅常陸優劣論を始め、懐より梅常陸勝負統計表を出し大得意。
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
しかし相手は多人数、論戦で己の旗色が悪くなると、突然座を立ち新柳町栄屋に駆け込んだ。そこで同家主人の元海山友綱の化粧廻を借受けると、帰ってきてこれを自分で締め、再び梅党の元に現れた。
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
立派の肥体に海山の化粧廻を締めた愛子、自分に手向うのは海山関に手向うのと同じと大勢を睨付けての大気炎に周りの芸妓は呆れて何も言えず。いよいよ得意の愛子、四股を踏み鳴らし、近所の写真屋に自分の姿を撮影させんとしたとか。 #sumo
@OdateUzaemon: 梅常陸時代の芸妓達が観戦に大変熱心だったという記事は以前も取り上げた事があったけど、流石に力士の化粧廻を付けて四股を踏む芸妓は凄いのでは。もう一つ突っ込み所としては、海山の友綱はむしろ梅の谷方の力士ということ。

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明治32年8月15日
小錦大砲常陸山らの一行は名古屋笹島に乗り込んだが、来る初日には通行人に清酒を供する。また、乗込祝として各力士の名を記した小札を仕込んだ花火を打ち上げ、この名札を拾い持参した人には手拭い十本ずつを送る由。 #sumo


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明治33年1月29日
大阪毎日による、幕内最高成績者への化粧廻は稲川に贈られた。このため昨朝高砂部屋では小錦朝汐逆鉾源氏山常陸山らが集まり祝宴を開いた。(注:化粧廻贈呈は幕内最高優勝の先駆け。既に優勝の概念があった事はこの記事からも解る) #sumo

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明治33年3月29日
常陸山が24日群馬県桐生興行を終え旅宿に帰る途中、車夫がその重さに耐えかね梶棒掴んだ儘宙に吊され車が背後に覆り砕けた。幸い常陸山は無傷、打ち微笑んで「スンでの事で読売新聞の金子さんの二の舞を遣る所だった」 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 注:金子氏は読売新聞の相撲担当記者、以前負傷し動けなくなった折に力士や同業者らに助けられ一命を取り留めた事があった。

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明治33年4月10日
高砂浦五郎死去。29年春熊本で脳病を発してから精神喪失となっていたが、本年3月14日頃から肺炎を併発、心臓麻痺で遂に8日眠るが如く死去した。 #sumo

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明治33年4月21日
番付が発表前に往々にして漏洩する事から、五月場所からは番付編集の方法を変え、版元根岸治右衛門宅に器械を据え付け番付の印刷をすることになった。 #sumo

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明治33年4月29日
友綱の弟子太刀山はいよいよ来る五月場所幕下附出となるが、同人は梅の谷と同郷
で、先年弟子に貰いたいと申込んだのに板垣伯の周旋で遂に友綱の手に帰した次第である。そのために梅の谷の方から一紛議起こらんとする模様である。 #sumo

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明治33年5月30日
常陸山荒岩の取組は近代未聞の大相撲、行司溜で見ていた木村瀬平は荒岩の素早さは実に目にも止まらぬと太息を吐く。瀬平はこの相撲の為に翌日凝りで起き上がれなかった程。全く荒岩の早業は観客に見る事は不可能であろう。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 明治33年5月の荒岩は全勝優勝、当時旭日昇天の勢いだった常陸山にも勝利したのだった。

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明治33年6月19日
一昨日横浜相撲での大崎平石の二番勝負は初っ切り同然で互いにふざけ合っていたが、三番目に大が平を背負投し砂を噛せた事から平は真の怒りを発し、土俵上で互いに頭髪を取り合う一椿事。飾屋と行司が仲裁したが、却ってこれが場所の興を添えた。 #sumo

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明治33年7月29日
来月神田錦華館にて力士取組の活動写真を催す。館内は実際の興行に似せて水引幕や柱、幟も用意。説明員には呼出を用い、行司は蓄音機を用いる。駒ヶ嶽太刀山に始まり小錦大砲まで割が組まれ、小錦の土俵入もある。 #sumo

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明治33年8月7日.
大相撲興行願書には回向院住職及び檀家の調印が必要だが、近年檀家総代が兎角の理由で調印を拒み協会に対し大変な手数を掛け、協会は遂に大場所を他に移す計画をしていた程である。然るに五日檀家総代の改選があったので協会は喜んでいる。 #sumo

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明治33年8月9日
横浜の大阪相撲は客足悪く、一度夜興行に変更したものの八陣らの反対で昼興行に逆戻り、その為種々の手違いを生じ遅延、結局夜興行の如き姿に。しかし電灯など準備無く、土俵は屋根に遮られ二つ黒い影が見えるのみ、見物は月光にすかし相撲を見る滑稽。 #sumo
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明治33年8月10日
先日暗闇の中取組んだ横浜大阪相撲は夜興行に備えて電灯を用意したが、いざ使おうとすると何故か点火に失敗。電灯の修理も間に合わないので、出方が何とか中売店からランプを徴発。呼出が四本柱で一つずつランプを持って興行開始に漕ぎ着ける。しかし今度は中売店が暗闇で商売にならぬと苦情、ランプを取り返しに来たから再び暗闇興行に。兎角する中漸く数個のカンテラを吊して取り繕った。何分遠方の事の為準備が調わず、種々の滑稽を演じたのは気の毒。 #sumo

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明治33年8月16日
大阪八陣は吉田追風から横綱免許を得たと語っているが、東京への照会が無いので雷は不思議に思ったが、追風からは先頃八陣に太刀だけ許したとの通知があったから、多分八陣の横綱は伊勢大神宮の辺から出たものであろう。 #sumo
源氏山曰く八陣の横綱は瓢箪型ではなく蝶々型だが、横綱の綱の結び型は決まっていないのだとか。昔の不知火や梅ヶ谷は蝶型だったが、西ノ海が司家からの直伝で瓢箪型に改めたのだという。 #sumo
大達の補足!
八陣は神理教横綱で有名ですが、それでは人気が出なかったためか明治33年1月に司家から故実門人及び持太刀の免許を受けています。(武者成一・史談土俵のうちそとp157)
この記事から示唆されるのは、司家の免許は横綱授与では無く、司家も東京協会も横綱とは認識していなかったものの、大阪では横綱土俵入を行っていたという事と思います(先の書では「准横綱」と表現しています)。実際八陣に関しては、横綱代数議論でも全く話に上りません。

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明治33年8月22日
源氏山の居宅は大川端百本杭のそばで、隅田川の白帆を眼下に風通し良く造られているが、暴風雨の際は非常に危険、先日は今にも転覆せん模様だったから遂に源氏山は移転を希望。濱町辺りの家屋を探し回っている。 #sumo


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明治34年2月26日
近来相撲隆盛につき、回向院相撲場は立錐の余地無く、観客の入場を謝絶する始末。更に其筋からの諭達で道路を増設したから益々場内が狭くなった。協会は回向院の銅仏石碑を遷座しての相撲場拡張を要請、交渉が纏まったので相撲場建設に着手の予定。 #sumo

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明治34年3月3日
真砂座の演劇では綾瀬川兜山等と共に両国の名も出るそうだが、唯一の存命者たる自分に挨拶も無いとは薄情だと元両国伊勢ヶ濱の談。二十年前自分の木像を作った木像師が先に許可を求め、作品を出展後に贈ってきたのを回想し、昔の人は実直だったと嘆く。 #sumo

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明治34年3月6日
源氏山は義兄弟の鶴之助が今度真砂座で高砂浦五郎を演じるに付き、喜びの余り化粧廻し数十枚を部屋から持ってきてその締め方、土俵入りや水の付け方、四十八手などの技術指導を連日行った。その為に地方巡業を忘れてしまい、出勤を促され漸く大阪へ。 #sumo

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明治34年3月24日
常陸山の妻は師匠の姪だが夫婦仲が睦まじくない。兼ね合いで暫く離縁にならずにいたが、師弟関係は従来のままとした上で遂に離縁を決意、常陸山は自身の巡業中に話を纏めるよう千賀ノ浦と入間川に依頼した。(続く) #sumo
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明治34年
(続き)千賀ノ浦は夫婦縁をさっぱり切ってやろうと東奔西走、縁切り榎へも参詣してしっかりやっていた。これに彼の妻は、縁談を纏めるのに走り歩く人はあるが縁切りに一生懸命になるのはお前さんだけだとたしなめたから、縁切り運動は中止となった。 #sumo

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明治34年4月8日
熊本にて大砲が司家から横綱免許を与えられる。また、司家は木村瀬平への一代限り麻上下熨斗目並びに紫房の免許を与え、他にも伊之助への赤房免許なども与えた。#sumo

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明治34年4月18日
大砲の横綱に一部力士から異論が出ている。張出大関からすぐ横綱はおかしい、また前場所から遡り三場所は一度も敵方関脇以上に勝っていないなどが理由。また、来場所の東西入れ替えにも不満が出ている。 #sumo

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明治34年4月20日
大達の千賀ノ浦が高砂の一周忌に参詣の折、高砂息子に伴われ千鳥足で帰ろうとしたが、この息子が今では相撲で自分の相手にも不足と言ったから大達それならと一番取った。しかし引落にバッタリ倒れてしまい、流石に面目を失い頭を抱えて逃げていった。 #sumo

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明治34年5月27日
昨朝足立山が十七、八歳の褌担ぎとの稽古で面部を突かれ痛さに耐えず両手に顔を抑えオイオイ泣き出し、小緑らが慰めても泣き止まない。そこで海山がサア一丁来いと足立の手を捉え、巧妙にも自分から投げられ足立に勝たせると足立は笑顔を作った。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 足立山は当年数えの14歳、所謂怪童力士である。この頃友綱部屋の彼と出羽海の小常陸、雷部屋の梅ノ花が少年有望力士として注目を集めていた。

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明治34年6月2日
今回警視庁令で裸足で外を歩く事が禁じられたが、各部屋の力士には裸足で複数の稽古場に行く者や稽古後銭湯に向かう者があり、無頓着な力士の事だから今後裸足反則者が出ると思われ、協会では大いに憂慮している。 #sumo

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明治34年6月13日
伊勢ヶ濱門弟梅ヶ枝は師に忠実な力士で、小相撲で支給された給金は師匠に贈り、自身は飛付等余興相撲の報酬八銭を小遣いとしている。これでは弁当にも不十分だが、空腹を師に知らせず四股を踏む様がいじらしいと、両国の某氏が弁当を仕送る事になった。 #sumo

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明治34年7月3日
雷が本所小泉町に新築の家屋を落成したので、この落成式を梅の谷の梅ヶ谷改名披露、更に同人を長女センと結婚させる三つ兼帯の祝宴を開くそうだ。 #sumo

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明治34年8月22日
幕下玉椿は上手で注目されているが、大変な親孝行者で先日の名古屋興行中は父母に会いたいと寝言に言う程。仲間がその心根を酌み一週間ばかりの暇を与え故郷に帰らせた。しかしその時父は丁度玉椿を訪ねていた為行違いに。結局父が急いで帰国する事に。 #sumo

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@OdateUzaemon: 1明治35年1月場所前に、巡業での上り高を一部年寄が使い込んだ事に対して十両以下の力士が協会に反旗を翻し、一時部屋から脱走したが、この時の首謀者の一人が他でもない玉椿だった。後年の新橋倶楽部では頑固として力士側に組さなかったあの玉椿である。 #sumo
@OdateUzaemon: 2後年、新橋倶楽部での玉椿の行動に関して、師匠に逆らう事を是としなかったからと書かれる事があるが、そこから考えればこの際の行動は非常に奇異。しかし、玉椿が新橋倶楽部に入らなかったのは力士側の要求が協会の財政から考えて無理だと判断したからで、本人もそう説明している。 #sumo
@OdateUzaemon: 3ここから考えて、もし協会側に非があると考えれば玉椿は師匠の如何に関わらず力士側に付いていたと思われる。師匠の恩云々は本人が多少述べていたとしてもそこまで重要ではなかっただろう。玉椿の行動の本質は、自身が正しいとした事を決して曲げない頑固さにあるのではないか。 #sumo

@OdateUzaemon: 明治35年1月、巡業での給金の問題で一時的に脱走した玉椿だが、四日目は「土俵入のみにて取組は無かりし」とある(読売)。当場所東幕下11(現在の幕下東筆頭)の玉椿が土俵入していた?当時は幕下でも上位なら土俵入があったのかな?もしあったなら何時無くなった?
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 幕下でも15、6人が土俵入をしていたそうなので、十枚目以内...という訳ではなかったようです。
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@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年1月30日
近来の横綱が悉く不成績なのは、昔は数十年いない事もあった横綱を、営業上の理由で量産するからだ。第一正大関より一枚下の張出大関が横綱というのは理屈に合わない。更に横綱免許は小錦等の引退を早めた。いっそ横綱は相撲を取らぬ事にしてはどうか。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年2月26日
大碇、出水川らを擁する京都相撲は大いに改良を試み、去る23日京都相撲協会発会式を行った。 #sumo

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明治35年2月26日
前橋上毛新聞社は花相撲を催すにあたり幕下力士の人気投票を行ったが、淀川が一等で化粧廻しを得て、二等嶽の越は勝山紬を得る。しかし淀川の投票に不正があったと一部客が騒ぎ出して、遂に嶽と三等小佐倉に化粧廻を別に買って贈ったのだとか。#sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年5月6日
久しく病気欠勤中だった源氏山が昨朝突然伊勢ヶ濱を介し靖国神社祭典相撲に出勤したき旨届出る。協会ではこれまでの不勤を不問に付すまま出場させるのも如何と考え刎付たが、既に日限迫り京都の源氏に問合せが間に合わぬ為根岸の仲裁で出勤させる事に。 注:当時源氏山は伊勢ヶ濱を継ぐ予定であった。

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明治35年5月25日
友綱部屋の怪童足立山は二日目、鶴ヶ谷と激しい突き合いを展開したが、勝負がなかなか決せず、すると足立は子供心からか突然相撲を中止してスタスタと土俵を下りてしまった。鶴は茫然、検査役も呆れたが兎に角足立は土俵外に出たので鶴に勝名乗。 #sumo@OdateUzaemon: @I_yonsen 自分から土俵を割るとなると、その他には八嶋山が当時無敵の太刀山を恐れて自分から逃げ出した、という事件がありました。しかし足立山の場合は全くの無邪気という感じですね。この時まだ番付に乗って二場所目、14歳でした。 http://t.co/FBtX8DObbo

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明治35年6月9日
艶福で名高い幕下大崎は福島である女と懇ろになり、力士の風として誤魔化しそのまま帰京したが、この女は大崎からの便りもないと上京し尋ね来る。途方に暮れた大崎は適当に某家に奉公させておくと、やがて行方不明となり大崎は放っておく。
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年
暫くして河岸に漂着した女の土左衛門があり、見知りの人が見ればその女に良く似ていたから大崎を恨み死にしたのだろうと彼に伝え、流石の大崎も涙を流し、仏事を営み毎日懇ろに香華を手向けて後悔していた。
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治35年
しかし、実は女は既に故郷に帰って他家に嫁入りし、仲むつまじく暮らしていると聞いた大崎は二度びっくり。飛んだ拍子抜けで土左衛門を背負ってしまったと部屋の語り草となっている。 #sumo

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明治35年6月27日
横浜相撲、小緑に藤見嶽の取組は初切的、三回目の取直しで小緑が藤見の頭髪を掴んだが、土俵下の甲がこれは相撲にあらずと物言いを付け、小緑と口論になり乱闘騒ぎで周囲の観客も巻込み、皆泥塗れに。滑稽を演じるにしてもこれでは却って不興だ。 #sumo


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明治36年5月30日
大場所十日目正午頃、甲が酒気を帯びて土俵に踏込来て、検査役井筒に何事か争論を仕掛るや否や忽ち井筒を土俵下に引下し、あわや打殴らんとしたので尾車らが甲を取押え協会に引致、おそらく甲には処分が加えられるだろう。(続く) #sumo
(続き)この原因は、三日目若湊に甲の取組の甲の勝ちに関して、井筒が甲の足が福俵に足が止まって打棄ったので踏切無しと賛成したのを、如何に誤解したか福俵の為に勝ったとは不都合の言分と根に持って、今回の暴行に及んだのだという。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 福俵は徳俵の事か?

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明治36年6月1日
常陸山の横綱昇進に合わせ、梅ヶ谷にも横綱を張らせる事に。常陸からも是非同時に綱を張りたいとの申出があった。常陸梅共に時期尚早との意見もあったが、友綱は両者を空前の大力士、衰える前に綱を張らせたいとして、他の役員もこれに賛同した。 #sumo
@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治36年
常陸山の横綱昇進に合わせ、梅ヶ谷にも横綱を張らせる事に。常陸からも是非同時に綱を張りたいとの申出があった。常陸梅共に時期尚早との意見もあったが、友綱は両者を空前の大力士、衰える前に綱を張らせたいとして、他の役員もこれに賛同した。
@OdateUzaemon: @hagurohebi 「従来の横綱は兎角免許の時期遅れて横綱を張る頃には早や力士としての晩暮に近づき、横綱は力士を葬るものたるやの怨みありたり」と書かれています。大砲も不振ですが、それ以上に小錦が念頭にあったようにも思います。
@OdateUzaemon: @dharma_pioline @hagurohebi 因みに大砲は横綱免許前でも成績は今一つで晩年に差し掛かったという印象ではなく、西ノ海も同様、名誉職的横綱は境川まで遡ると思うので、この記事の横綱とは小錦の事と思います。
小錦の出世の早さは類を見ないものでした。ただ、それでも横綱までは少々時間を要しました。綱を張った時には早く衰えるとは予想されませんでしたが、結果として横綱で働けなかったので梅は早く横綱にしようとの事と思います。
@OdateUzaemon: @dharma_pioline @hagurohebi 梅ノ谷荒岩に全く勝てなかった事が小錦の後世の評価を大きく下げてしまいました。小錦の衰えの他にも、彼の小心が横綱に耐えられなかった事や、立合一気の取口が更に早い荒や大兵にして技巧的な梅には通じなかったのも一因と思います。
補足!荒岩新入幕の明治30年春場所初日、横綱小錦をけたぐりで倒す。

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治36年6月21日
京阪合併相撲は大阪力士が弱過ぎ、東京力士は受身の大胆な相撲を取っている。大阪力士には張手が多く、また立合は中腰、殊に神の島は立って仕切っている。見物人同士が土俵に上がって相撲を取り巡査に引きずり下される等、場内の規律は立っていない。 #sumo

@OdateUzaemon: 大相撲きょうの記事
明治36年6月22日
常陸山梅ヶ谷は同時に横綱免許を受けたが、何れを十六代とし何れを十七代とするかを協会で決定しかね、吉田司家へ問い合わせた。これに吉田司家は、両関匹敵し何らの差も付けられぬから、年齢によって前後を定めるのが穏当と回答。常陸が先に。 #sumo
@OdateUzaemon: @65856706s 元来の吉田司家の認識は年齢順ですが、おそらく伝わらなかったものと思います。柏鵬同時昇進の編成会議の直後、協会を代表して秀の山理事が記者団と質疑応答を行いましたが、この時に引退順であると現在と同じ認識を明らかにしています。
@OdateUzaemon: @65856706s 先に引退する者を先の代にすると初めに提唱したのは戦中の加藤隆世(明治時代の大相撲の著者)らしいですが、当時の資料がありません。いずれにせよ引退順と一般に認識されはじめたのは柏鵬の時からと考えて間違いないと思います。
@OdateUzaemon: @65856706s 出典不明ながらwikiで指摘されているので、一応研究家の方が確認済みのようですが、取り上げられる事が少なくあまり知られていないように思います。
因みに坪田氏によると安芸照同時昇進の際は司家は引退順としたそうです。


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明治37年6月23日
セントルイス博覧会に源氏山ら十数名を送り込もうと同人の贔屓が企てていたが、この力士連中には何れも多少の借金があり、それを構わず渡航するのは不都合だと親方側より苦情が出て目下紛紜中。 #sumo
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明治37年6月26日
源氏山らの米国博覧会行きは、室浅草署長に時節柄中止すべきと勧告を受けて一同思いとどまった。 #sumo

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明治37年8月20日
大達は一昨日遂に黄泉の客になった。副島伯がかつて贔屓にしており、大達も伯を一番偉いと思っていたから、彼の揮毫のみを大事にして周りに自慢しており、一方の伊藤候の揮毫はあんな女好きの額を飾れば座敷が汚れると少しも大事にしなかったとか。 #sumo

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明治37年8月26日
朝汐は西の海小錦に頭を抑えられ昇進出来ずに老境に至って大関となったが、彼の功績は好角家が認める所。そこで郷里伊予の有志は彼の記念碑を建てかつ興行する事になり、協会は協議の末吉田家に交渉し、朝汐が除幕式当日限りの横綱を張る事を許した。 #sumo


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明治38年2月6日
名行司木村瀬平死去。当場所体調不良で六日目より休場も八日目に推して出勤、中入前の稲川梅ヶ谷を裁いたのが一代の名残となった。最期は、触れの拍子木を聞いて場所入りせんと仕度している最中に二三度咳をして倒れたのだという。 #sumo

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明治38年4月11日
大阪若島の横綱はこれまで東京相撲協会の捺印が無かったため授与式を見合わせていたが、今回常陸山一行と合併し熊本に乗込むのを幸いに協会の捺印を請い、七日同地吉田家で授与式を行った。東京方常陸山阿武松庄之助や大阪方大鳴門玉之助らが立合った。 #sumo


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明治39年2月25日
大相撲常設館の建設が決定したが、これは明治36年警視庁より従来の小屋掛が不潔不完全で貴賓の観覧に不適当、相応の常設館建設を諭達されたことによるもの、工事費20万円で設計は工学博士辰野金吾、工学士葛西万司の両氏に託された。 #sumo

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明治39年3月30日の
大砲は梅ヶ谷国見山らと千葉県を巡業中、汽車に乗込み間もなく呻いて仰反り倒れ
た。汽車の進行中で詮術も無かったが、脳充血と心得た力士が介抱し、駅で大勢で担ぎ出した。医師が応急手当を加え病症は脳充血、生命に別条は無いと。 #sumo

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明治39年5月8日
来年中の建設計画の相撲常設館は場所が未決定。最初協会から江東学校敷地払下げを申込んだが、本所区は価格が安いと拒否。ここで日比谷が誘致を行ったから、相撲を失っては困る本所が急遽先の敷地を最初の協会の申込価格以下で払下げる事を決したとか。 #sumo

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明治39年5月30日
昨朝常陸山が来客と常設館設立について議論を交わしたが、その中で常陸は常設館設立の為に年寄のみが奔走するのは容易でなく、関取連も協力すべきとして、建設落成まで十月頃に一回大相撲興行を行う事を提案。これで買切客から五万円が得られると云々。 #sumo


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明治40年2月24日
大阪の横綱若島は先年自転車より墜ちて頭部に負傷してより元気旧の如くならず久しく土俵にも現れざりしが内縁の妻に多分の持参金あるに任せ今回遂に廃業することに決心し既に髷を切り去りたりと(注:原文そのまま) #sumo

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明治40年4月6日
従来両国回向院で行われていた大相撲は目下常設館設立工事中につき、本年五月場所より当分両国橋東詰なる元町河岸にて興行する。 #sumo

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明治40年8月8日
常陸山が渡米に向け昨朝午前八時新橋停車場を出発。セル地鼠色格子背広洋服を着しパナマ帽を被った常陸は見送人と談笑。見送は雷高砂や在京力士一同、奥野衆院議員や鮫島本所警察署長ら五百余名、場内は雑踏を極め横浜波止場まで見送った者も多かった。 #sumo


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明治41年3月29日
洋行の常陸山が昨日新橋着の列車で帰京。新橋駅に集まった出迎人は二千人以上で立錐の余地無し。悠々と降車した常陸は種々の人々と握手、プラットホームを出ると改札口にいた人々が万歳を絶叫する。
帰宅の馬車には楽隊や小旗隊も随行し百名余列を成し、沿道至る所歓迎を受ける。相生町の自宅は幔幕球灯で外部を飾り、宅内には万国旗を張り渡し稽古場には立食場を設け風船を用意して待つ。常陸が着くと取的三十人余りが平蜘蛛の様に挨拶する。 #sumo

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明治41年5月3日
常陸山が各新聞社を歴訪し、選挙出馬を断然思いとどまった事と、また機会があれば洋行したい考えで特にヨーロッパに赴きたいという事を語った。 #sumo

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明治41年6月27日
日本橋倶楽部でコッホ博士夫妻が相撲見物。常陸山梅ヶ谷と握手した博士は初め彼らが余りに肥満しており自由の運動も出来まじと思ったが、その活動ぶり、鍛えられた筋肉の見事な発育に満足し感嘆、取組を喝采した。 #sumo
Heinrich Hermann Robert Koch、ドイツの医師、細菌学者、「近代細菌学の開祖」とされる。

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明治41年8月11日
常設館は東両国回向院内に百余尺の足場を組んで目下工事の真最中、竣工は明年五月の予定。太鼓は従来の十二間三尺の櫓を廃し建物の最頂点百十尺の所に置き、八百八町の隅々まで響き渡って好角家の夢を驚かさん。 #sumo


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明治42年6月1日
昨日吉田追風、庄之助、両取締らが協議して常設館開館式の段取りを決定。また、命名は尾車の説を板垣委員長が採用し「国技館」と称することになった。 #sumo

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明治42年6月3日
国技館開館式が挙行された。土俵浄めの後協会役員や来賓を入場させ、烏帽子狩衣姿の吉田追風氏らによる土俵祭、常陸梅による三段構、板垣伯の式辞や来賓の祝辞、幕内揃踏、両横綱片屋入の順で執り行われ、三方高桟敷内で立食の饗応の後散会した。 #sumo

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明治42年6月8日
新大関太刀山がペテン立で常陸山を突張り出した為に、賭などで元より殺気立った館内は満場総立ちとなり、火鉢は飛ぶビール瓶は降る、次の相撲の最中には贔屓同士の大喧嘩が二カ所で始まる大騒ぎ。五名が負傷し六名が拘引された。 #sumo

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明治42年6月10日
昨五日目、皇孫淳宮、 迪宮の両殿下が学習院の帰途御立寄りあらせられ、検査役四人は土俵中央に立ち敬礼。また、幕内土俵入は東西をわざと正面を開いた新式のものを行った。 #sumo

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明治42年6月28日
京都五条橋の三都合併大相撲は兼ねてよりの五月雨で休みだらけ、ますます常設館の有難みを感じている。四日目は雨を冒して開場したから土俵の他は水浸し、検査役は足駄履で土俵へ上り、溜へ落ちる力士はドブンと音立て飛沫が見物の頭に飛ぶ始末。 #sumo

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明治42年7月28日
大阪相撲は目下大連に興行中だが、その取口を八百長と批評した満州日々に対し、大木戸らは記者を袋叩きにせんと決議。また、遼東新報も大木戸を揶揄した為、大木戸は二紙を侮辱。これに両紙は相撲記事を一切載せぬと発表、その為相撲人気は地に落ちた。 #sumo


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明治43年1月30日
去る26日板垣伯が友綱部屋で八百長排斥の訓示演説をしたが、これは先場所が、引退する筈の国見山出場などの関係で徹頭徹尾八百長に終わった事に八方から攻撃を受けたため。なお、訓示を東方に相談しなかったから目下東西重役が衝突中とか。 #sumo

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明治43年1月31日
去る一月場所、駒ヶ嶽は土付かずの元気だったが、これは何でも洋行帰りの宗教家から「法術」を授かり、土俵で固くなる癖を克服したからだとか。他にも高見山、太刀山も現在熱心に心理学の応用法を教わっている。 #sumo

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明治43年2月11日
出羽海部屋幕下の加波山は9日夜同部屋の足尾山と口論の末同人を殴打、足尾山が本所署へ赴くとこれを追い掛け、告訴するとは卑怯、足尾山を出せと怒鳴りその場で立小便、即取り押さえられ拘留十日となった。加波山は四年前も喧嘩で破門された事がある。 #sumo

明治43年2月14日
(上司小剣氏寄稿)
数日前偶然芝神明境内に京都大碇一行の興行を見たが、肉落ち皮膚の弛んだ力士達が木賃宿の費用を稼ごうとする様は悽愴の悲劇だ。往年大碇を角逐した力士の多くは功成り名を遂げ豊かに晩年を送っているのに大碇は依然旅力士。(続) #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon その大碇に、彼の意気の悲壮を感じ、また一面に精神の呑気な事に敬服した。
同じ神明で、芝浦の素人相撲が田舎相撲何かあらんと飛入りしたが、痩せてやつれても流石に専門家、京都の小力士にも三番に一度も勝てぬのは、職業として身を投じる事の強みを感じさせた。

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明治43年2月24日
現在東京と絶交中の大阪協会は、東海道を攻め上って四月に東京で興行し一泡吹かす心算だったが、先日の名古屋興行が大変な不入りで給金も出せず。ここに遂に大関放駒が脱走して出羽海部屋に入り、別に関脇八陣も弟子を連れ帰阪という大混乱。#sumo

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明治43年4月3日
秀の山部屋の取的、桃中軒は雲右衛門から大いに目をかけられているが、名前が余りに呼びにくいというので相撲協会では改名の儀を申し渡され、大いに塞ぎ込んでいる。 #sumo

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明治43年5月5日
一月場所に陰星の多寡が優勝旗に結果を及ぼさんとした所、太刀山駒ヶ嶽の預り相撲で駒に丸星を与えた為問題が起きたが、協会では来場所より規約を励行し分預星は双方負けないし無勝負と同様のものとなす事にするという。 #sumo

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明治43年5月7日
太刀山の横綱問題は昨年からあるが、梅ヶ谷が病気でかつての強味なく、今場所欠勤はやむを得ず更に場所後の巡業でも回復しなければ梅は引退するだろうから、もし今場所西方(太刀山方)が優勝すれば来年一月には太刀山が横綱となるだろう。 #sumo

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明治43年5月31日
今場所から行司の裃は全廃され、鎧直垂に折烏帽子着用という事になった。坊主頭に裃は不調和との議論は前からあったが、髷を結っていた庄之助が今場所限りとなる事からいよいよ衣装を改める事に。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 実際にはこの庄之助(十六代)は明治45年1月の死去まで土俵を勤めた。

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明治43年6月17日
俳優には二十日で一万の給金を貰う者もいるのに、天下の力士の給金は惨めなものだ。弟子の頭を刎ねた金を含めても常陸山で一場所五百円、梅ヶ谷らはその半分程度。華美好きの常陸が豪遊できるのは妻君の高砂屋のお陰、こちらは一場所二、三千円の収入。 #sumo

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明治43年6月24日
太刀山が一月から横綱を張る事は既定で吉田家の内意も得ていたが、梅ヶ谷が病気の為一月を最後に引退する決意で、これに常陸山が同情して協会役員に図り、一月は最後の花を持せ太刀の綱は五月にしようと延期が決定。(続く) #sumo
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明治43年
(続き)また、太刀山と大阪大木戸に同時に横綱免許を与え、東西融和を試みる内約があったが、目下両協会の融和が尚早説に妨げられている事があり、梅の話を幸いに一場所延期となったのだろうともいう。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 実際の新横綱は44年6月。

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明治43年7月30日
満韓巡業余談。常陸山の土産は大連の贔屓から貰った大鷲で、記念として上野動物園に寄付の希望。鉄嶺丸には一行は乗らなかったが内地へ送った手紙が随分あり、特に梅の花や碇潟のには甘ったるいのがある筈でどこかの海岸で拾われたら面白かろうと評判。 注:鉄嶺丸は元々一行が乗る予定だったが中止となり、出航後沈没。wiki、常陸山の項
1910年5月に出羽ノ海一門が満州と韓国の巡業で各地を回った後、大連から鉄嶺丸という客船に乗って帰国する予定であったが、乗船する直前になって常陸山が「今から旅順まで行き、戦死した義兄(広瀬)の弔いをしたい」と言い出した。広瀬が戦死した旅順は大連からほど近く、「せっかく大連まで来て旅順へ足を運ばないのでは、義兄に申し訳が立たない」と言うので、他の力士たちは不満であったが横綱の常陸山には逆らえず、一行は仕方なく常陸山と共に旅順神社まで赴いて奉納相撲を行うことになった。ところが、一行が奉納相撲を終えて翌日大連に戻ると、大連の街は大騒ぎになっていた。当初一行が乗船する予定だった鉄嶺丸が、濃霧のために竹島付近で座礁して沈没したのである。もしも一行が当初の予定通り鉄嶺丸に乗っていれば、彼らも他の乗客乗員と同じく全員死亡していたところであった。東京の方でも一行が予定通り鉄嶺丸に乗船したものと思っていたらしく、「常陸山遭難ス」と書かれた号外まで飛び出すほどの大騒ぎであったという。これ以降、満州巡業の際には必ず旅順神社で奉納相撲を行う習わしが始まった。


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明治44年1月30日
先だっての争議で力士同盟に加わらなかった玉椿や同盟脱退の伊勢ノ濱らを、何とかして全敗に終わらせんと同盟中堅の連中が猛稽古。中には深川不動にお百度を踏んだ者まであるそうだ。 #sumo

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明治44年2月4日
毎夕新聞では、今場所毎日指定の取組勝者に銀杯一個、また東西の大関に最初に勝った力士に金杯を寄贈することとなった。 #sumo

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明治44年2月8日
西ノ海鳳の物言事件で、相撲協会全役員が辞表を提出。これに対し年寄と東西力士は千秋楽まで届出を保留する事を申し入れる。但し西方力士(雷方)は西の半星を主張した三検査役及び西に利害関係のある阿武松は再任を認めないと主張している。#sumo
羽黒蛇補足!明治44年、見山の次の阿武松
6代阿武松 大見嵜八之助 前2 高砂部屋 1903年1月-1939年10月
(死去)

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明治44年2日14日
本場所も取り進み、特に好成績の者には勘定相撲、八百長が目立ってきた。幕内だと両国八甲山、鶴渡綾浪は何れも土俵真ん中で動かず引分け。鶴渡の入門前は八百屋の清さんなので、八百長じゃなく八百清だなどと見物客は洒落ながらも不平だらだら。#sumo

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明治44年2月15日
駒ケ嶽太刀山の相撲を検査役で見ていた友綱、太刀が余程心配と見えて両手に扇子を握り顔は真っ赤、いよいよ駒攻勢なので気を揉んで力が入りすぎてとうとう扇子が二つに折れてしまった。分となって後に友綱「ああ善い相撲だ」と語る。 #sumo

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明治44年2月27日
不成績の為に太刀山との同時横綱昇進を果たせなかった駒ヶ嶽について、来場所昇進が可能かを、常陸山が友綱に質問。友綱は、四横綱は前例は無いが可能と答える。しかしもし常陸が駒より好成績なら常陸を張出し駒を昇進させる事は出来ぬとも回答。#sumo

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明治44年4月9日
国技館借金整理委員友綱の取締辞意固く、雷と共に退任する為両取締には尾車根岸が挙げられるだろう。しかし国技館建設費の大半が負債となっている現在、友綱雷の他に適当な負債整理者がいないので返済にあたり両人には新取締の補佐が依頼されるだろう。 #sumo

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明治44年4月21日
真砂屋の楽屋で投扇興が流行しているのを聞いた相撲協会は、一等に国技館開館記念帛紗、二等にタオルと吉原ツナギの手拭を化粧廻に模したもの、三等に太鼓型丼に勝栗、番外に渋団扇十数本、負放し五人には浅井膏と磨砂袋を贈った。 #sumo

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明治44年5月5日
太刀山は七代目横綱雲竜久吉の型にて横綱土俵入りを勤むる由此の型は最初柏手を打ち四股を踏んでから両手に開くので肥えた人には非常に見よい型だが太刀山では何うかと最初は懸念されしものの稽古の工合では中々恰好よしと(原文まま) #sumo

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明治44年5月5日
大阪相撲は不振続きで毎場所脱走者を出す上に大阪力士のほぼ全てが東京へ投じる希望があるため、大阪の策士小緑改藤島らが斡旋し、大阪相撲を解散し東京に合併しようとしている。大場所は京阪年一場所ずつとする希望。しかし東京方は承知していない。 #sumo

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明治44年5月4日
根岸の義弟伊勢濱は今度再び関脇に上る筈だが、彼は非常な親類思いで、兄であり師である根岸の嫡子新ちゃんが風邪より腹膜炎を起こし重体である事に心痛し、病気平癒を上野山下の摩利支天に祈り、向こう一年間の禁煙を誓ったという。 #sumo

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明治44年6月7日
千年川が弟子一人と芸妓を連れて酒宴中、弟子と芸妓がふざけた所千年が激怒し弟子を殴り、真っ裸に向鉢巻で弟子を殺すと騒ぐ。芸妓や女将ら一同詫びを入れるが収まらず。詫びをした料理番頭が殴られ憤慨、遂に警官が来る騒ぎに。大変な酒乱である。 #sumo

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明治44年6月8日
力士養老金規約が完成。巡業中浪の音が寝食忘れ作成し、緑島鶴渡両国の添削を経て去月24日集会で力士全体の同意を得て完成。力士連は各巡業組から帰京し騒ぎ、年寄連も首肯している。まず来年一月限りで引退する大湊尼ヶ崎氷見ヶ濱らが贈金を受ける。 #sumo

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明治44年6月9日
力士は酒と女と賭博で暮らしたものだが昨今は道楽がずっと高尚になり、盆栽囲碁歌留多などの趣味があるが、中でも太刀山黒瀬川大鳴門浦の濱らは玉突き熱にかかっているという。 #sumo

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明治44年6月4日
東京市議に立候補している根岸の選挙が明日に迫り、友綱一門は国見山鳳以下関取衆や、行司の伊之助勘太夫ら総勢68名を十五組に分け、昨日から本所区一円を廻っている。まるっきり稽古はせず、これでは本場所が思いやられる。 #sumo
@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 太刀山は新横綱祝の園遊会に招かれたため不参加。

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明治44年6月18日
相撲の号外売り同士の刃傷沙汰。号外を売切り一杯機嫌の幸次郎を、売残り悄然とした儀八が見て癪に触り、更に幸次郎が儀八を意気地なしと罵った事から争論となり、儀八が幸次郎の左脇腹を刺す。儀八は逃走中。 #sumo

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明治44年6月19日
大阪関脇八陣が上京し常陸山方に投じたが、同人は元は稲川の弟子で、脱走し大阪相撲に加わった者。他の師匠の弟子を取る事を禁ずる規約があり、更に八陣は今月初めまで稲川と上京の交渉をしていたというから、常陸山も扱いに困っている。 #sumo

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明治44年8月14日
常陸山駒ヶ嶽組は越後三条町興行の千秋楽で、同地勧進元の亡父は角界に貢献があった為にその追善供養を土俵上で行ったが、羽織袴で焼香の後常陸山駒ヶ嶽西の海が、力餅を見物へ投げたのが前代未聞として、続く五泉町の興行は大変な景気。 #sumo

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明治44年8月22日
大連から旅順に来た太刀山一行は、白玉山上三万余人の海陸忠死者の遺骨を納めた白玉神社前に横綱土俵入式を行う。 #sumo

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明治44年8月26日
大阪大相撲の初日が未定に。頭取朝日山と勧進元竹縄が難波署に召喚され、後者が留置された為で、原因は市内贔屓に入場券の購買及び祝儀を強要、四万円余を収得したとの事である。 #sumo


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明治45年2月3日
洋行後に幾度か計画されてきた常陸山の代議士立候補について、次の総選挙でいよいよ実現か。常陸は実父と相談の上水戸市から出馬することになり、既に名刺まで印刷、もし当選すれば夏場所限りで引退して年寄専務、取締となる見通し。 #sumo

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明治45年3月25日
京阪大相撲の仲裁について自称板垣伯代理の山本久顕氏が新聞社に、東上の相生四海波両国佐賀海等の帰参前提に成立したと語った。しかし根岸理事は大阪及び山本氏との接触を否定、板垣伯も山本氏が代理人を偽称し山本氏の発言の取消を求めた。
#sumo

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明治45年5月4日
此頃は地方から国技館見物に来る者が多いが、国技館を見せてくれと来る人も多いので混雑を防ぐために下足一人三銭を取って館内を見物させると、毎日二三百人の入場客がある。これが一年続けば相撲興行をせずとも館の維持費は儲かると春日野部長大喜び。 #sumo

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明治45年5月4日
常陸山が水戸市より代議士候補に起つとの噂は一時中絶したが、同市の有志で峰岸派の地盤を譲り受け、常陸山を代議士にしようと企てる者がある。九州巡業中の常陸山も電報での交渉では色気たっぷりなので、一両日中に候補者たるや否や決定する。 #sumo

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明治45年5月8日
元大砲待乳山の頬の傷は君ヶ濱に引っかかれたものだが、その委細はと言うと、旅先で芸者に大持ての待乳山が君ヶ濱の気に入った芸妓にデレついたのに怒って大立回りした時のもの。阿武松、更に小常陸が仲裁に入り漸く収まったとか。 #sumo
君ヶ濱2代 志子ヶ嶽市五郎 十6 桐山-佐野山-君ヶ濱部屋 1890年8月-1916年2月(死去)
阿武松6代 大見嵜八之助 前2 高砂部屋 1903年1月-1939年10月(死去)

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明治45年5月27日
国技館の入場者の中に偽造の二円券を行使する者があるので、発見した中立が相生署に届出て、役員が刑事立会の下協会楼上で取調べたところ、桟敷係北海らが外十名と共謀して毎日一千枚余の偽造券を発行していた事が判明した。 #sumo@OdateUzaemon: @OdateUzaemon 北海は高砂部屋の幕内力士、当時同部屋に沢山いた津軽出身者の一人だったが、株が得られなかった事などもあり40を過ぎて幕下陥落しても相撲を取り続けていた。最後の番付は三段目、世話人の役職を得て引退出来たが、この事件で結局角界追放となってしまった。

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明治45年5月29日
26日上京した朝日山は常陸山と会見し、大阪協会の吉田司家への謝罪で東京協会の口添えを依頼。大木戸の住吉神社からの横綱は返納し、但し地方横綱として巡業中は許して欲しい旨など申入れ、常陸山を介し東京方はこれを承諾、京阪協会の融和が成立。 #sumo

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明治45年6月13日
明治大学相撲部の綾錦こと大西俊明君は高砂部屋で響矢の指導を受けているが、学生界では敵無し、部屋の幕下連も苦手とする程。響矢は素人にしておくのが惜しいと本場所出場を勧め、本人もその気であり来春場所には幕下付出という話もある。 #sumo

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明治45年6月20日
太刀山の五場所優勝祝賀会で、板垣伯が太刀山の命名は自分であると明かす。命名は他の人とする言説を誤聞と断言し、越中のタテ山を詩や歌に作る際はタチ山と強く響かせるからそこから取ったと語った。 #sumo

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