武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

151. 風呂敷 FUROSHIKI

2018-01-01 | 独言(ひとりごと)

 明けましておめでとうございます。

 先日、ポルトガルテレビのニュース情報番組のなかで『フロシキ』に関するレポートがあった。「日本にはフロシキという便利でお洒落なものがあって、日本人はそれに何でも包んで持ち歩く」というものであった。そして日本人の僕でさえ知らない、様々な包み方が紹介されていた。「ポルトガル人は使い捨ての紙袋やビニル袋を使い、日本人に比べていかに資源の無駄使いをしていることか。日本の伝統文化はエコで素晴らしい。」と締めくくったレポートであった。

 でもそのレポートを見たポルトガル人が実際に日本に行ってみたならば、道行く人の誰も風呂敷など使っていないのを見てむしろがっかりするのかも知れない。それどころか日本の過重包装をみて驚くことは間違いなしだ。お菓子などは必要以上幾重にも包まれているし、スーパーの野菜でも魚でも殆どがトレーに乗せられている。

 風呂敷は ORIGAMI(折り紙)同様、そのまま FUROSHIKI と表されている。

 風呂敷の様な布は奈良時代から使われていた。日本だけではなくチベットや更にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸を南下、グアテマラやペルー、ボリビアのインディオたちも昔から使っている。大きな民族織の布に何でも包んで背中に担いでいる姿はインディオの象徴でもある。何れにしてもモンゴロイド民族の伝統なのだろう。

 風呂敷という呼び名になったのは江戸時代になってからと言われている。諸説はあるものの、『各地で温泉や銭湯が流行り始め、侍が着物を脱いで他人の着物と一緒にならない様に、その布の上で脱ぎ、そのまま結んで区別しておいた。』のが風呂敷と言われる所以だという。今の銭湯や温泉の脱衣籠の様な役割だったのだろう。風呂敷には家紋なども施されるようにもなった。

 チャールス・ブロンソンの西部劇で三船敏郎が侍として共演した映画があった。侍の三船敏郎が流暢に英語を喋っていた。一緒に馬に乗ってアメリカ西部の荒野を旅するのだけれど、休憩場所で天然に沸いている温泉があった。三船敏郎は喜んで湯に浸かった。その纏めてあった着物、刀などをチャールス・ブロンソンは悪戯半分で隠してしまった。その時、風呂敷に包まれていたかどうかは忘れてしまったが、三船敏郎の「着物を返せ!」という台詞が日本語だったのが印象的であった。

 僕はポルトガルで額縁を包むのに風呂敷を使っている。風呂敷と言ってもネルのシーツを真四角に切ったものを幾つか用意していて、それに包んで持ち歩くことにしているだけのはなしだ。

 ポルトガルの額縁は箱などには入っていない。何かで包まなければならない訳だけれど、柔らかいネル生地で包めば傷はつかないし、結び目を持てば持ち運びにも便利だ。

 個展の時にもそれで搬入した。両脇に抱えられるから2倍の速さで運ぶことができる。画廊のペドロは僕のそんなやりかたを見て「テクノロジー・ジャパン」と評した。

 僕は一瞬首を傾げた。最も古臭い風呂敷をテクノロジーとはこれ如何に。確かに風呂敷は折り畳んで持ち運び、どんな大きなものでも、糊もガムテープもハサミも必要なく包むことが出来る。合理的な布だ。そんな合理性は日本人のDNAに組み込まれていて、最先端技術に生かされているのかも知れない。

 セトゥーバルの美術館でグループ展をした時にも、そのネル生地に30号の額縁2枚を包み搬入した。僕の作品が1番大きかった。搬出の時に、僕は美術館の床に大風呂敷を広げて30号を真ん中に置き、結び目を作った。大きい絵だから学芸員がクルマまで運ぶのを手伝おうと横で待ち構えていて、「クルマまで片方を持ちますよ」と言ってくれたが、僕が脇にひょいと担いだのを見て、その学芸員も驚いていたが「何と日本人はスマートなのだろう」と思ったのかも知れない。そんな感心した様な顔をして僕を見ていた。

 日本人も昔は風呂敷をよく使っていた。子供の頃、毎年1回、越中さんが大きな風呂敷包みを担いで家にやってくる。1年の内に使った置き薬の補充にやってくるのだが、母は越中さんが来るのを随分歓迎していた様にも思う。お陰でちょっとした風邪ひき、腹痛、怪我などは初期段階で治せた。おまけに置いて帰る紙風船を母はすぐに膨らませて歌を歌いながら手毬遊びをしていたのが懐かしく思い出される。

 僕は高校を卒業して天王寺美術館半地下のデッサン研究所に通っていた。そこには様々なアルバイトの情報が流れてくる。東京オリンピックの次の年、初めてサインペンと言うものが売り出された時で、その宣伝販売のアルバイトで高島屋の文房具売り場に立ったことがある。そのアルバイトは画学生にとっては最適とも言うべきもので、そのカラーサインペンを使って絵を描いて買い物客の目を引き付ける訳だけれど、未だその当時はマジックインクの黒、赤、青の3色しかなかったのが、その売り出したサインペンは12色もの色があった。今となっては当たり前のことだが当時としては画期的だったのだ。僕は出来るだけ満遍なく全ての色を使いカラフルなイラストを描いてそのブースに貼り付けた。それは買い物客よりも女店員に人気があって、「これちょうだい」と言って、僕の描いたイラストを持って行く女店員もたくさんいた。

 そんな画学生に最適なアルバイトばかりではない。呉服屋のアルバイトをしたことがある。デッサン研究所が終わった夕方からほんの少しの時間のアルバイトで、呉服屋からアルサロの楽屋とでも言おうか?ホステスが化粧をしたり着替えをしたりする場所だが、頭がつかえそうな天井の低いだだっ広い畳敷きの部屋だったが、両方に鏡がずらりと並んでいて、その前にホステスが何十人も座って化粧をしたり着替えをしたりしている。そんな場所だが、そんな中に梱り(こうり)に入って大風呂敷に包まれた荷物を届けるのである。そこに呉服屋から派遣されているおばさんが待ち構えていて、ホステスさんに着物を勧め買ってもらうのである。風呂敷の中身は着物の反物で、季節にあわせた様々な反物がぎっしりと詰まっていて、相当の重さもあったのかも知れないが、必死さの余り、あまり重さは感じなかった様にも思う。呉服店からミゼットに載せ、アルサロに着いたら従業員通用口から狭い通路を通り、又、狭くて急な梯子段の様な階段を登る。ちょうど越中さんのスタイルそのままである。その部屋ではたくさんのホステスが下着のままで或いは乳房も露わに化粧をしていて、僕などが入って行ってもお構いなしなので、僕の方が目のやり場に困ってしまう、という具合であった。1つのアルサロでの販売は1週間に1度位だったと思うが、毎日、別のアルサロにその梱りの入った風呂敷包みを運ぶことになる。そんなアルバイトであった。勿論、僕はミゼットを運転して風呂敷包みを運ぶだけで販売をしたりはしない。

 日本でも額縁を運ぶのに僕は風呂敷を使っている。尤も最近、実家には風呂敷などはなかなかなくて、インド綿の真四角に切られたテーブルクロスなどを買って来て使っているが、持ち運びには便利だ。ただ、縮緬などの風呂敷に比べてインド綿は破れやすい。昔はどこの家庭にも縮緬風呂敷の1枚や2枚はあった。

 落語の話ではないけれど、空き巣が家に上がり込んで先ず最初に探すのが風呂敷だそうだ。大風呂敷を畳の真ん中に広げ、そこに目ぼしい着物などを重ねていく。それを肩に担いで退散する訳であるが、たいていが唐草模様で、唐草模様は四方八方どこまでも延びることから縁起が良いそうで、風呂敷の定番であった。その唐草模様は元々はイスラムの模様で、ポルトガル人を介して日本に伝わったものらしい。空き巣は風呂敷も持たないで手ぶらで他人の家に侵入し、その家の風呂敷をも使う。とは究極のエコである。アラジンの魔法の絨毯ではないけれど、魔法の風呂敷である。

 そして『出来もしないことを言う。法螺を吹く』ことを『大風呂敷を広げる』とも言う。

 ポルトガルは本当に紙を無駄に使う。テーブルクロスにも使い捨ての紙。紙ナプキン。包装紙。紙箱。買い物袋。クリスマス時には大きなゴミ収集箱が紙くずで溢れかえる。

 セトゥーバル郊外にはパルプ工場があり毎日大量のパルプを生産している。日本からもそのパルプを買い付ける貨物船が定期的にセトゥーバルの港に入港する。パルプの原料はポルトガル全土で植栽されているユーカリの木で、ユーカリの枝を満載した大型トレーラーがそのパルプ工場に頻繁に出入りしている。そして山火事の原因の多くは燃えやすいユーカリの木なのだ。我が家からもそのパルプ工場の巨大煙突が見える。ちょうどそのあたりから初日の出が昇る。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。VIT

パルプ工場の煙突とセトゥーバル港の初日の出(我が家のベランダから撮影)

 

 

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コメント (2)
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