龍田 樹(たつた たつき) の 【 徒然ブツブツ日記 】

目についたこと気になることをブツブツと語っていきます。たまぁ~に神霊的情報も有り。更新はかなり気ままですので悪しからず。

Roots №4 (津軽工藤氏の系譜 その1)

2010-05-19 16:10:57 | 南北朝 “roots”
「じぇんごたれ」 遠野徒然草 「津軽工藤氏と根城南部氏」

 奥州工藤氏を調べているうちに偶然ヒットした、菊池氏の手によるこのブログは、私に多くの示唆をもたらした。特に最後の“まとめ”に記されている考察は興味深く、根城南部氏と津軽工藤家の緊密な結びつきの鍵となるものではないのかと感じたりした。
 
 前回引用した、『伊藤奨学会五十年史「楠戸義昭/毎日新聞編集員」』を基にした『青森南部の伊藤氏』という資料には、奥州工藤氏の出自が詳しく書かれていた。

 『伊豆国最大の豪族となったこの祐隆(家継)が伊藤氏の名前に共通な通字「祐」の元祖である。

 その孫にあたる工藤祐経は、京の大宮御所で平重盛を烏帽子親として元服し、以後二十年以上朝廷にあって皇室の武者所の守護につき中央政治と地方の軍事情報に精通していた。
 やがて恩人重盛死に平家朝廷は従兄弟の伊藤祐親と利権で密着し、愛妻万劫は祐親に取り返されるなど、宗家の祐経には憂鬱な時期を迎えていた。
 伊藤家(工藤・狩野)は歴代源氏の家臣であったので、源氏頼朝の旗揚げに当たり、叔父狩野茂光と弟宇佐美祐茂の仲介があり頼朝と面会、源氏のもとにはせ参じた。
 その有能さと情報力によって頼朝の信任は極めて厚く、源平の合戦や奥州征伐の功として、日向国の地頭職、陸奥国鞭指庄など二十四カ国に所領を与えられた。

 北条氏の企てとされる「曽我兄弟の仇討ち」事件によって、富士の裾野における頼朝軍の軍事演習中の深夜を、頼朝と共に襲われ暗殺された祐経だったが、その家督を継いだ嫡子祐時は、建久九年日向国の地頭職を与えられた。

 その後北条執権幕府により、その祐時の家督は祐時によらず、将軍家の沙汰によって六男祐光に与えられた。その祐光の三代孫の祐持までは、宗家は鎌倉に居住していて北条執権の中で要職にあって下向せず、代わって多くの兄弟(庶子たち)が地方に下向し豪族化した。』

 文章はまだまだ続くが、どうやら、これは工藤氏の系図を参考にしなければ私の頭の中の整理がつかないようだ。それに「曽我兄弟の仇討ち」も調べなければならない。調べていくうちに派生的に更に調べなければいけないことが出てくる・・・。
 私は片っ端から工藤氏の系図を検索し、『藤原氏南家系図』という膨大な量の系図を発見することが出来た。資料の続きは、その系図と照らし合わせながら読み進めることにした。 『藤原氏南家系図』
(つづく)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。