週刊金曜日な日々

「週刊金曜日」、一読者のB級時評
題名に「週刊金曜日」と使用する事は、編集部の許可を得ています。

ローマ人の物語 V ルビコン以後

2006-09-22 00:00:59 | 言葉
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このような状態になった(カエサルは北アフリカでポンペイウスに敗北。9000人の兵と40隻の船を失った)場合、人は2種に分かれる。第1は、失敗に帰した事態の改善に努めることで不利を挽回する人であり、第2は、それはそのままでひとまず置いておき、別のことを成功させることによって、情勢の一挙挽回を図る人であり。カエサルは後者の代表格といってもよかった。
(第6章 83P)
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「方式」とは、だれが踏襲してもそれなりの成果が得られるものでなければならない。駆使する者の才能に左右されたり、その場でしか適用可能でないとなっては、教材にならないからである。
アレクサンダー大王もハンニバルもスキピオ・アフリカヌスも、ウエストポイントの教壇に立てるだろう。だがカエサルならば言うだろう。
「まず敵と戦場をみせてくれ。その後で勝つ方法を考える」と。
それでかってしまうのだから愉快だが、これでは普遍妥当性を求められる「方式」の創出にはならない。
(第6章 170P)
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カエサルという男は失敗に無縁なのではない。失敗はする。多だし、同じ失敗は2度とくりかえさない。
(第6章 226p)
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それまでプラスに昨日していたのと同じものが、環境の変化によって、マイナスに機能するように変わったのである。
人間にとっては、ゼロから起ちあがる場合よりも、それまでは見事に機能していたシステムを変える必要に迫られた場合の方がよほどの難事業になる。後者の場合は、何よりも自己改革を迫られるからである。自己改革ほど、とくに自らの尿力に自信をもつのに慣れてきた人々の自己改革ほど、むずかしいことはない。だが、これを怠ると新時代に適応した新しいシステムの樹立は不可能になす。
(第6章 263P)
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第1巻の中で私は次のように書いている
「人間の行動原則の正し手を
宗教に求めたユダヤ人
哲学に求めたギリシャ人
法律に求めたローマ人」
(中略)
法律とは宗教を異にし哲学にも無関心な人々でも、人間社会で生きていくのに必要なルールであるからだ。
(第6章 299p)
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カエサルは終身独裁官に就任した直後に、元老院議員全員に対して、カエサルの身の安全を守るとした誓約を求め、全員がその誓約に書名していた。暗殺者たちも元老院議員である。
(中略)
人間の成した誓いを信ずるとは軽率だったと、現代人ならば言うかもしれない。だが、古代ローマ人の考える誓約は大変に重い意味をもっていたのであす。
多神教の民であるローマ人には、一神教のユダヤ人とちがって、紙との間に契約を結ぶという概念がなかった。神々は人間を保護し助けてくれる存在であり、人間の域からの正否の裁判官ではなかった。人間の行き方の正否の裁判官は人間自身なのである。ゆえにローマ人が法の精神の創造者になるわけだが、裁き手は人間自身ということは、人間の言葉を信じることなしには成立しない。
(中略)
カエサルは元老院議員全員に「紳士協定」を求めたのである。そして、暗殺者たちも加わっていた元老院議員全員が、終身独裁者カエサルとの間に「紳士協定」と結んだのである。もしもこの誓約を交わしていなかったら、カエサル暗殺はただの暗殺にすぎなかったであろう。
(中略)
だが、公的な効力さえももったローマ式の「紳士協定」を結んだ以上、カエサル暗殺は単なる暗殺ではなくなる。国家の当地階級に属する人々が、人質や担保のような保障を介在させなくても効力をもたねばならない、言葉に信を置いた誓約を破ったことになるからである。
(中略)
ジェントルマンの言葉を信じて護衛隊を解散させたカエサルはジェントルマンだが、そのカエサルを、しかも言論を闘わせる場とて武器の携帯は非礼とされていた元老院会議場で殺した暗殺者たちは、2重に酷寒の当地階級にはふさわしくない人物とみなされるのである。
(第7章 375p)
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だが、オクタビアヌスにはカエサルにはなかった資質があった。それは偽善だった。
(第7章 384p)
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