無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

酒田市立資料館

2015-08-17 11:16:48 | 音楽・芸術・文学

足が痛いから歩かない・・・すると、自覚症状が出るくらいに、デブってくる。これは少々痛くても動かないといけないなと思い、夏休みの最終日に酒田市立資料館に歩いて行ってきた。前日までの雨も上がり、日陰を求めながらの町歩きである。

酒田市立資料館では、9月13日までの間、戦後70年戦時下の青春と題して企画展を行っている。

私がこの企画展に興味を持ったのは、酒田市生まれで戦場に散った日本画家の岡部敏也氏の日本画が見たいからだった。この「出陣」の作品を手がけたのは17歳。酒田商業高校から東京美術大(後の芸大)に進み、主席で卒業した。将来を有望視された彼だったが、昭和18年に入隊し、昭和20年8月26日(終戦の後なのに)満州で戦死する。内地では、終戦と共に平和が戻ったが、外地では簡単には終わらない。終戦が判った上でソ連は日本兵を抑留した。満州からの引き上げでさえ悲惨を極めたのが実態である。

かれの作品が数点飾られていた。この日本画や油彩画、最も目に付いたのは水彩のスケッチだった。赤いもんぺのおかっぱ頭の女の子の絵は凄かった。宿題で書いたとされるハマナスの水彩も見事だった。残念ながら岡部氏の作品のコーナーは、撮影は禁止だった。

太平洋戦争に突入するまでの流れ、出生する若者達、後に残って勤労奉仕や訓練をする若者達の写真が飾られている。酒田中学から中島飛行場へ学徒動員された生徒の集合写真を見ると、私の父も始めは中島飛行場からだったなと思い出す。

酒田も実は空襲にあっている。重要拠点への爆撃だったのが判るだろう。ただ、第1国民学校(後の琢成小学校、現在は総合文化センター)にも爆弾を落としている。軍事施設ではなく完全なる小学校である。夏休み中だったから良かったものの、在学中なら多くの子供達の被害が発生したと思う。私が小学生の頃でも、中庭に校舎が繋がっていない場所があった。そこが爆撃でやられた所だと聞いた。まだ敗戦の爪痕は残されていた。

話は変わるが、広島と長崎への原爆投下は、終戦を早める為の爆撃だったと我々は教わった。しかし現在判っていることは、2種類の違う原爆投下で、どんな被害を受けるのかの実験だったと言われている。広島と長崎、別の候補地に京都があった。通常爆撃を行わずに、原爆の被害だけが判るように行われた。あの時期、終戦が近いのを米国は知っていた。終戦されてしまえば原爆を落とせない。その為に急がれた作戦なのである。広島を見れば近くに造船所の多い呉市がある。何故呉を攻撃しなかったのか、無抵抗の民間人を大虐殺した戦争犯罪だったのを知るべきである。

子供の頃の遊び場だった持地院には、大仏の台座だけが残っていた。現在は新たに建立されている大仏の元の姿を始めて写真で見ることが出来た。

 

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