赤い彷徨 part II
★★★★☆★☆★★☆
こんにちは、アジア王者です。↑お星さまが増えました。
 



前回からのつづき)

天守台裏(北側)から見上げた石垣です。こちらの写真では捉えられていませんが、よく見るとところどころ破損等したところがあり、そこは明暦の大火や東京空襲の痕跡だと理解されているようです。



北詰橋門を左手に見ながら、更に平川壕沿いに東へと歩を進めると右手に宮内庁書陵部の建物が見えてきます。書陵部は戦後の1949(昭和24)年に旧図書寮の職務を引き継いで誕生した、45万点以上の皇室にまつわる歴史的資料を保存しているところです。そしてその歴史的資料というのは、代々皇室に伝わってきたものを中心に古典籍・古文書類、歴史資料として重要な明治以降の宮内省/宮内府/宮内庁の公文書類、宮内庁が管理している陵墓等から出土した考古品といったものだそうです。



書陵部を右に歩を進めるとワインディングロードな下り坂が見えてきますが、こちらは皇居東御苑の梅の名所「梅林坂」。初代江戸城を築城した太田道灌公が1478(文明10)年に菅原道真を祀り梅樹数百株を植えたことにその名は由来するようです。現在も70本ほどの梅の木がありますが、どうやらその多くは戦後に植えられたもののようですね。



こちらの梅の花のうち早咲きの品種は冬至のころから咲き始め、例年2月中旬に見頃を迎えるそうです。また、この梅林坂には山王権現神社があったといわれ、それが現在永田町の総理官邸の裏にある山王日枝神社になったということのようです。



梅林坂を下り、左を平川壕、右を天神壕に囲まれた道を進むとドン突きには平川門があります。門の向こうに見えるのは毎日新聞東京本社のようですね。この平川門からも皇居東御苑に出入りできるそうです。大奥に近いということで大奥女中達の出入りする通用門であり、かつ清水、一橋、田安の御三卿の登城口でもあったようですが、一方で罪人や遺体を運び出す際に使われる門でもあったようで、件の松の廊下で刀傷沙汰を起こした浅野内匠頭もこの門から城外に移送されたようです。



平川門を確認して本丸方面に戻ります。向こうに毎日新聞の建物が見えますので、こちらも平川壕だったのだと思います。道がお城らしくクランクになっているところです。



ここにもかつて門があったのでしょうか。ここを進み突き当りを左に進むと梅林坂を降りたところに戻ることができます。



(つづく)

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