まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

豆まきが こんなに悲しい 遊びとは

2018年02月01日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は、南海上を東北東進する低気圧の影響で、雪や雨が降っている。気温は0.7度から5.1度、湿度は92%から81%、風は1mから2mの北東の風が少しばかり。明日の2日は、寒気や気圧の谷の影響で概ね曇る見込みらしい。

 

 朝、目覚めると雪景色だった。で、雪はずっと降り続けているのだが、気温のせいか雨のようになって雪は消えてしまっている。

 

 子供の頃にはひざまでの雪が降ったが、温暖化のせいか、雪は珍しいほどになった。20年前にはタイヤチェーンが必要だったが、最近はタイヤチェーンなんぞ全く見なくなった。

 

 ノーマルタイヤで迂闊に走ってもまずいと思って、今日もしっかりとお勉強。

 

 島の我が家の近くにある一つのありふれたお墓である。ところが、このお墓は謎ばかりに包まれていた。その謎を解いてきたのだけれど、一向に歴史は書き換えられないし、世間も島の人たちも、私たちの研究には見向きもしない。

 

 ま、丸亀市史やそのほかの歴史書は書き換えられない。そこで、こうした資料を整備して公的な場所に保存しておいて、後世の方に史実を残したいと思うばかりである。

 

 この時期になると、このお話。自由律俳人の「住宅(すみたく)顕信」の「未完成」という句集である。 住宅顕信は、本名・住宅春美(すみたく はるみ)。岡山県岡山市に生まれた。岡山市立石井中学校卒業。1976年4月、岡山市内の下田学園調理師学校に入学。同時に就職し、昼は勤務し夜は通学という生活に入る。4歳年上の女性と知り合い、同棲を始める。この頃より詩、宗教書、哲学書に親しんだ。

 

 1978年3月、下田学園卒業。1980年、父親の勤務先である岡山市役所に臨時職員で採用され、清掃の仕事に従事。仏教にに傾倒し、1982年9月より、中央仏教学院の通信教育を受講。翌1983年4月、教育課程修了。7月、西本願寺にて得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となり、法名を釋顕信と名告る。10月、同棲相手と結婚。両親の援助により自宅の一部を改造して仏間をつくり、浄土真宗の根本経典「無量寿経」に因み、無量寿庵と名付けた。

 

 1984年2月、急性骨髄性白血病を発病し岡山市民病院に入院。6月、長男誕生。不治の病の夫に対して妻の実家の希望により離婚。長男は顕信が引き取り、病室にて育てる。10月、自由律俳句雑誌「層雲」の誌友となり、層雲社事務室の池田実吉に師事。この頃より自由律俳句に傾倒し、句作に励むようになる。特に尾崎放哉に心酔した。1985年に句集『試作帳』を自費出版。「層雲」の権威主義的な疑念を感じ、「層雲」の元編集者である藤本一幸が主宰する自由律俳句誌「海市」に参加する。翌1986年、「海市」編集同人となる。病状が悪化し、この年の12月からは代筆によらなければ投書できなくなる。1987年2月7日23時23分、還浄。享年25。俳人としての創作期間はわずか3年で、生涯に残した俳句は281句だった。(Wikipediaより)

 

 住宅顕信の人生も俳句もまた、「未完成」のままに終わってしまった。南無阿弥陀仏に出会った人生。彼の人生は「むなしくはなかった」のだろうか・・・。

 

 二月が来ると、なぜか、この夭折してしまった自由律俳人、「住宅顕信」のことが思い出されて仕方がない。故郷岡山の旭川沿いに建てられた顕信の自由律俳句「水滴の ひとつひとつが 笑っている顔だ」というもの。放哉の句をにじませるようなことばを紡いでいる。

 

 今日の掲示板はこれ。「鬼とは私のことか 豆がまかれる」という住宅顕信の俳句から。いつもお世話になっている赤松先生のお寺の掲示板にあったもの。もうすぐ節分。冬と春の分かれ目ということで、暦の上では春になるころである。節分といえば豆まきであるが、豆まきを題材にした俳句を取り上げた時期らしいことばである。「鬼とは私のことか豆がまかれる」 ことばと言っても、これは自由律俳句。荻原井泉水、尾崎放哉、種田山頭火などの流れを汲むもので、「住宅顕信」さんは1987年に25歳の若さで急性骨髄性白血病で亡くなった俳人だ。この句にも、作者のそうした悲しい背景が忍び込んでいるように感じられるのだけれど。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。



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