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ホー・ツーニェン「旅館アポリア」 あいちトリエンナーレ:2019年秋の旅(61)

2019年12月11日 08時41分07秒 | 道外の国際芸術祭

(承前)

 ホー・ツーニェン「旅館アポリア」が発表された会場の「喜楽亭」について、豊田市文化振興財団のサイトには次のように書かれている。


 豊田市神明町にあった「喜楽亭」は、明治時代後期から続いた料理旅館で、大正期の代表的な町屋建築として知られています。戦前には養蚕業、戦後には自動車産業の関係者が多く利用しました。

 昭和42年廃業後は住居として使用していたものを、昭和57年の改築にあたり、所有者の長坂雪子氏より寄贈され、現在の場所に復元移築されました。以降、一般開放され、使用できるようになっています。

 建物は、大正期に中央座敷、昭和元年から3年にかけて前部分、昭和15年頃には裏、二階座敷部分と3回に渡って建築されています。家の骨組みは、中げたと梁を交互に組み合わせた地棟と呼ばれるもので、くぎ類の使用も最小限にとどめられています。用材は、豊田市広川町性源寺の樹齢400年の松が使われ、「喜楽」と刻まれた瓦は豊田市市木町の瓦師都築氏の手によるものと伝えられています。

 喜楽亭は、近年の都市化により、急速に姿を消しつつある下町の大規模な和風建築を今に伝えています。



 札幌で言えば、最初の国際芸術祭で使われた清華亭や、札幌芸術の森にある有島武郎旧宅などを思い出す。ただ、道内の古い屋敷にある洋風の要素は、当然かもしれないが、ほとんどない。
 内部の画像は、こちらのサイトにたくさんある。

 そして、豊田市にあった飛行場から飛び立っていった神風特攻隊(草薙隊)の出陣の宴が催されたこともあったということが、作品のなかでいわれていた。

 そう。この作品の大きなテーマの一つは、第2次世界大戦で日本の軍隊が多くの前途有為な若者を死に追いやった特攻隊なのだ。

 作者のホー・ツーニェン氏はシンガポール在住。
 「旅館アポリア」はおおまかに言うと映像インスタレーションで、1階の一ノ間の「波」だけが12分の映像1本、
あとは二ノ間「風」、2階の三ノ間「虚無」、四ノ間「子どもたち」はいずれも12分の映像2本からなる。
 すべて見ると12×7=1時間24分かかるという大作だ。ホー・ツーニェンとの往復書簡を読み上げるという形で音声と字幕が続く。ただし、「虚無」は、プロペラのような巨大な扇風機がぐるぐる回っている部屋で、難解なテキストと字幕だけがえんえんと続き、しかも観覧スペースが幅1メートルもないような狭さで、いささか苦痛であった。
 これだけの長篇であるから、扱われる主題も多岐にわたるが、特攻隊の記録、小津安二郎の映画の引用、京都学派の思想、「フクちゃん」で知られる漫画家・横山隆一の戦争協力アニメーションなどが登場する。そして、映像に登場する人物は実写とアニメとを問わず、すべて顔が白く抜かれている(小津のファンであれば、原節子、笠智衆、東山千栄子といったあたりはすぐに見当がつくだろう)。

 筆者があらためて気づかされたことを、いくつか箇条書きに記す。

・特攻隊の集合写真が出てくる。隊員のその後は「散華」のほか「行方不明」が多い。あらためて、ひどい。特攻は、外道、鬼畜の作戦ということは、何度でも言わざるを得ない

・小津安二郎は戦前から有名な映画監督であったが、実は、全面的に戦争に協力する作品は手がけていない(敗戦時は作品で言及されていたとおり、インドの独立運動の英雄チャンドラ・ボースの伝記映画を撮るべくインドネシアに滞在していた)。ただ、戦前最後の作品「父ありき」の中には出征の場面などがあったが、戦後に公開されているバージョンではその部分が削除されているということも、「旅館アポリア」を見て初めて知った(筆者がかつて国立近代美術館で見た「父ありき」は不思議なほど戦争の感じがしない映画だった。たしか1941年の作品)

・横山隆一は、自分のアニメーションが戦意高揚に役立ったとしても、戦後はまったく反省していないという。この口吻は、藤田嗣治を想起させる

・三木清は、治安維持法違反で摘発されて戦後(!)獄中死したので、いわゆる「京都学派」と違って左派・民主派のイメージが漠然とあったが、実際は戦争遂行のお先棒をかつぐような言説もしていた(これも、この作品を見るまでは知らなかった)


 多くの人には周知の事実だろうが、先の戦争中は多くの文化人や芸術家が陸海軍に動員されて、「聖戦遂行」「大東亜共栄圏」のPRに協力した。藤田嗣治や横山隆一だけが特別悪いわけではない。
 左派とされる作家も、転向したり、沈黙せざるを得なかったりした(小林多喜二のように虐殺された例もある)。
 逆に、だからこそ、戦争中はおおむね沈黙して戦後に反戦詩を発表した金子光晴や、軍部に対する反論記事を書いた画家の松本俊介や、文学報国会には第1回のみ出席してあとは無視し続けた永井荷風が、戦中も良心を守ったとして戦後になって尊敬されたのである。「旅館アポリア」にも名前が出てきた谷崎潤一郎も、ことさらに反戦は言わなかったが、好戦的な文章で埋まりつつある月刊誌で戦前の商家の日常を描き続ける長篇「細雪」の連載を続け、案の定軍部から、時局にそぐわないとの理由で差し止めを食らったのだが、あのばか騒ぎに荷担したなかった一人だ。
 こういうときにドイツの事例を持ち出すのはワンパターンだという気もするけれど、実際にナチスが政権を奪取するとドイツやオーストリアの文化人・芸術家・科学者のほとんどが亡命してしまったのとは、えらい違いである。レジスタンスに協力したり、米国から反ナチ放送を行ったりしていたのだ。

 そうした歴史を踏まえると、小津安二郎もえらかったんだなと言わざるを得ない。
 戦後、小津は、社会派の映画監督や評論家からは「プチブル的」と批判され、社会問題を扱わない、ぬるい映画ばかり作るといわれていた。
 あの名作「東京物語」がキネマ旬報ベストテンで2位どまりだったことが、その例証といっていいだろう。
 小津は戦前も左翼だったわけではない。相当一貫した姿勢だったのだ。

 実際問題として、戦争に協力する絵を描かなければ絵の具の配給が回ってこなかったし、文学作品を発表する場も与えられなかったのだから、いまの価値観で当時の芸術家を頭ごなしに切って捨てることには慎重でありたいと筆者は思う。
 大事なのは「次」だ。次にやって来る戦争と全体主義には、反対しなくてはならない。
 「お国のために尽くすのは当たり前」という価値観のもとで過ちを繰り返してはいけないのである。
 近年、本来はあまり政治的なことにはふれないタイプの作家や芸術家が、さまざまに声を上げている。
 当然のことだと思う。
 冷笑的な人がツイッターでよく「日本には言論の自由がある」と上から目線で書いているが、このままだとそういう自由がなくなりそうなことをひしひしと感じ取っているから、政治的な声を上げているのだ。


 やっぱり長くなってしまったので、京都学派については次項で述べる。


参考になるサイト
□REAL TOKYO の小崎哲哉氏のテキスト http://realkyoto.jp/review/ho-tzu-nyen_ozaki/

□名古屋のカルチャーウェブマガジン「アウトモーストナゴヤ」の、ホー・ツーニェン×浅田彰対談のリポート https://www.outermosterm.com/aichi-triennale2019-ho-tzu-nyen-asada-akira-conversation/


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