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キュンチョメ「声枯れるまで」 あいちトリエンナーレ : 2019年秋の旅(56)

2019年12月03日 08時17分16秒 | 道外の国際芸術祭
(承前)

 北海道に帰るまで知らなかったことがいくつかあった。
 「キュンチョメ」というのは男女2人によるユニットであること(ツイッターのアイコンが女性の顔なので、彼女のペンネームなのだとばかり思っていた)。こちらのnote によると、会場には三つの作品があり、ひとつは「声枯れるまで」で、別部屋の映像は「私は世治」という作品(冒頭画像はこちら)で、さらにカセットテープの作品があったこと。筆者は、リンク先のnote 筆者が懸念する通り、このカセットの作品に気づかなかった。

 ツイッターなどではたいへん評判が良かったようだが、筆者はひねくれ者なので、どうもその波にいまひとつ乗れない感じがしていた。いちばんは「長尺すぎないか」ということだが、理由はまだある。
 自分の性に違和感を抱き、別の性を選ぶとともに、名も変更した人が、インタビューのクライマックスでキュンチョメとともに、新しい名を「声が枯れるまで」叫ぶ。叫んでいる最中だけは、映像は真っ暗である。これは意地悪な言い方であることは承知なのだが、暗闇で叫べば、それは叫びの内容以前にたいていのことは感動的になってしまうものなのだ。それは、現代アートの所作としてはどうなんだろうという疑念が最後までぬぐえなかった。もちろん、筆者はこのテーマに対して反対しているわけではないのだが、コンセプトが良かったり主張が正しかったりしさえすればその作品を評価するほど単純な人間でもない。

 会場は大きく二手に仕切られていて(これ自体、わかりやすいとはいえない。片方だけ見て帰っちゃった人もいそうだ)、「声枯れるまで」の叫び声は「私は世治」を上映している部屋までがんがん響いてくる。映像の見せ方としてどうかと思う事例だが、おそらく故意にやっているのだろう。「私は世治」のほうは、ヘッドフォンを装着して鑑賞する仕組みになっている。

 筆者が「私は世治」のほうを好ましく感じたのは、新しい名を叫び続けるのではなく、書道で、古い名の上に新しい名を、母と子(世治)の2人で朱書するというスタイルだったからだ。
 「声枯れるまで」は3人へのインタビュー映像が単純につながっておりすべて見ると45分ぐらいかかるが、「私は世治」は名前を変えた子とその母親に同時にインタビューした13分ほどの映像である。
 もうひとつ、好ましさを反芻できたのは、世治の母子の関係は、クィアスタディーズ抜きでも成立するある種の普遍性をたたえていたからである。
 「クィアスタディーズ抜きって、抜いちゃだめだろ」という指摘がくればそれはもう正しいのだし、彼ら彼女らが「叫ばずにはいられない立場や当事者性」みたいな資格(という語もヘンだが)負っていることも承知の上ではあるのだけれど、わが子の針路を好ましく思ってはいないとはからといって、そこはわが子であるから百パーセントの否定はしない母親と、母親の無理解にため息をつきながらも、だからといってそこは母親であるから百パーセント否定しない子との関係は、ともすれば「毒親か否か」という極端な二分法がはびこりがちな現代にあって、それはそれで貴重な、或る意味でほほえましい距離の取り方なのではないかとも思うのだ。

 
 さらに、本質から離れた話を。

 映像作品が多いのは、この20年ぐらいのこの種の芸術祭の特徴だが、10年代に入って京都の「PARASOPHIA」あたりから、古い建物の活用イコール映像作品の発表場所という事例が増えていないだろうか?
 天井高がかせげない古い街なかの建物は、インスタレーションに不向きな場合が多く、むしろ床に座れば長時間の鑑賞も平気な映像に用いられるという事情は容易に推察できる(映像には固有の大きさがない)。
 ただ困るのは、この手の建物は小さいことが多く、会期末で人出が多くなるとたちどころに入場制限がかかってしまうことだ。
 「映像の見せ方」という課題は、まだまだ技術的にやることが残っているのではないかと思う。



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