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FIVER FEVER

2006年03月15日 01時31分28秒 | 展覧会の紹介-写真
 若手(だと思う)5人による写真グループ展。それぞれ作風がまったく異なるのが、おもしろいところです。
 ただ、出品者の名前がローマ字表記なのがちょっと…。まあ、ぜんぜん本質的な話じゃないんだけど。

 manabu shibataさんは、18枚をすきまなくならべた「おいたち」と、モノクロームの「ブロマイド」2枚組み、おもちゃの兵士を被写体にした「RED&GREEN HOT CHILIES」2枚組み。
 「おいたち」は、水色の液体の中をピンクのゼリー状の物体が浮かんで泳ぐさまのようだけど、ほんとは何を撮っているのかはわからない。けど、そこがおもしろい。鮮烈な色の抽象画みたいで、ポップです。

 最近は女の子写真が多いtsuyoshi kawamataさん。今回は、「コスプレ予告編」3枚と、「女学生」5枚、「self-portrait」1枚の取り合わせ。「女学生」は、セーラー服姿の女の子を撮っていて、ヌードとかではないのだけれど、そこはかとないエロティシズムが漂います。とくに、スカートと手だけが写ってるショットとか。女の子のいちばんかわいらしい表情やしぐさを捉えようとするkenkさんの姿を想像するのだけれど、でも、粘着的ないやらしさや頽廃的な感じはないです。

 momoyo kimuraさんの「きのこちゃんな日々」は、極彩色のキノコを中心に、影絵やポップコーンやゼリービーンズやその他いろいろな小物を並べて、ポップではじけた、幻惑的な世界を作り出しています。キノコは、お菓子みたいに見えるし、木製のようでもあり、不思議ですねえ。「きのこの母です。」も1枚。

 naomi uemuraさん「BOBADILLA」は、わりと正統派の風景写真。地中海に近い街らしく、抜けるような青い空と、白い壁が印象にのこります。ただ、どっかの空き地に残された盛り土みたいなものにレンズを向けているあたりは、良い意味で普通ではない視線を感じました。「SELF」もあり。

 masatoshi nakaeさん「愛情生活」は、この中でも最も異色作といえるかもしれません。卵1個だけを写したサービス判プリント340枚をびっしりと並べた合間に、狭くて暗い台所や、こんろにかけられたなべ、グラスにあけられた卵の黄身-といった写真がはめ込まれているのです。とりたてて変わったものが写っているのではないのに、妙になまなましい生活の実感みたいなものがじわじわと湧いてきているのが感じられます。卵がならんでいると、なんだか壁紙みたいです。「セルフタイマー」もあり。

 こうやって眺めてくると、5人のほかの写真ももっと見たくなります。壁面を考えると、まあ適正な作品数なんですけどね。

 なお会場は喫茶店ですが、飲食スペースと展示スペースがきっちり分けられており、展示スペースはかなり広いです。
 珈琲もおいしいので(450円)、くつろげます。

 3月10日(金)-20日(月) 10:00-20:00
 宮田屋豊平店(豊平区平岸4の1 地図I)
地下鉄東豊線「豊平公園駅」徒歩2分
国道36号を走るバスの「豊平3条12丁目」徒歩6分


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7 コメント

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about naomi uemura (T.nakamura)
2006-03-15 22:42:28
naomi uemuraのブログ『PHOTOWISE』を少し覗いてみました。彼女は2004年にロンドンのアートスクールに留学をして、写真を専攻したようです。



「私が最近気になっている写真家にSTEPHEN SHOREがいる。」(2006年01月29日)→(http://www.billcharles.com/shore/stephenshore_1.htm





→スティーブン・ショアーの写真集(http://artphoto-site.com/story60.html





→アート写真関連の総合情報サイト (http://artphoto-site.com/index.html





ところで、この人はやないさんがリンク上に載せている写真家のnさん(『ものくろうむかふぇ』)だと思いますが。



とても素敵なセンスのある写真家ですね。
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ものくろうむかふぇ (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2006-03-15 23:36:17
nakamuraさん、そのとおりです。

ただし、「ものくろうむかふぇ」のほうはリンク切れになっています。英語日本語ちゃんぽんのめずらしいサイトだったんですけど。

いまのブログは日本語だけのようです。
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Unknown (ナカエ マサトシ)
2006-03-17 04:59:33
写真展にお越し頂きありがとうございます。

この写真展はnakamuraさんのご指摘通り、個性がバラバラでそれぞれが強いメンバ-5人です。

今回、初の写真展出展だったので、次回もしある時はさらに、皆が驚く様な作品を出したいと思います
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Unknown (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2006-03-17 11:17:38
ナカエさんはじめまして。

初の出展とは思えないですねえ。とてもユニークな作品だと思いました。なんか、妙な生々しさがある写真でした。

またサイト & ブログに遊びにきてください。
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感想 (T.nakamura)
2006-03-17 22:47:27
『photograph exhibition FIVER FEVER』を見に来たのである。ここで5人の若い写真家がそれぞれの自信作を持ち寄って競演している。



ギャラリーは喫茶店の奥に位置する、広さは10メートル×6メートル位の、照明をおとしている、ガランとした空間である。真ん中あたりに丸テーブルが置いてある。



開放されているドアの傍に記帳するための小さな机があり、その上にmanabu shibataの作品が立てかけてある。タイトルは「おいたち」である。縦60センチ×横80センチの額の中に、17.5×12.5のサイズのカラー写真が縦3枚横6枚合計18枚並んでいる。モチーフはどれも同じであって、ケミカルな赤い物質がその形状を刻々と変化させていて、そのケミカルな質感のある物質のかたまりの赤の色と変化しない背景のブルーの色との組み合わせの、18のヴァリエーションからなる。



テーマになっているのはたぶん無意識と意識の偶然な関係性(境界)であって、その瞬間瞬間の無定形な関係の偶然の現象を、無限に変化する赤のかたち(図)と不変のままの青の背景(地)という単純な構成に還元したうえで、それを表現しているのかも知れない。それらのヴァリエーション(部分)が一枚の平面状に集められ並べられた全体の印象は無である。それはこの人の写真表現のポジションを暗示している。



右の壁に沿って、時計回りと逆の順序で、展示している作品を見て行くと、tsuyoshi kawamataの、若い女性をモチーフにしたカラー作品が8枚ばかり並んでいる。すべて縦位置であって、サイズはどれも60×42である。額装はされてはいないが、じかにパネルに貼りつけてある。先ず、「コスプレ予告編」が3枚、その先に「女学生」が5枚。そして最後に1枚だけモノクロームの作品である「self-portrait」。



写真の撮り方が下手くそである。意図的に下手くそに撮っているのかも知れないが、ピンと来ない。コスプレの少女の姿から聴こえてくるのは無である。制服姿の少女(?)の顔の表情にも、制服のスカートの襞を押さえている右の手の指の表情にも、うつ伏せになっている腰の辺りから脹脛を経て靴を履いた足先までのラインの表情にも、聞こえてくるのは無である。



それは加藤美奈の「オーラーを感じる女性」のポートレートとは対極に位置するのではないか。写っているものが現在であり、人間の現在であり、存在の現在であり、その点では、写真はけっして嘘をつかないで、在りのままの現在を記録するわけであるから、これらも現在の人間の姿をとらえた写真表現であることには間違いない。間違いないが、首をひねる。



その次の、奥に位置する壁面には、momoyo kimuraのカラー作品「きのこちゃんな日々」が上下二段で8枚並んでいる。作品はすべて横位置であり、サイズは25×38センチである。どれも同じ大きさ(30×42)で額装されている。 そのシリーズの隣にはセルフポートレートが1枚、「きのこの母です」というタイトルである。



生のまんまのきのこ(マツタケとか椎茸とかぶなしめじとか)を写しているのでは全然ない。そのような生の現実がもっている生々しさ、禍々しさ、生き死にのリアルな触感とか匂いとかはこれらの表現世界からはきれいさっぱり払拭され消去されている。生の植物の「きのこ」の世界ではなく、キャラクターグッズである「きのこちゃん」の世界なのである。これらの世界は「きのこちゃんの母」であるmomoyoさんだけの仮想現実の世界(ネバーランド)なのであって、これはまさに「ピーターパン」の世界であり、「リカちゃん人形」の世界であり、その延長線上にあるもう一つの「ネバーランド」=「きのこちゃん」の世界なのだが、なぜ彼女はこのような世界をあえて表現しようとするのか。



これらの世界によって何かが回復されるからか?何かが再生されるからか?何かが蘇生されるからか?何かが癒されるからか?



究極の人工的な仮想現実の世界には痛みも苦しみも悲しみも臭いも何もかもが存在しないハッピーな夢のような世界なのであろうか。



すでにライフスタイルの「理想」のイメージとして志向されていると思われる「無菌の世界・無臭の世界・無痛の世界」・「無死の世界」・・・etc.etc.・・・すなわち、究極の無の世界を表現する(実現する)という意志がどういう訳か現在の無意識のひとつのかたちをつくっている。



momoyo kimuraのセルフポートレートの横に、ちょっと離れて、naomi uemuraのセルフポートレート「SELF」がある。そして三番目の最後の壁面につづく。naomi uemuraのカラー風景写真(「BOBADILLA」)が4枚横に並んでいる。スペインの小さな街角の太陽の光が燦々とふりそそぐ夏の日の風景である。サイズは40.5×51.5センチである。これは51×62センチの額のなかにおさめられている。



uemuraさんは2004年にロンドンのアートスクールに留学し、写真を専攻している。「BOBADILLA」はスペインの小さな町であって、彼女が旅行したときの、列車の乗換え駅である。その時の3時間ほどの待ち時間に撮った一期一会の写真たちである。



陽の光を浴びてかがやいている漆喰の(?)真っ白い壁からなる建物とそれが立っている白い砂が散らばっている大地とその上に永遠にひろがる蒼い空とがこの小さなスペインの街並みの骨格をなしている。その永遠の時間と空間の前に、有限の生き物にすぎない人間が生きている。洗濯物を干している年老いた婦人の握っている白いシーツや、停められている自動車の赤い色や、白い壁にくっきりと穿たれたガラス窓の枠の赤や緑やその他の原色の色などが眼を射る。



日本人の感性の眼がとらえたものの世界は非日本的な風景そのものの在りのままの姿と形と色彩である。それを見る私の眼にもそれらは遠い異国の風景としてとらえられる。その我と他とのあいだの眼には見えないが確実に存在する歴史的文化的距離感の大きさについて考えさせる。外国人としての私の眼に映るスペインの小さな町の風景があまりにも日本の見慣れた風景から離れすぎているがゆえに、日本人の私が無意識に呼吸しているもの(歴史的文化的時空間=現在)の輪郭をあらためて意識に呼び起こさせるのだ。



その次がmasatoshi nakaeの、見せ方がとても凝っていて、奇妙な感じのする大作品「愛情生活」が立てかけてある。その足元には、壁に凭れるように、セルフポートレート「セルフタイマー」が置いてある。「愛情生活」はとても大きな作品である。大きなパネル(縦175×横91センチ)が3枚も眼の前に横に並んでいる。そのパネルにカラー作品が6枚バラバラな位置に貼り付けてある。左のパネルに1枚、真ん中のパネルに3枚、右のパネルに2枚貼ってある。サイズは26×37.5センチであるが、1枚だけ、縦位置の写真である。それは真ん中のパネルの下部に位置している。



「愛情生活」の6枚の写真には日常の生活の台所の見慣れた光景の一断片が切り取られている。この切り取られた断片そのもの(ガラスコップのなかの卵の黄身と白身・ガスコンロの青白い炎・ステンレスのシンクの底の汚れ・蛍光灯の光に照らし出された赤と緑のカップと2本の歯ブラシ)に何か深い意味を見つけることはできない。無意味なものにカメラのレンズを向けるという点において表現上の意味が生れる。その真の意味はこのような日常の無意識の風景をあえて切り取るという方法意識の底の底にあると思う。



一番惹かれた写真作品は、蛍光灯の光を受けてぼんやりと浮き上がってくる何気ないシーンが写っているものであって、そのなかに存在する物たちをひとつひとつ確かめる様にして見つめているうちにしみじみとした感情が湧いてくるのに気づくのだ。



最後に、入り口の脇の作品「おいたち」とちょうど向かい合わせの位置に、同じ写真家であるmanabu shibataの2枚組みの作品「ブロマイド」(黒のモノクローム)と「RED & GREEN HOT CHILIES」(カラーのモノクローム)が横に並んでいる。2枚組みの写真のサイズは42×29.5センチで、60×84.5センチの額にきちんとおさまっている。



「RED & GREEN HOT CHILIES」は同じ形をしたミニチュアのプラスチックの兵士が無数に横たわっているのがモノトーンの色彩で写っている。実は何が写っているかは眼を近づけなければ判明しないほど不鮮明なのである。そのように不鮮明に見せるように画像が処理されている。そこに明確な意図が隠されているのであるがあえて不問に付す。その隣の「ブロマイド」はセルフポートレートと思われる顔の写真の2枚組はうって変わって克明に顔の表情が映し出されている。ただし、光線を処理しているため、顔の右側は翳ができていて見えない。しかし左の光を受けた表情はよく性格をあらわしている。



この隣り合っている作品は全然性格を異にする作品である。が、それをふたつ隣同士に並べたことの意図は確かにあるのだ。



それは最初の作品「おいたち」とセットにするとほんのりと見えてくる。無意識と意識(自意識)との関係性(境界線の在り処)こそ問題にしている。その点での自覚の深さにおいて、さらには表現方法の意識の徹底において、他の写真家よりも透徹しているという感じを私は持つ。



全体を通しての感想であるが、共通の問題意識は、「現在の無意識」のリアルと直観されるイメージを写真で表現しようとしている点に認められるであろう。そこには深い暗闇の眼がこちらを覗いている。



私たちは無意識に呼吸しているものの存在を写真で表現しようと試みる。無謀にも。しかしそこのこそ「写真の可能性」が存在することも間違いないのだ。
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わー(おどろきの声) (ねむいヤナイ@北海道美術ネット)
2006-03-17 23:24:31
nakamuraさん、長文どうもです。

なんだか、筆者の足らぬ部分(作品の大きさなど)を補っていただいているみたいで申し訳ないです。

で、ひとつだけ。

川真田さんは足立君と並ぶ天才ですよ。ただ、今回の写真は、あまりその片鱗が分かりづらいですが。
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瓜生さんの感想 (T.nakamura)
2006-03-18 00:23:30
瓜生さんのHPを覗いたら、この写真展についての適確なコメントが載っているので、お知らせします。



→(http://daysclip.livedoor.biz/
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