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山内壮夫(2)「島義勇」

2009年01月04日 21時49分33秒 | 街角と道端のアート
承前

 先に取り上げた「希望」は大通西1丁目だったが、おとなりの西2丁目附近は、山内壮夫の作品が3点も集中している。
 公園内の「春の母子像」、市役所ロビーの「島義勇像」、北陸銀行札幌支店屋上および入り口脇の2点組み「鶴の舞」である。

 島義勇(しまよしたけ)は、1822年生まれ。佐賀藩士。
 のちに佐藤一斎の門に入り、戊辰戦争にも従軍した。安政年間には当時の蝦夷と樺太をめぐっている。
 明治2年(1869年)、初代の北海道開拓使判官(はんがん。現地のトップ)として、当時は見渡すかぎりの原野と森林だった札幌の開拓に取り組む。

 島が銭函の地から上陸し、札幌をめざしたのは10月。
 当時は旧暦だから、いまの暦で11月である。九州生まれの島にとって、北海道の冬は想像を絶するきびしいものだったに違いない。
 これは、どこで読んだか思い出せないのだが、彼が持ち運んだ暖房器具は「火鉢」であったという。日本の冬の装備としては標準的かもしれないが、北海道ではほとんど役に立たない。
 彼は、1年の予算を3カ月で使い果たしてしまったという。

 山内壮夫の像は、島が札幌近傍の山に登って、手をかざして札幌(となるべき土地)を眺めつつ、これからどのように開拓の本拠地を築いていくか構想をあたためているところだろう。
 足元には、当時よんだとされる漢詩が刻まれている。島は、札幌がいつの日か五大陸一の大都市になる日を夢見ていた。

 なお、くだんの山は「円山」であるという説が強いが、実際に円山の頂上から札幌を見渡してみると、真正面に見えるのは南9条通であり、島がまちづくりの基準線にひいた南1条通ではない。大倉山か、三角山のほうがふさわしいのではないかと思える。

 この作品は、さっぽろ文庫「札幌の彫刻」によると、ブロンズ製で高さ2.5メートル。
 1971年作とあるので、新しい市庁舎が冬季オリンピックにあわせて完成したのと同時に設置されたものだろう。 





 しかし、わずか半年で判官を解任され、その後は明治天皇の侍従などを務めていたという。
 小学校の社会科では、その後の島がどうなったか、習わなかったが、明治7年、不平士族の反乱「佐賀の乱」をおこし、明治政府に鎮圧されて処刑された。
 佐賀といえば、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の文句で有名な「葉隠」である。
 九州男児、サムライとして、心になにか、わだかまりを持っていたのかもしれない。

 島より前に、将来の北海道の中心都市の図面を引いていた人はいない。
 志なかばだったとはいえ、現在の札幌の基礎を築いた人として、大友亀太郎とならんでけっしてわすれてはならない偉大な先人なのだろうと思う。




(この項続く)


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