バロックな話

バロック音楽/バッハとチェンバロ演奏、あるいは音楽のいびつな雑感

演奏すること

2008年03月23日 | 音楽

 楽器を使った演奏には基本的に手が欠かせない。音楽を奏でようとすると、手は他人の体にでもなったかのように、その制御には困難を極める。道具としての楽器が不完全なのだろうか。プロの演奏家は相当な訓練を欠かさない。職人技という言葉の通り、道具というものは最適化されてはいても、完璧なものは存在しない。道具は使いこなして初めて道具なのだ。人間の手でさえも、完璧なものではない。

 自分の心に描いた音楽を手を使って、楽器を使って、音にすることのもどかしさは素人にとっては特に感じていることだろう。不完全な手を使って不完全な楽器を操り、完璧な音楽を作ることなど不可能なことだとあきらめることは簡単だ。自分の心の中で理想の音楽を奏でればそれですむ。ではなぜ、楽器を使って演奏するのだろうか。現実の音がそんなに必要なのか。人に聞かせたいのか。共感が欲しいのか。何かを伝えたいのか。

 手を使って、耳で聞いて、心で感じて、音楽に溶け込むその瞬間が、演奏する意味だ。至極単純なことだ。これ以外の何も必要ない。

 チェンバロ(バロック音楽)は楽譜を見ながら演奏する習慣らしいが、果たしてそれが正しいか、そうあるべきかは、今後の時代の流れで変化してゆくものかも知れない。楽譜など見ずとも、歩くように、呼吸をするように、音楽を奏でることもひとつのスタイルではないか。楽譜の有無にこだわる理由など、あまり本質的ではないと思う。その進化系であるジャズには基本的に楽譜など存在しない。

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音楽を語る

2008年03月15日 | 音楽

 音楽と言葉は別もの。音楽の体験は個人的なもの。しかし人々は音楽を語ることをやめない。音楽を理解することは、それを言葉で理解することとは別次元か。そもそも音楽は理解するものなのか、感じるものなのか。きっと、どちらでも良いしどちらでも無くても良い。純粋な音のみを通じて伝わるものとは何だろう。語る演奏家もいるが、その言葉は私にはどうでもよい。

 音楽評論家なる人種がいるが、彼らの文章から音楽を感じたことは無い。私の想像力不足かも知れない。極端な話、知らない曲について語られても、誰だってまったく曲のイメージは出来ないだろう。それは自分の体験を言葉にすることのできる、特殊な能力なのかも知れない。逆に言えば、言葉にできる程度の希薄な音楽体験なのか。それとも無理やり作った言葉なのか。

 音楽体験を他人と共有しようという気持ちは多くの人が持つことだろう。これには言葉の使用が前提になるので、語らないわけにはゆかない。音楽を語る。それは永遠の課題だ。

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バッハの素顔?

2008年03月02日 | バッハ

 数日前の日経新聞の夕刊に、バッハの頭がい骨の複製から科学的に頭部を再現したバッハの顔画像が掲載されていた。最新の法医学技術を利用して再現したそうである。3月21日からドイツ・アイゼナッハの博物館「バッハの家」で樹脂像が公開されるという。

 一番有名なバッハの肖像画といえば、晩年の1747年にバッハがミツラー協会に入会する際に描かれたと言われている、エーリアス・ゴットリープ・ハウスマン作のものだろう。今回の復元された肖像はこの肖像画と比べて輪郭や目、鼻から口にかけての配置具合はそれなりに近いが、当然のことながら、晩年の芸術家の雰囲気までは伝わるものではない。科学的に再現したと言われるものは、いつもどこか無味乾燥としていて、伝わるものが弱い。

 没後250年以上を経てもなお、その容貌にまで関心が寄せられている人物に、あらためてその偉大さを感じた。

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