くらしのなかにアタマのカタマリ

真鶴と札幌と甲府のどこで老後を過ごそうか悩みながらブログを書くのである。

美人の湯、昼神温泉に行くの巻。その4

2012年09月05日 00時00分01秒 | 旅に出たり。
駒つなぎの桜をあとにして次の目的地に向かおうとしたのですが、途中で心惹かれるものを見かけてしまい、立ち寄りました。
それがこちら。



天台宗の開祖・最澄が開いたという信濃比叡・広拯院。
ここから美濃の方に行った神坂峠は、東山道一の難所だったそうです。
布教のために東国に下ろうとした最澄は、旅人の苦難を見かねて峠の信濃側に広拯院、美濃側に広済院という布施小屋を建てたのだとか。
その縁で、広拯院は「信濃比叡」の呼称を許されているのだそうです。

当時の広拯院跡だと伝わる月見堂。



月見堂のそばにはこんな碑も。



「日本武尊(ヤマトタケル)は東征の際、神坂峠の麓で鹿に姿を変えた魔物に襲われる。
噛んでいた蒜(ニンニク)を投げつけると、目に当たった鹿は死んでしまう。
その後、神坂峠に登ったヤマトタケルは、東の方を望み駿河湾で死んだ妻のことを思い出して『吾が妻よ』と嘆く。
このことから、この峠から東を「吾妻」と呼ぶようになった。(日本書紀)」

だいたいこんな感じですかね。
碓氷峠だったという話を聞いたことがあるように思うのですが、色々な場所にこういった話が残っているのかな。
世間は今、ちょっとした古事記ブームですが、今度図書館で日本書紀を読んでみよう。

それから、こんな碑も見つけました。



史上初の征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際にこの道を往復した、というもの。
坂上氏が後漢の霊帝の曾孫・阿智王の子孫だということも書いてありますが、Wikipediaによるとそのことを示す一次資料はないとのこと。
これもちゃんと調べてみないと分かりませんね。
でも、ここが阿智村だということを考えると、阿智村と阿智王、音にしか接点はありませんが、多少危うい説であっても記しておきたかったのかなという気がします。

本堂の方にも行ってみました。
お地蔵さんに出会うたびに挨拶をしながら登っていくと、大きな伝教大師(最澄)が!



個人的には、足下にずらった並んでいらっしゃる羅漢さんたちが気になるのですが…。


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あともう1回ぐらい続く。

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