まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

去勢された言葉が生み出す打たれ弱い社会では。

2007年12月06日 | 社会的全般
もう少し、「不細工」な表現を使ってもいいんじゃないかと、
そういう気がする事件が多い。
よく「車内でキレた中年男性が」など見出しで踊っているが、
なんだか、キレる、そういう事態が、
社会的に、良くは無いけど、一定の理解を示されているのはなぜだろう。

もっと、これをいわれてしまったら、恥ずかしくって申し訳ない、
そんな表現があってもいいんじゃないか。
例のストーカーという表現も、昔は単なる「変質者」で片付けられたが、
今でこそ、「不気味」「怖い」という感覚が、
自動的に喚起されるが、
当初は、結構、「新鮮」なイメージで語られることがあった。

犯罪者、罪を犯したもの、
ベースとして、「社会的・環境的」な要因を結びつける、
そういう「断罪」というか「免罪」を考える傾向は、否定するわけではないが、
犯したことにも、一分の「理」がある。
そういう考え方が、
なんだか、配慮する傾向に拍車をかけているようで、
これがまた、マスコミとか心理学者とか社会学の先生が、
いい表現を「見つけて」くるんだよね。

確かに、ストーカーという言葉。
これによって、このジャンルの「犯罪」には、
いくつかの「現象」があって、と、
それぞれが明確になったもんで、対応力があがったというのは明確。

これが変質者であれば、なんだか、ありとあらゆる境界がぼんやりとして
対応力が減じるのも理解できる。

そうとはいえ、最近の色々な言葉。
ちょっとデリカシーに欠ける言い方かもしれないが、
昔に比べて、きわどい言葉が、「地下」に潜り過ぎているような気がする。
あえて言ってしまうと、
ダークな言葉に、普段から「耐性」経験ができていない場合、
地下から噴出してきた「言葉」に、
ころっと、やられてしまう。

言葉は、簡単に言うと、最もベイシックな「武器」である。
最近は、携帯やらパソコンで、永遠と「残ってしまう」言葉が、
「無垢な」子供らを狂乱の渦に巻き込んでいて、
大人ですら、その新しい状況に「打つ手無し」。

振り向きざまに、「馬鹿やろう!」とか「OOOOXXXX」という完全放送禁止用語を
言ってしまっても、その場で消えるか、決着がつくんだが、
メールとかはそういうものでないだけに始末が悪いよね。
昔で言うと「お札」か?

まぁ、普段から、「やわらかい」「配慮を尽くした」言葉の世界で暮らしていると、
パワーのある、「地下に封印」された言葉は、
物凄い効果を生むってことにもなる。
文化的に向上するとか、文明的にどうか、なんて尺度はあろうが、
犯罪者にまで、結構、配慮の効いた、
そして「心理学的」に免罪符を、さも、与えてしまうかのような「表現」は、

こと、人間社会において、何かを、何かの能力を、何かの適応力を、
著しく「後退」させてしまう感じがする。

ちょっと大上段に振りかぶりすぎて、困った展開にしてしまったが、
言葉というのは、武器でもあるし、また、その武器を扱う人間の力量も、
ある意味図れる「道具」である。
そういう観点からすると、
色々な意味で、言葉が「集約」化されて、
案外、「規制」されてしまう社会というのは、
いい悪いは別にして、去勢され一見平和で紳士的だけど、
妙に「打たれ弱い」、貧弱な動物たちで溢れかえってしまうような、
そういう社会になってしまうようで、怖いんだけど。

ここで、いじめに関わる話を展開するのは、話が長くなるし無理だけど、
簡単に言うと、大人が、そういう言葉に、そもそも対応力が無い。
「そんな酷い」で終了。
もう、ここまで我々は、無力化されているのかもしれない。