まなびの途中

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学んだことを書いてまいります。

科学物の本。続けて読んでいます。

2006年07月18日 | 本・映画
「人体 失敗の進化史」 遠藤秀紀著 光文社新書

  ホモ・サピエンスの短い歴史に残されたのは、何度も消しゴムと修正液で描き
  換えられた、ぼろぼろになった設計図の山だ。その描き換えられた設計図の未
  来にはどういう運命が待っているのだろうか。引き続き、描き換えに描き換え
  を続けながら、私たちは進化を続けていくのだろうか。

このような説明にひかれて購入いたしました。
この地球の歴史の中で、針に糸を通すような、か細い命の道筋。
幾多も表れた、古代における生物。
様々なデザインを持っていました。
結果的に、人類への端緒を導いた「生物」が、あったからこそ、今、ここに
我々がいるわけです。

このように考えると、恐ろしいくらい、途方も無い道筋です。
そういう全てを盛り込んだ本が、先に紹介した「人類が知っていること全ての
短い歴史」という本でした。
とにかく、あらゆる表現がユーモアを交えて、秀逸でしたが、
すいません。この本の著作者の、表現方法。
僕は、馴染めませんでした。

なんか、大仰な表現。別にそのことをそこまで、だ、とか、である、みたいに
言い切ら無くても充分理解できるのに、どうもそう、表現される。
例えば、「主はいま、首をあの憎きハシブトガラスに食されながら、黄泉の国から
静かに私を見上げている」
なんて感じで、死んだタヌキについて語り始める。

ある種、講談調の乗り。
解剖学者として、昨今養老さんが群を抜いて、様々に顔を出されているが、
この本。タイトルは、すばらしい。
もう、自分なんて、わくわくしながら読み進めて行きましたが、
これまた、ごめんなさい。
確かに、内容的に、理解もできますし、なるほど、と思う部分もありましたが、
「失敗」だったんでしょうか?この人間の設計図?

といった印象にはならないんです。
むしろ、我々が持っている、この人体の設計図。
とても不思議?理に適っている?それよりも、こうなる必然があった?
失敗というより、驚異?みたいな感じの方が素直に取れてしまいます。

もともと「あごに」使われていた骨が、耳の骨の一部に持っていかれる様子は、
「ありもの」の骨やら器官を、モディファイしながら、別の用途に
使用していく、進化の不思議。
人間の内臓ですら、左右対称ではないのは、浮き袋みたいなものを、
陸肺用に転換するうちに、血液のポンプである、心臓のかねあいもあって、
どうやら「対称」にならなかった、という説明。

すごいな、進化って。とこう感じてしまうんですが。
鳥は、恐竜族の後輩。という説も、色々聞いてはおりましたが、
進化を、「設計図」という観点から読み込む作業は、
とても面白い発見でした。

他の本では、デザインという表現をよく見受けますが、
もっと言えば、遺伝子ですよね。
最終的には、その、あんなに「小さい」遺伝子。
これが書き込んでいる「設計図」の途方も無い世界に、驚嘆せざるを得ません。
長い時間の中で、どのような組み換えがおこり、「適用」が生じ、
あるものは、羽になり、鰭(ひれ)から手が、足が生じ、目が生まれ、
今、我々はここにいる。

この設計図は、もちろん最終形ではありません。
この先、我々の設計図から、どういう生物が「可能」なのか。
それとも、我々の「種」は終了なのか。
考えが尽きない話題でございます。