存在価値がわからなくて③
卒業後は幼稚園に勤めました。キリスト教の幼稚園が多かった中、わたしはクリスチャンでないのに子どもたちの前でお祈りできないと思い、キリスト教でない幼稚園に勤めました。
保育の現場では、毎日予想もつかないことが起こり、あたふたしていました。また、先生の中でいじめがあったり、心傷つくことがあって心身ともに疲れていました。
また、母とも折り合いが悪く、家に帰ると母が今日あったことを根掘り葉掘り聞くので、それが煩わしくてたまりませんでした。それで帰りに本屋さんで時間をつぶしたり、ひとりで外食をして、なるたけ遅く帰るようにしていました。
本屋で時間をつぶしていたとき、クリスチャン作家、三浦綾子の「あさっての風」という本が目に留まりました。坪井栄の童話で「明日の風」というのがあったので、童話だと思って買ったのです。幼稚園では毎日子どもたちにお話をしていました。
「あさっての風」は童話ではありませんでした。若い人向けのエッセイでした。惹かれて読んでいくうちにキリスト教のことが出てきましたが、違和感はありませんでした。むしろ、文章が自分の心に寄り添ってくれるので、親しみを感じました。
次に三浦綾子の小説を読んだとき、はっとして自分の間違えに気づきました。いままで、いつも自分は正しいと思っていました。
同僚と園長や先輩の悪口を言っていたのですが、もしかして自分の方が悪いのではないかと思えてきました。また、母を避けていましたが、もしかして母は寂しかったのかもしれない。わたしと話すのを楽しみに待っていたのかもしれないと思いました。
自分の罪に気づいて日毎に苦しくなり、このままではいけない。教会にいかなくてはという思いがつのってきました。
それで電話帳を調べて近くの教会へひとりで行きました。その日から約半年後のクリスマスに洗礼を受けました。二十二歳のときでした。
洗礼を受ける前に何の学びもなく、面接もありませんでした。クリスマスの前の週に牧師先生から「来週洗礼式があるから受けませんか」と言われて受けたのですが、実は意味がよくわかっていなかったのです。洗礼を受ければ聖(きよ)い心になって、罪を犯さない人になると誤解していました。ところが、洗礼を受けた後でも相変わらず罪を犯してしまう自分に失望しました。クリスチャンの先輩や牧師先生に相談すればよかったのですが、その勇気がなくて相談できず、受洗二年後に教会を離れてしまいました。
その後、結婚して子どもが与えられてから、埼玉の教会へ通うようになり、はじめて神様の愛、十字架の意味がわかりました。
神さまが自分のことをどんなに愛しておられるか、そのことがわかったとき、とび上がりたいほどうれしくなりました。ずっと抱いていたむなしさも、イエス様によって埋められました。
お話の中でこれまで「存在」という言葉を何度か出てきたと思いますが、わたしは劣等感が強く、存在価値のない人間だと思っていました。でも、それは間違えでした。
聖書には次のように書かれています。
イザヤ43:4
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
「わたし」というのは天地万物を作られた神様です。あなたというのはひとりひとりの人間です。ほかの人が何と言おうと、神様はあなたを高価で尊いと言ってくださり、愛していると言ってくださっています。
その愛は、ひとり子のイエス様を十字架につけていのちを差し出すほどの愛です。
どんな人間でも神様により造られました。だから、はかり知れないほどの価値があるのです。そして愛されているのです。そのことを忘れないで下さい。
おわり
礼拝の後、各グループで次の3つのことについて話し合いました。
・感想や質問はありますか?
・劣等感、または優越感を抱いている人はいますか?
・存在価値について考えたことがありますか? 自分の存在価値はどれくらいだと思いますか?
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卒業後は幼稚園に勤めました。キリスト教の幼稚園が多かった中、わたしはクリスチャンでないのに子どもたちの前でお祈りできないと思い、キリスト教でない幼稚園に勤めました。
保育の現場では、毎日予想もつかないことが起こり、あたふたしていました。また、先生の中でいじめがあったり、心傷つくことがあって心身ともに疲れていました。
また、母とも折り合いが悪く、家に帰ると母が今日あったことを根掘り葉掘り聞くので、それが煩わしくてたまりませんでした。それで帰りに本屋さんで時間をつぶしたり、ひとりで外食をして、なるたけ遅く帰るようにしていました。
本屋で時間をつぶしていたとき、クリスチャン作家、三浦綾子の「あさっての風」という本が目に留まりました。坪井栄の童話で「明日の風」というのがあったので、童話だと思って買ったのです。幼稚園では毎日子どもたちにお話をしていました。
「あさっての風」は童話ではありませんでした。若い人向けのエッセイでした。惹かれて読んでいくうちにキリスト教のことが出てきましたが、違和感はありませんでした。むしろ、文章が自分の心に寄り添ってくれるので、親しみを感じました。
次に三浦綾子の小説を読んだとき、はっとして自分の間違えに気づきました。いままで、いつも自分は正しいと思っていました。
同僚と園長や先輩の悪口を言っていたのですが、もしかして自分の方が悪いのではないかと思えてきました。また、母を避けていましたが、もしかして母は寂しかったのかもしれない。わたしと話すのを楽しみに待っていたのかもしれないと思いました。
自分の罪に気づいて日毎に苦しくなり、このままではいけない。教会にいかなくてはという思いがつのってきました。
それで電話帳を調べて近くの教会へひとりで行きました。その日から約半年後のクリスマスに洗礼を受けました。二十二歳のときでした。
洗礼を受ける前に何の学びもなく、面接もありませんでした。クリスマスの前の週に牧師先生から「来週洗礼式があるから受けませんか」と言われて受けたのですが、実は意味がよくわかっていなかったのです。洗礼を受ければ聖(きよ)い心になって、罪を犯さない人になると誤解していました。ところが、洗礼を受けた後でも相変わらず罪を犯してしまう自分に失望しました。クリスチャンの先輩や牧師先生に相談すればよかったのですが、その勇気がなくて相談できず、受洗二年後に教会を離れてしまいました。
その後、結婚して子どもが与えられてから、埼玉の教会へ通うようになり、はじめて神様の愛、十字架の意味がわかりました。
神さまが自分のことをどんなに愛しておられるか、そのことがわかったとき、とび上がりたいほどうれしくなりました。ずっと抱いていたむなしさも、イエス様によって埋められました。
お話の中でこれまで「存在」という言葉を何度か出てきたと思いますが、わたしは劣等感が強く、存在価値のない人間だと思っていました。でも、それは間違えでした。
聖書には次のように書かれています。
イザヤ43:4
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
「わたし」というのは天地万物を作られた神様です。あなたというのはひとりひとりの人間です。ほかの人が何と言おうと、神様はあなたを高価で尊いと言ってくださり、愛していると言ってくださっています。
その愛は、ひとり子のイエス様を十字架につけていのちを差し出すほどの愛です。
どんな人間でも神様により造られました。だから、はかり知れないほどの価値があるのです。そして愛されているのです。そのことを忘れないで下さい。
おわり
礼拝の後、各グループで次の3つのことについて話し合いました。
・感想や質問はありますか?
・劣等感、または優越感を抱いている人はいますか?
・存在価値について考えたことがありますか? 自分の存在価値はどれくらいだと思いますか?
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そう思ってわざわざキリスト教でない幼稚園に就職された土筆さんが、いろんなことがあって、とうとうイエス様に捉えられてしまいます。まるで神様の命令に逆らって逃げ回っていたヨナにそっくりだ、などと思いながら、楽しく読ませていただきました。
ほんとうにヨナそっくりです。遠回りしましたが、
最初から神様に導かれていたのだなあと思っています。
素朴な疑問なのですがよろしいでしょうか。
二人の作家の片方に敬称がついている理由が
わかりません。ご教示いただけると幸いです。
皆様のご自愛をお祈りしています。
ご指摘のおとり、三浦綾子には「さん」をつけ、坪井栄には「さん」をつけていませんでした。
統一した方がいいと思いました。
作家名なので「さん」は省いて書き直します。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」
☆~★~☆~★ ~☆
素晴らしいお証しをありがとうございました。
神のなさることは人知をはるかに超えた御業ですね。
背後におられる神様の導きを感じながら書きました。
人知をはるかに超えたみ業をなさる神様に感謝!