花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

加茂井の覚え書き

2013年02月25日 | 徘徊情報・摂津国
 エッヘン!本日は、池田文庫(トップの写真)でお勉強であります。小生の徘徊などは、そんなに上等なものではありませんが、あちこちをうろうろすることをフィールドワークとすれば、たまにはデスクワークであれこれと調べねばならぬ。このところ、兵庫県川西市の加茂井(かもゆ)について、知りたいことも多くなっていますので、図書館で調べてみようと思います。
 本来ならば、川西市の図書館に行くべきところ、そこはそれ、先ずはたこ焼きの修行であります。ここに一番近いのが池田文庫なのであります。


これが


こうなる

 前の席で、たこ焼きを焼いている2人連れのおっさん、「毎日毎日がはよ終われへんかなあちゅう人生や、いいことなんか何にもないわぁ。」等となかなかに危ない会話をしております。こんなウマイものを前にして、なんちゅうことを言うねんと思います。

 たこ焼きの後は、ウロウロせずに真っ直ぐに池田文庫へ。考えてみれば、この図書館、ここ最近はシラフで入ったことがありません。逸翁・小林一三氏は燈籠にも並々ならぬ関心を持ち、各地の有名なもののレプリカを多く作らせたようでもあります。



 この図書館は、まあ阪急グループの「厚意」で成り立っている図書館です。けれども、職員の人の応対は丁寧を極め、下に述べますように何よりも「使える」良い図書館です。そして、嬉しいことに大抵は空いている。

 本日も『川西市史』第3巻の閲覧をお願いしたところ、「何度も受付に来られるのは面倒でしょうから。」と全巻をドーンと書庫から出して下さいました。また、参考になればと『川辺郡誌』も付けて下さいました。けれども、これに関しては小生の方がチョンボをやりました。伊丹廃寺に関する藤原不比等と行基の説話は、これに載っているにも関わらず、その部分を読まずに図書館を出てしまいました。まあその時はすっかり忘れていたのですが。



 市史によると加茂井は承応3年(1654)に加茂村が井堰を造り新溝を掘ったもので、「加茂井」の名の由来はこれに拠るものと思われます。加茂村を井親[管理権利者]とし、久代村が井子親[使用者側の代表か?]で、その用水を使用させてもらう「井子」として、北村・伊丹・北少賂・昆陽口・北中少路・南中少路・円少路・外城・新野田 古野田・植松・上外崎の各村が名を連ねています。各村は勿論使用料を出すし、毎年、加茂村に挨拶も欠かさなかったようです。
 あれあれ?小戸や小花は?と思いましたが、これは後で謎が解けました。加茂井はあくまで加茂以南の村々に水を送る用水路で小戸・小花・寺畑・栄根はその通路に過ぎぬのであります。勿論、これが通っている以上は何らかの恩恵がこの4ヶ村にももたらされたのは当然ですが、小戸村以下の取水について加茂村があれやこれやとやかましいことをいうのは、こういう事情があったからで、極めて当然のことであった訳です。
 調べていて、「アリャー」と思いました。このところの加茂井の徘徊は伊丹まで行って満足しておったのですが、これは果てもなく広がるぞー、伊丹から向こうはどうやって確認しよう、なかなか厄介だというところです。師匠に教えてもらった「昆陽井」等もひょっとしたら加茂井の一部分かも知れません。まあ、けれども徘徊の良い口実が出来ました。また、以前の記事で加茂井の恩恵に浴する村の数が19ヶ村とあるのを「多すぎる」と文句をたれたのですが、これは正しい数字でした。
 以前に記した杣家文書(市史には杣家の記載は無い)も資料編に載っていましたので、ちょっと読みやすい形にして以下に載せておきます。「候」を「そうろう」等にする必要は別段無かったように思われますが、まあ親切ということで(笑)。ただ小生は近世のこういう文書については殆ど無知でありますから、ここはこう読めというご意見がありましたら教えていただければ嬉しいです。


小戸 寺畑 小花 栄根

取り交わすための申し済まし状の事

一、今度摂州川辺郡加茂井組拾五ヶ村と小部(小戸)庄四ヶ村水論之儀、御郡代様に於いて御倹儀の上、御検使金丸又左衛門様御手代山中金左衛門殿と長谷川六兵衛様御手代蔦山政右衛門殿遣わさるの旨仰せ渡され、右御両所にて段々御吟味の上、双方互いに和談仕りそうろう趣のこと。

一、加茂井路筋より小部庄内、小戸村、小花村、寺畑村、栄根村四ヶ村田畑へ養水(用水)取り申しそうろう井口拾弐ヶ所のうち、壱ヶ所はにかい(二回?)弐挺(二町?)畑方へ取り来たりそうろう。残り拾壱ヶ所は田方八拾壱石余へ養水引き取りそうろう儀出入りに罷り成りそうろうところ、今度互いに和談の上、宮の西、せうかこし、西の内、この三つ字にこれ有る四ヶ所の井口はこの度これを潰し、七ヶ所のうち、字満願寺通り四寸四方樋壱ヶ所は古来の通りにて指し置き、字庄田の口四寸四方樋壱ヶ所、宮前七寸四方樋壱ヶ所、せうがこし弐寸に三寸樋壱ヶ所、この三ヶ所は向後樋伏水取り申すべくそうろう。巡礼道、石橋、この両方の溝、ならびに栄根村の内溝壱ヶ所、この三ヶ所は有り来る溝にて指し置き申す筈に相極め申しそうろう事。 

一、 右七ヶ所のうち、巡礼道、石橋両方への溝へ水乗らざる節は壱、弐人持つほどの石六つ七つ程にて関し、水入り廻り仕りそうろうは、関石取り上げ申すべくそうろう。尤も、むしろ、こも、土俵、芝にて関し申さざる筈に相極めそうろう事。

 すなわち、この証文の通り、相認め、連判致し、御郡代様へ差し上げ申しそうろう。しかる上は、定めの通り、きっと相守り、新規の儀曽而(訴に?)仕るまじくそうろう。後々申し分これ無きために連判、取り替えを為すの状、よって件の如し。

元禄九年子の六月十三日

摂州川辺郡小部庄庄屋 伊左衛門殿 同 甚兵衛殿 小花村庄屋 五兵衛殿 

寺畑村庄屋 市右衛門殿 栄根村庄屋 市右衛門殿

摂州川辺郡加茂村庄屋 七右衛門 同 前右衛門 同 平左衛門

久代村庄屋 庄兵衛 大路四ヶ村庄屋 勘兵衛 同 治左衛門

伊丹九ヶ村之内町分 庄屋 兵五郎 円少路村庄屋 与一兵衛

植松村年寄 又兵衛 北少路村年寄 三郎右衛門 小屋口村庄屋 長兵衛

中少路村庄屋 久左衛門 外城村庄屋 三郎右衛門 

野田村庄屋 七郎右衛門 外崎村庄屋 介左衛門


 代官の上の郡代に差し出したとありますから、ことは大きいですね。この和解書ができるまでは、何度も血を見た案件ですから、これはかなりの重要事項であったわけです。江戸期の代官というのは世間的に知れ渡っているイメージとは異なるかも知れませんが、下級役人です。その手代は現地採用の者が多く、農家の次男や三男なども少し文字を知る者はよく雇われました。けれども手代になれば苗字帯刀も許されます。もしかしたらここに出ている庄屋さんの中に手代のお父さんがいるかも知れませんが、相手が手代となると○○様ということになります。
 この辺りは概ね幕府直轄地の天領でしたが、大阪城代のいわば役職手当として大名領に組み込まれることもあったようです。代官の駐留地は「伊丹」と見ているのですが、さあどうでしょう。ひょっとしたらずばり「大坂」かも知れません。
 また、文中に満願寺村と出ていますが、これは現在の満願寺のあるところとはちょっと考えられません。加茂井の流れの近くに満願寺の領地があったのか、その為に現在も満願寺のあるところだけが宝塚市ではなくて川西市の飛び地になっているのか等と新たな疑問も浮かんできます。
 考えてみれば、満願寺が川西市の飛び地になっていることは昔から知っていましたが、「なぜ?」ということは考えたこともありませんでした。チャリ毛のあたりを汗がタラーと落ちる思いです。うー、もっと若いころに「あれ?」とか「なぜ?」とかいう感性を持っていたら、もう今頃は…とも思いますが、まあ今からでも何やかやと得体の知れぬ事を考えていきましょう。

 あれこれ調べていて、「おお!」と思ったのが「小戸井」の存在です。成程、小戸村には既に猪名川から水を引く用水路が既に存在していたのか、それで加茂井に関しては井親となる必要も無かったのだということが分かりました。その取水口が出在家といわれるところ辺りにあると知りました。
 となると、日没まで後1時間半、かつかつ間に合いそうということで、デスクワークはここで終了。早速に小戸井の取水口を確認に行きます。ここで慌てたために川辺郡誌の伊丹廃寺に関連したところを読み落としたのであります。まあ、小戸神社に関して喜八大明神の記載は無かったということを土産としておきます。

 猪名川沿いに北上します。途中で絹延橋うどん研究所の前を通りましたが、勿論閉まっています。午後2時半で終了て、ええ身分やなあ。ああ、ここでうどんが食べられる日が果たして来るのでありましょうか。まあ、毎日9時過ぎまで寝ている小生にはそれを攻める資格は無いかも知れませんが。店の前を通り越し、加茂井の取水口の近くには何やら機器が。



 市史には小戸井の取水口は出在家と記してありましたが、対岸に余野川の河口が見えるところまで来ても、それらしきものはありません。


向こうの山は明田尾山

 滝山付近に来て、初めてそれらしい流れがありました。この流れはこの地点から暗渠になって下流に流れていきます。上流へは地上を流れています。


これをA地点と名付く

 しばらく上流へと流れを追うと、西から流れてくる川にぶつかりました。A地点からはほんの10メートルぐらいでしょうか。以前ですと探索もここで終了していたでしょうが、このごろはなかなかに目も肥えていますから、この川の下を用水が通っていることはすぐに分かりました。



 「ラッキー、用水の横を歩けるやんけ。」しかしながら、これは程なく行き止まりとなりました。



 しばらく能勢電の線路にそった道路(篠山街道)沿いに進み、川に近づける道を探します。川に入る細い道は全部入って調べました。先ほど川の下をくぐった用水は今度は別の用水の上を通っています。




この道も行き止まり

 もはや能勢電車の鶯の森駅もすぐ近くというところで、ようやく取水口に辿り着きました。なるほど、鶯の森の井堰はこの為のものであったのか。何度も見た景色ですが、初めて知ることばかりです。ここも出在家なのかなあ。皷滝の地峡部を越えれば「多田」であることは確かなのですが。





 今回のこの取水口が「小戸井」のものであるかどうかは不明ですが、加茂井の取水口からここまでに他に取水口が見あたらなかったのは事実です。また、よほどに大規模な工事がない限り、取水口以下を完全に破壊してしまうということも無いと思われますから、一応はこれを小戸井としておきます。

 大急ぎでA地点に戻りました。今度はこの暗渠からどこに水が流れ出ているかです。これは能勢電車の線路の側ですぐに見つかりました。何か水がきれいです。用水はここから能勢電の線路の下を通り、川西北小学校の東辺を南に流れていきます。このままだと何か火打村の方の灌漑用水という感じですが、今にして思えば、この用水も何処かで分岐していて、例えば昔見た美園町辺りの井路は小戸井だったのだと勝手に納得しました。



 けれども、ここで日没による没収試合と相成りました。夕方の暗さの中で釣鐘山の空堂が白く浮かんで見え「おまえなあ、ほんまに暇やのー」という声が聞こえてくるようでした。たまに図書館で勉強するというのは、なかなかにいいものだし、ただやみくもに歩いてばかりだけいては、やはり分からぬところはあるということもよく分かりました。それから酒を飲んで図書館で調べものが出来る時間は2時間が限度であることも(笑)。差し当たり『川辺郡誌』はじっくりと読まねばなりません。

 この後、知り合いの中華料理店に行って、ポテトと日本酒というのをやろうと思いました(店にとっては迷惑至極)が、店は閉まっていました。そこで仕上げは「会津屋」でたこ焼きとビールです(写真はおまへん)。たこ焼きの元となった「ラヂオ焼」を始めた店です。「えっ!この時間から会津屋て、座られへんやろ。」というグルマン達の声も聞こえてきそうですが、とっころが座れる店もあるんやなあ。しかも隣で讃岐うどんが食える。この店が無くならんうちにせっせと通おう。けどここのたこ焼きはとにかく小さい、36個ぐらい食わないと酒は進みまへん。



6 コメント

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良いパターンで、本気土が伺えます (mfujino)
2013-02-26 08:29:33
gunkanatagoさん、お~格好いいっすねえ~^_^ 暇つぶしのおっちゃんとは偉い違いでございます。先日かの都知事猪瀬さんが、本を読まんとあかん、というツウィートをされていたのでリツウィートしたのですが、これは確かに説得力があります。

フィールドワークとデスクワークというか資料にあたり先人の研究成果も謙虚に学び、再びフィールドに出て検証、新たな仮説やら疑問を持ってまた資料にあたる、という繰り返しではないでしょうか。エッヘンではなく、エヘンエヘンと自慢して啓蒙して下さい。

さてそうして勉強したことの成果ですけど、どうもそれを他の関心ある人にシェアしようとしなくて自己満足に終わっている人も多いのではないでしょうかと私は思っています。我が高校の同級生と同窓会で久しぶりに合った時、美山の川勝氏のことを研究していると言ってましたので、まとめたもの見してよ、といったらそんなもん無いとの返事です。かなり詳しい年表は作っていたようですが… たこ焼相手に愚痴っている人に比べたら素晴らしい人生を送っていて尊敬するのですが、自分の研究成果は人様と共有する努力もしたら、と言ったのですがどうもその気を感じ取れませんでした。

gunkanatagoさんの様にブログに載せるも良し、なにかレポート風にまとめたものを残しておくとか、人様に読んでいただく形にしておくのは大切なことではないかと思うのです。あ、分かったと思っていても、いざ書き出したら、大変、事実確認や出所の確認、論理のチグハグさに気づいてあれれ俺わかってたんやろうかと思うことも多々あり、大変な作業ではあるのですが、書く、書いてまとめてみるということは研究を深める上に大切なステップですね。

我が経験では、ブログにちょっとした記事を書くだけでも正直大変な作業を要しますが、その苦労を知っているだけに、gunkanatagoさんはこれだけの文章をサラサラと書かれている(と、思っているのですが・・・)基礎知識なども含めていつも尊敬しています。

加茂井に更に拘って下さい。楽しみにしています。
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ありがとうございます。 (gunkanatago)
2013-02-26 14:57:33
 mfujino様、コメントをありがとうございます。またまたお褒めの言葉をいただき恐縮です。mfujino様のように、調べた結果を読んで下さり褒めてくださる人がおられるというのは本当に励みになります。解らないことや、不明なことを知って自分で満足することから始まるのですが、やはり知識は色々な人と共有するほうが、こちらの気づかぬことなどもご教示頂けて良いと思います。
 そういう点で、川勝氏の勉強をされている方はもったいないですね。宇津氏との関係なども含めて小生もものすごく興味があります。そう、たこ焼き相手に愚痴を言っているおっさんに比べたら素晴らしいことをされているのですから、その成果を知りたいですね。
 小戸井、今現在は全く正体不明です。小戸の民家から加茂井に関する文書は発見されたのに、小戸井に関しては出てきていないようです。鶯の森の堰の改修がいつなされたのか解りませんが、その時点で小戸井への導水部も残されたのですから、その役目を人々が意識していたということになると思うのですが。
 それでも、一連のことで、普段は意識しない小さな流れでも何かの意味があるのだということはよく解りました。考えてみたら、そういうものが自然にできたものでは無いことは明らかなのに、今までは「ここにこの流れがある意味」とかそういうことは全く考えていませんでした。
 これからは雨の日は徘徊は控え目にして成る可く図書館等に籠もろうかなと考えています。
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忘れていた図書館の香。 (道草)
2013-02-28 12:04:40
「エッヘン!」は、インフルエンザに罹られた咳ではなかったのですネ。よかったです。それにしましても、さすがに学級の徒の面目躍如ではないですか。幾つになっても研鑽を怠らない姿勢には、ただ感服するばかりです。
やはり、T先生のご薫陶の賜物でしょうか。「飲む打つ買う学ぶ」の4拍子揃った生徒だった姿が目に浮かびます。今回はたこ焼きからスタートですから、「食う」も加わって5拍子の揃い踏みですか。

それもそうとして、私は図書館などへもう何十年も足を向けたことがありません。大昔の学生時代の試験勉強以来この方ご無沙汰かも知れません。
京都では、70歳以上は敬老乗車証が賜与(!)されて、地下鉄や市バスが無料ですから、岡崎の図書館へでも行ったら!と家内に言われている昨今ですが・・・。
それにしましても、池田文庫はかり特色のある図書館なのでしょう。鎌倉文庫と言うのがありますが、
また異なる特色があるのでしょうか。歴史で習った記憶はありますが。

「川西市史」も立派な編纂ですけど、私も「京北町誌」「京北50年誌」「故郷逍遥」・・・その他色々な史書を友人知人から貰って手元に置いているものの、何かの参考に見る程度で、通しては中々読破は出来ません。
さすがにguさんは、様々な史書を読み解いて居られる様で感嘆するばかりです。余談もですが、大抵の古本屋には、各地の編纂誌が山積みになっているのを見掛けます。誰かが売るのでしようけど、犯人は一体どんな奴らなのでしょう。

それにしましても、いつもながら充実した徘徊録を堪能させて頂きました。門外漢の私など、右から左で申し訳ありませんが、こうした機会にしかこの分野には触れられませんので、浅薄な点はご容赦ください。
最後も締めくくりが出来て何よりでした。「ラヂオ焼き」とは、いつか教えてもらつた気がするのですが・・・。
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祝杯! (ささ舟)
2013-02-28 12:30:59
池田文庫は、mfuino さんの愛車レガシーにのせて頂いて池田を散策したとき、五月山の手前にあった木蓮をはじめ数々のお花が咲いていたところだったかしら?もしかしたらあそこは池田城址だったかな?何かごっちゃになっていますけど・・・。
今回は徘徊後の宿題のお勉強でしたか、それにしましても加茂井の水路を私も一緒させていただいた様な錯覚が出てきました。「あれ?どこ行くの?」小走りに、また覗き込んで・・・てな具合に楽しませていただきました。
「緑一」で祝杯をあげたい気持ちで一杯です。

主は娘があの大学に行った時、よし「武庫川の源流を見てくるわ」と河口からテクテク数回に分けて歩いたようです。


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是非図書館へ。 (gunkanatago)
2013-02-28 15:01:06
 道草様、コメントをありがとうございます。小生も長い間図書館とは無縁でした。池田文庫はたこ焼きとの関係で、その間も何回か利用し、茂木草介の『けったいな人々』を読んだりはしましたが、その他の図書館は全く足を運びませんでした。このところ、マメに足を運ぶようになりましたが、きちんと座って読むと読書がはかどることを改めて発見しました(笑)。家ではどんなに難しい本でも寝っ転がって読んでいましたから。
 道草様も奥様が勧められるように、岡崎の図書館に行っていただき、2時間ぐらいに外に出て徘徊するというのはどうでしょうか。あの辺りだと行くところはいっぱいありますね。
 もう少し池田文庫の話をさせていただくと、小生は全くの門外漢ですが、その性格から「宝塚」関係の資料と江戸時代の役者の錦絵関係の資料が充実しているようです。それ以外でも、アレ!と思うような書籍も大抵は見つかります。ウー、もう少し近ければ毎日来て勉強するのに(笑・ウソ)。
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武庫川 (gunkanatago)
2013-02-28 15:17:30
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。そうですね、池田文庫と池田城祉はすぐ近くです。坂を登っていくと先ず池田文庫、さらに登ると池田城祉、今では間に逸翁美術館が建っています。池田、第2弾もいいかも知れませんね。絹延橋うどん研究所を起点に巡礼道を歩いて石橋辺りから十二神社と弁慶の井戸、あれ?それだとアルコールタイムに苦労しますね。
 「武庫川の源流を見てくるわ」とのお言葉、かっこいいです。実は、このところ宝塚以北の武庫川沿岸に伝わる伝承にも興味を持っています。宝塚~三田間は随分と変わりましたが、竜宮に通じる道があったとか、渕の主が老夫婦の子供となって居た話とか白馬の首を切ってその血で神聖な岩を汚し、怒った神様が雨を降らせて岩を洗う=目論見通り雨が降るという雨乞いの話とか、なかなか面白そうです。
 源流を求めて、またものすごい距離を歩かれたのでしょうね。
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