どこかのだれかがだらだらと

ゲーム(主にセブンスパイラル)やら様々なネタについてだらだらと綴る、暇人向けブログ。

ひぐらしアニメ版について1

2006-05-02 00:14:30 | アニメ

いつの間にか5月になってしまいました。もはや三日坊主的挙動の当ブログです。
今日は恐ろしく暑い日でした。そういえば、ひぐらしの舞台は6月でしたね。
現実にあんな暑さの日がある、そんな事を実感した月の始まりでした。

さて、ひぐらしのなく頃にアニメ版は鬼隠し編まで放映が終了した訳ですが、私としてはどうも不満の残る内容でした。
どこに不満を感じるのか?キャラデザ?カットされた部分?作画?音楽?

いえ、視点に対するものが最も強いです。
以下ネタバレを含みます。



『ひぐらしのなく頃に』は、登場人物の一人を通して物語を眺めさせる事で、相手が何を考えているのか分からない恐怖から、追いつめられていく登場人物の心情を共感できるように書かれていると私は考えています。

ですが、アニメというメディアを使う以上、客観的な視点を取らざるをえなくなり、それが『ひぐらし』の骨となる部分を取り去ってしまっているのです。

例えば、レナが一度豹変した後のレナや魅音とのシーン。
あれらのシーンで重要なのは、レナや魅音が豹変し、いかにも圭一を脅かしているかのように圭一には『見える』点なのです。これはストーリーの上でも重要な事ですが、表現の上でも非常に重要です。
原作では、喋り方が『文字の上で』多少変わる点、そして目の色が変わる点が通常との違いでしたが、アニメになって表現できる事が増えた分、喋り方、表情、何もかもが普通とは違うように描かれていました。いくら圭一が人間不信になっているとはいえ、そこまで違ってしまうとかえって違和感があります。具体的に描く事で、想像の余地を狭め、かえって狭いところで落ち着いてしまう事があるのではないでしょうか。
これでは、いくらレナが叫んでも、魅音が凄んでも、圭一の感じた恐怖に共感する事は難しいでしょう。
しかも、カメラという客観的な視点を取るため、圭一にそう見えているのか、それとも本当にそうなのかの区別が曖昧になってしまっています。客観的な視点が小説の地の文にあたるなら、ぶっちゃけアンフェアです。
他にも、おはぎに針が入っているのをはっきり描いてしまったりとか。

あー、なんか書いてるうちによくわかんなくなってきました。休憩。
マンガでも視点は客観なのはやっぱりどうしようもない事でしょうか。
主観視点のマンガとかただの実験作品ですしね。

前半のぬるいシーンをかなり削ったのも痛いです。
あのぬるい日常があるからこそ、変化してしまった時に恐怖を感じるのです。
何が起きるのか気をつけているうちに崖から落ちるよりも、気にしなくなってから落ちた方が驚くに決まっています。まぁ、尺が短いから仕方ないのでしょうが。

長くなってわけわからなくしまったので無理矢理まとめ。
『ひぐらし(鬼隠し編)』が面白いのは、前半ぬるいシーンがだらだらと続き、すっかり油断したところでレナが切れ、圭一と視点を同じくする、というより圭一というフィルターを通して物語を眺望する読み手は圭一の感じる混乱の中に引きずり込まれてしまうからで、アニメは以上の理由などによりそれに失敗したように私は感じました。以上。

それにしても何か意見を書こうとするととたんに言葉が出てこなくなるなぁ。ボキャブラリーの少なさに反省。


そういえば、録画したのを消してしまったので確認できないのですが、白いワゴン車が登場する前に圭一がメモに『白いワゴン車を所有』って書いてませんでしたか?
あれが見間違いでなければけっこう致命的な気が・・・。

コメント
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