
◆江戸っ子の意外過ぎる古着リサイクル~~◆
江戸の居住区は江戸城を中心に、
すました白壁の土塀に厳めしい大門、なのに妙に警備が手薄な武家屋敷。
それ以外は、
ズラーーーと並ぶコオロギ色の鍵のない長屋の風景。。
多くの江戸っ子は押入れのない狭い長屋で暮らすため、部屋には物を置かない。
彼らの大事な物と云えば、布団・蚊帳くらい。。
それらを質屋に預け、シーズン毎に質屋に入れたり出したり。
質屋をトランクルームのように上手く使っていた。
当時の三大都市は
<大阪の食いたをれ><京の着たをれ><江戸の呑んたをれ>と称された。
江戸っ子は清潔で垢ぬけ、お洒落上級者。
身に付ける小物には大層凝った。
男衆なら 腰周りに下げる煙草入れがステイタスを表した。
とても凝っていて陶器・漆・琥珀・珊瑚が素材で、
オーダーメイドの彫刻が施されている。
↓煙草入れを見て、男が如何ほどの者か。。を値踏みした。

女なら簪で、鼈甲や銀・ビードロ・珊瑚で作る。
高価な為、夜逃げや不測の事態の時これを売ったりした。
↓吉原の花魁が挿した簪は家一軒分の価値があったと云われているほど。

粋でオシャレで清潔がモットーの江戸っ子庶民が、なぜか着物は全て古着だった。
だが、これはごく当たり前のことで、
新しい着物を着るのは武家屋敷の者か裕福な商人だけ。。
実は新しい着物を着たくとも着れない背景があった。
↓冬の風景
何枚も着物を重ね着し、結構な重さだった。
それでも女たちは踵の美しさを魅せるため、下駄に素足を好んだという。

◆革命児 越後屋の三井高利 定価と切り売りと薄利多売!!◆
その背景に<高値>というのがある
当時は一反の生地を買い、着物に仕立てる。
しかも着物は訪問販売で、定価はなく商人と顧客の駆け引きで値段を決めた。
お代はツケで、年二回の支払いというシステム。
武家屋敷や富裕層のみが顧客という特殊な商い。
そのため、江戸っ子は古着屋で着物を買うのが一般的だった。
だが、そこに目を向けたのが越後屋/三井高利。
誰でも反物が手に取れるように、店で売り始めた。
しかも見に来たお客にお茶を出し、ゆっくり見てもらう。
新品の反物でも、用途によって<切り売り>をした。
反物は少しでも切ると、一枚の着物を仕立てることが出来ない。
そこを敢えて<切り売り>し、しかも<定価>という仕組みを初めて作った。
これが江戸っ子に大人気となり、越後屋は薄利多売という商売を編み出した。
明治維新と共に着物は廃れるが、その真髄を受け継いだのが「三越」。
そしてもともとは両替商を営んでいたが、明治政府の依頼で銀行を開くことになる。
江戸の秀逸なリサイクル文化で、唯一無くなったのが古着だった。
しかも誠実な商売方法で古い商いを淘汰していった越後屋。
それが後の「三越」。
今は伊勢丹と合併し、かろうじてその名を残している。

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盛んだったのですね・・
三越の由来、勉強になりました。
いつも興味深いお話、ありがとうございます。
1枚目の絵は商いの様子、声まで聞こえてきそうですね。
寒くても下駄に素足・・・色々イメージがふくらみました。
では、またお邪魔させて頂きます。
<京の着たをれ>
<江戸の呑んたをれ>
勉強になりました☆彡
江戸記事、毎回、楽しく拝見させて頂いています。
新しい着物を着るのは武家屋敷の者か裕福な商人だけ。。
実は新しい着物を着たくとも着れない背景があった。
>当時、新品(おろしたて)には現代みたいな良いイメージが無かったとか。
着物に関しては、「袖を通していない」新しいものには厄が付いてるとの通念が有ったと聞きます。
武家、奉公人の居る商家の奥方は、奉公人に着物を下げ渡す時、わざわざ新品に一度袖を通し「厄を落としてから」奉公人にご褒美として下げ渡していて、そういう季節になれば、格式ある武家、公家、大店では、それが結構な大仕事だったと読んだ事があります。
想像するに、儒教辺りから来て、それを施政者が庶民の贅沢禁止の方便に使ったのかもしれませんが。