愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

店名がアルファベット

2021-08-21 | 日記

昼過ぎから出掛け、ホームセンター、ドラッグストア、安売り量販店、ガソリンスタンド、ケーキ屋と巡って帰って来た。ぼけ防止ついでに付けている手帳に、今日の行動記録を付けてみた。普段はカタカナで書くことが多いと思うが、何故か今日は店名をアルファベットで書き始めた。書いていくと、巡った店がすべてアルファベット表記だったことに驚いた。日本語をアルファベット表記にしているのではなく、どれも英語由来の名前や英語表記の頭文字を取ったものだ。

 普段は何となくカタカナの名称をイメージしていた店だが、思い出してみると看板には確かにアルファベットが書かれていた。手帳に書き終えると、すべてアルファベットの名称が矢印でつながれている。普段行き慣れた店を何気なく5か所も巡って、期せずして全てがアルファベット表記の店になっていたとは。カタカナ・アルファベットを含めて、もはや多くの英単語が既に「アルファベット表記」の単語として日本の日常生活に深く入り込んでいる事を感じる。

 かつて漢字を取り込んだ時に、日本語の漢字表記だけでなく「漢語」も取り入れて日本との一部としたように、今や多くの「英単語」がアルファベット表記の「日本語」になりつつある。特に名詞、そして英語表記の頭文字を取って省略したアルファベット数文字で表記されるものは、UNESCOやILOのような組織名に限らずAIDsなどの病名やDIYなどの生き方や考え方を表すものに及んでいる。

 つまり、もはやアルファベットはひらがな・カタカナ・漢字と並んで日本語の表記方法の一つになってしまっているという事。加えて、英語の動詞や形容詞も「ワークする」「メイクする」のように「~する」を付けて日本語化が始まっている。それを「WORKする」「MAKEする」と表記することにも違和感を感じなくなるだろう。そのうち日本人の英語教育が進めば、カタカナで書いて日本語発音で読むよりも、アルファベット表記を英語の発音で読む方が自然になるのかも。

 英語を英語の表現方法で(英文法通りに)利用することには極めて消極的な国民性なのに、欲しい所だけ「器用に」切り取って自分達の表現法(文法)にくっつけて使ってしまうことには極めて積極的な国民である。「奇麗な花弁や葉っぱをちぎっては自分の羽に刺して聞かざる鳥」の画像を何処かで見たようなきがするが、何となくその鳥の姿が日本人を表しているような気がして来た。

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一転の大雨

2021-08-20 | 日記

昨日、久々の青空を仰いだと思ったら、今日は一転して再びの大雨。ここではそれほどの豪雨とはならなかったものの、場所によっては川が氾濫危険水位を超えたというニュースもある。

 コロナ禍で飲み会やOnline会議などいろいろなことがサイバー化してしまった世の中、夏の青空や暑さの中での海水浴などまでがサイバーリアリティーになってしまいそう。「夏空に バーチャルかも、と 頬つねる」、昨日の夏空もひょっとしてバーチャル・リアリティーだったのかも知れない、と思いたくなる今年の夏だ。

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久々の青空

2021-08-19 | 日記

今日は久々に青空を見ることが出来た。快晴ではないが、空の隅の方にはいくつかの入道雲(積雲)の列が続き、夏の趣が戻って来た。予定では今夜からまた雨になりそうという事で、たった一日、というよりたった半日の夏の青空だったが、連日眺めていた灰色の雲の上に「確かに青い空があったのだ」と感じさせる晴天だった。

 この10日くらいの天気図を見ていると、日本の緯度の範囲はもう熱帯モンスーン気候に変わりつつあるような思いがして来る。北の寒気と南からの暖気の出会う場所が北へずれたのだろうか?、ずっと雨雲が掛かり続けていて「まるで雨季になったみたい」だ。いつもは暑さの中で太陽の光から逃げ回る夏だが、この真夏に太陽の光が恋しいと思うなんて、まったく不思議な気分にさせられる夏である。

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感染症の分類

2021-08-18 | 日記

最近、新型コロナ感染症を感染症分類の2類(相当)とするか5類とするかという議論を聞くことが増えている。「病気の危険性」によって分類されるはずの感染症の分類を、医療事情や保健所の忙しさに基づいて変更すべきだというのだが、意味がよく分からない。

 耳にする限りでは、「保健所や行政の管理が強い2類から、その必要性の低い5類に指定変更すれば新型コロナ患者の医療へのアクセスが容易になる」という意見と、「5類に下げれば保健所の業務が減少して、保健所の逼迫を緩和できる」という意見のようだ。未だ最終的には分類が確定していない「新型コロナウイルス」ではあるが、その病原性の強さや感染症としての危険性から「2類相当」としているウイルスを「その病原性・危険性」に変化を認めないままランクダウンすることに「合理性」があるとは思えない。感染が減少し保健所や医療の逼迫が緩和されれば「再び2類に戻す」というわけにも行かないだろう。

 仮に1つの感染症の分類を「感染が広がり、行政や医療の手が回らなくなくなった」という理由で5類に変更して良いのなら、それは他の指定感染症にも同様に当てはめるのだろうか?。医療や保健所が逼迫すれば、エボラや結核も同様に分類変更によって対応可能と考えるだろうか?。そうでないとすれば、新型コロナウイルスだけ「ウイルスの危険性とは別な理由で変更しても良い」と考えるのは何故だろうか?。「緊急時ゆえに特例として分類を変更」とか「5類に変更しても国費治療とする特例措置」というよりも、分類を変更せず「行政や保健所による管理」についての特例措置を行うのが筋ではないだろうか、と思う。

 感染症をどこに分類しようが、「保健所が関わる」という意味が「患者は医者に行くな」という事じゃないはず。例えば1や2に分類されるペストや結核の患者も、最初は一般病院での診断を経て「保健所に発生が報告される」という流れしかない。感染が拡大したからと言って、保健所職員が医師の診断抜きに検査や医療の必要性を判断するなど有り得ないはず。日本の現状では、それが起きている事こそが大問題なのだ。それとも「2類の指定感染症は保健所職員が電話の聞き取りで処置を判断する」とでもなっているのだろうか?。むしろ、1類や2類という感染症への指定は、「社会に拡大しない環境の中で、患者が医療にアクセスできる場を作ること」を行政の責任として課しているのではないのか。医療逼迫や保健所のパンク状態に続いて、政府の業務も逼迫したから感染症に関する「行政の責任」をも緩和してしまおうという気持ちにはならない。

 病原性・危険性は変わらないとしながら「法的対応だけをランクダウン」すれば、市中の内科系医院・病院にも新型コロナ患者がいると受け止めた人々が病院に行かなくなるだろう。それを良しとするのなら、昨年作った「新型コロナ措置法?」で「必要な数の医院・病院を新型コロナ診療医院・病院として指定」できるのでは無かったか?。新型コロナの経験が無い医師や医院・病院がどこまで治療できるか分からないが、少なくとも解熱剤・抗炎症薬の投与と症状の観察はできるはず。分類を変更してもしなくても、医師や病院の能力は急に変わるわけじゃない。分類指定を変えれば状況が改善するというのは、「妙手で状況の一挙改善ができるという焦り」としか思えない。むしろ法律に沿って、できることの実現に努力を重ねることが解決を早める道だと考える。

 「新型コロナに対処しよう」という医師・医院・病院は、既に2類のままでも「診察し、検査し、薬を処方して保健所に連絡する」という診療を行っていると感じている。「新型コロナ」も発生から1年半以上経ち、政府も遠くないうちに「○〇相当」ではなく明確な位置付けを迫られるだろう。その分類がどうなるにせよ、1類・2類の感染症の全てが消えるわけじゃ無い。その分類の危険な感染症では「今後、感染拡大が起きない」という保証もない。いずれにせよ、危険性の高い感染が急拡大した時に、保健所や行政・政府が「どのようにして社会への感染拡大を避けつつ、患者に医療を届けるのか」というシステム構築の案を持っていなければならないのだが・・・。結局、この国では何につけても「社会システムの構築能力が極めて低い」と受け止めざるを得ないのだろう。

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水溜りの中の高校野球

2021-08-17 | 日記

大雨の中の高校野球中継を見ていた。7回も大雨の中での点の取り合いがあり、7回裏に点を取られ離された学校が8回表に無死1・2塁のチャンスを迎えたところでの試合中断。何となく、納得がいかないままで・・・、やがてそのまま試合終了となった。敗けた側が無死1・2塁のチャンスを迎えたところだっただけに、試合中断のタイミングに疑問が残ったのだ。球場全体が雨で白く霞む中で制球を乱す投手を見ていると、かつて作新学院の怪童・江川投手も大雨の中の押し出しフォアボールで甲子園最後の試合を終えるしかなかったことが頭をよぎる。

 どしゃ降りの中の野球というのが通常の野球とは全く違ったものになることは、外野に抜ける勢いのゴロが水溜りで勢いを失い芝に達する前で止まってしまったことでよく分かる。「まともな野球の試合にはならない」ことや「打者の手が滑り、振ったバットが遠くまで飛んで行った」ことによる危険性も分からないではない。しかし、その表の攻撃でも大雨のためにヒットとなったと思われる打球もあり、2点を取られていた。だが、大雨が予想される中で試合を始めた以上、当然そこには雨の中での普段とは異なるプレーが出て来る可能性は誰の頭の中にあったはずである。

 7回裏に外野手の頭を超えた2塁打も、晴れた条件ならばおそらく追い付かれ捕球されていたと推測する。あの大雨の中で投手の投げる球も良く見えなかったと思えるし、打球の勢いや方向がどこまでちゃんと見えたかどうかも疑わしい。その条件でも試合を続行していたのに、なぜ7回の終了時ではなくわざわさ2人の打者が塁に出るまで試合を続行したのか?納得できる説明は難しい。

 もちろん試合終了とする前には両チームへの説明や了解もあったのだろうと思うが、基本的に審判団の判断に委ねられている印象が強い。内野全体が水溜りとなるような条件下で、試合をどこまで進めるのかが審判次第では、納得できない気持ちが残ることは否めない。「高校野球は勝ち負けが全てじゃない」という人も居ると思うが、野球が「勝敗」を争うゲームである以上、そこにこそ野球の本質があるのだと思う。「高校野球・学生野球だからこそ、素直に人生に一回の一試合の勝敗を大事にして欲しい」と考える。ルールや実際の判断の詳細は分からないが、もっと一般的に分かりやすい「雨天コールドの基準」があっても良いのじゃないかと感じた。

 今や雨雲レーダーで雨が強まるのか弱まるのか、いつまで続くのかがかなり予測できる時代、途中終了までの条件設定をその予測に従って最初から決めておけば、両チームも納得でき易いのじゃないかと思う。その上で、試合の成行きとは全く別の客観的基準を定めるのも良いのでは、試合開始後の積算雨量とか、グランドのどこかに溜まる雨水の量とか。加えて、新たな回を始めたら(突然の雷は別として)どんな条件であろうがその表裏までは行うとか、途中で打ち切るならば回の最初に戻して表に入った得点も無効とするなどの取り決めがあっても良いかもしれない。

 高校野球には限らないが、全チームやテレビ観戦のファンがあらかじめ了解している一定の基準があれば、雨天コールドによる勝敗決定にもやもやとした気分はもう少し割り切れると思うのだが。

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