愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

秘境の、山奥の一軒家

2022-11-29 | 日記
山奥の一軒家、あるいは県境・秘境の一軒家を訪ねる番組が幾つかある。そこで暮らしているのは多くの場合が高齢者で、「昔はもっと何家族か住んでいて」という話が出て来る。番組で昔のその集落の写真映像が紹介されることもある。それを見ると、半世紀前・高度経済成長の初期までは日本の山村には「ほぼ自立して生きて行ける集落」が数多く存在していたことが分かる。
 現在の「山奥の一軒家」で暮らしているのは、その頃に家庭を持ち、その集落で子供を育て終えた「最後の住人」なのだ。半世紀前にはそこで「ほぼ自活できていた村」が消えて行ったのは、経済成長によってもたらされた、そしてある意味では「強制された」生活方法の変化だったのだろう。別の言い方をすれば、「文明化」「豊かさ」だったと言えるかも知れない。それが山村での生活を変え、もはや「自立できない」所に追い込んだと言えるかも知れない。
 もちろん、「山村での生活」を捨てたことで「より便利に、より豊かに」生活できるようになった面が多いことを認めざるを得ない。しかし、その便利さや豊かさというのが、現在では「山奥の村や秘境の村」だけではなく、「地方都市」からも「人口を大都市に吸い上げる」ことに繋がっていることを深刻に受け止めなければならないだろう。一方で、大都市は「過密に喘いでいる」ようにも見える皮肉を見過ごせない。
 山奥の集落が「自立できていた頃の暮らし」に戻れと言うわけでは無いが、一方で「地産地消」とか「地方の自立」などと「都会の人々の口から」聞く時代になって、かつての「山奥の自立した集落の生活」から現在に「取り戻さなければならないもの」を丁寧に探さなければいけないと思わされる。しかし、それは直ぐにおいそれと見つかるものでは無いような気がする。
 もしも、「地方の町や村」が地産地消で完全自立を目指したら、都会に送られる食料や資源はどこから調達するつもりなのか、都会の人々はどれだけ真面目に考えているだろうか。都市の生活は、「地方と呼ばれる」山村・農村・漁村での「生産性」に依存している。
 今は「外国から輸入する」と言えるのかもしれない。だが日本経済の国際競争力が減退すれば、それこそ日本自体が「地産地消」で生きるしかなくなる。同じ国という「運命共同体」を作っている以上、かつての「秘境の村々」と大都市の間に対等な交流が成立しなければ、結局は地方の村も待ちも地方都市も減退の一途を辿るしかない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする