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<日本地理>、<日本歴史>、<一般常識>受験者にハロー注意報

2018年08月11日 16時02分15秒 | ●2018年度第1次筆記試験受験予定の皆さんへ

<日本地理>、<日本歴史>、<一般常識>受験者にハロー注意報

日本における「世界遺産」は、<日本地理>、<日本歴史>、<一般常識>の各科目で出題される重要テーマですが、2017年7月に登録された『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』と2018年7月に登録された『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』は、当然のことながら、本年度に大いに出題が予想されます。

下記は、6月17日に開催した<一般常識>セミナーの追加資料、動画として、ご提供したものですが、<日本地理>、<日本歴史>の受験者の皆さんも、是非、資料を印刷して動画をご覧ください。

本年、『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』が出題されなかったら、私は切腹する覚悟です!

●資料(キレイに印刷できます)
http://hello.ac/2018.6.17.tuika.pdf

●動画
https://youtu.be/8ezEeIrRimQ

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「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群(2017年7月に世界遺産に登録)
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●ウィキペディアの説明
宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱(みはしら)の女神の総称である。記紀(古事記、日本書紀のこと)に於いてアマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。
※神は柱に降りて来ると考えられるので、神のことを柱で数えます。三柱とは、三つの神様のこと。

●宗像三女神の別称は「道主貴」
宗像三女神は、「道主貴(みちぬしのむち)」という別称を持っています。
「貴(むち)」という尊称は、最も高貴な神にのみ贈られるもので、「貴」が付く別称を持つのは、宗像三女神と、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち/天照大御神)、出雲大社の大己貴(おおなむち/大国主命)のみとなっています。このことから、宗像大社が、伊勢神宮や出雲大社と並んで、古くから、皇室や人々から厚く信仰されていたことがわかります。

●誓約(うけい)とは
誓約(うけい)とは、お互いに譲れないことがあった時に、どちらが正しいかを占うことで、賭けに勝った方が正しいことになります。
アマテラスとスサノオは、生んだ神の性別でどちらが正しいかを占うことにしました。アマテラスはスサノオの剣を受け取ると、バキボキと素手で3 つに折りにし、井戸水で清め、口に含んでバリボリと噛み砕いた。そして『ふーっ』と吹き出すと、霧のような吐息の中から三人の女神が生まれてきました。これが、宗像三女神と呼ばれる航海の神々です。

●「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議の説明(1)
日本列島と朝鮮半島を結ぶ海域に荘厳な姿を現す沖ノ島。人々は古来、その島の神を敬い、畏れ、航海安全の祈りを捧げてきました。国宝に指定された神への奉献品はおよそ八万点。
立ち入りさえも許さない厳格な禁忌(きんき)は、五百年間にも及ぶ古代祭祀(さいし)の跡を千年以上手つかずで守り伝えてきました。
沖ノ島への信仰を起源とする宗像三女神(むなかたさんじょしん)への信仰が受け継がれてきた沖ノ島、大島、九州本土の宗像大社三宮(むなかたたいしゃ)、遥か彼方に沖ノ島を望む大島の沖津宮遙拝所(おきつみやようはいじょ)、信仰の伝統を築いた人々が眠る新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)。

●「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議の説明(2)
世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群とは?
九州本土から約60㎞離れた沖ノ島と、大島および九州本土に位置するその関連遺産群は、古代から現在まで発展し継承されてきた、神聖な島を崇拝する文化的伝統の顕著な物証です。
沖ノ島には、日本列島、朝鮮半島および中国大陸の諸国間の活発な交流に伴い、4世紀後半から9世紀末まで続いた、航海安全に関わる古代祭祀遺跡が残されています。
古代豪族の宗像氏は、沖ノ島に宿る神への信仰から、宗像三女神信仰を育みました。
沖ノ島は三女神をまつる宗像大社の一部として、島にまつわる禁忌や遥拝の伝統とともに、今日まで神聖な存在として継承されてきました。

●「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議の説明(3)
『古事記』『日本書紀』によれば、三女神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と素戔嗚尊(すさのおのみこ
と)の誓約(うけい)のもとに誕生し、天照大神の神勅(しんちょく)によって、大陸との交通の要路にあたる「海北道中(かいほくどうちゅう)」(宗像より朝鮮半島に向かう古代海路)に降臨し、以降、国家の守護神として崇敬されています。
また、「日本書紀」には、宗像三女神が「道主貴(みちぬしのむち)」、すなわち国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けていたことが記されています。「貴」とは最も高貴な神に贈られる尊称です。
道主貴(※宗像三女神)以外には、伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち)(※天照大神)、出雲大社の大己貴(おおなむち)(※大国主命)のみですので、宗像三女神が皇室をはじめ人々からいかに篤い崇敬を受けられていたかがうかがえます。

●宗像三女神
宗像大社 沖津宮(おきつみや・おきつぐう)(沖ノ島):(長女神)田心姫神(たごりひめのかみ)
宗像大社 中津宮(なかつみや・なかつぐう)(大島):(次女神)湍津姫神(たぎつひめのかみ)
宗像大社 辺津宮(へつみや・へつぐう)(九州本土):(三女神)市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)

日本の八百万の神々の中でも唯一の三姉妹の女神で、いずれも美人として知られています。
田心姫は「多紀理姫(たぎりひめ)」、湍津姫は「多岐都姫(たぎつひめ)」ともいい、これらは「潮流が速く激しい様子」を表す言葉です。また、「市杵島」は、「神霊を斎(いつ)き祀る島」、つまり「神を祀り神に仕える島」という意味で、広島県・宮島の厳島神社の社名の由来になったとも言われています。

宗像三女神は、人々に恵みをもたらす一方で、危険な一面も持つ海の神秘的な力が神格化されたもので、神霊を鎮め、航海の安全や豊漁を祈願するために全国に祀られました。宗像三女神を祀る神社は、全国に7,000 余社、あるいは8,500 社あるとも言われ、これは日本で5 番目という多さです。
宗像大社は、これらの神社の総本社となっています。

●「宗像・沖ノ島と関連遺産群」世界遺産推進会議のホームページ
http://www.okinoshima-heritage.jp/

●宗像大社のホームページ
http://www.munakata-taisha.or.jp/index.html

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宗像大社(沖津宮・中津宮・辺津宮)の歴史
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●古墳時代(4 世紀(300 年代)後半)
倭(ヤマト王権)と百済(朝鮮半島)との交易が活発になり、沖ノ島の巨岩群の周辺で、航海の安全や交流の成就を祈る大規模な祭祀が行われるようになる。
巨岩の上で始まった祭祀は、初めは岩と岩とが重なる隙間に奉献品を並べて祈祷をするスタイルでしたが、5 世紀(400 年代中頃)には、大石を石で四角く囲って祭壇を造るようになりました。
さらに5 世紀後半になると、祭祀の会場は巨岩の上から屋根の庇(ひさし)のように突き出した巨岩の陰へと移りました。

●飛鳥時代(7 世紀(600 年代)後半)
沖ノ島で行われていた祭祀が、大島の御嶽山(みたけさん/224m)(御嶽山祭祀遺跡)や九州本土の宗像山(下高宮祭祀遺跡)でも営まれるようになる。
この頃になると、岩陰で行われていた沖ノ島の祭祀は、半分は露天に出て行われるようになります。やがて8 世紀(700 年代)に入ると、巨岩群から少し離れた平坦な露天で祭祀が行われるようになり、この形の祭祀は9 世紀(800 年代)末頃までの約200 年間続きました。

●奈良時代(8 世紀(700 年代)前半)
この頃までに、沖津宮・中津宮(御嶽山祭祀遺跡)・辺津宮(下高宮祭祀遺跡)に宗像三女神が祀られる。
それまで自然崇拝だった信仰に、宗像三女神という人格神への信仰も重なり、両者が併存しながら、後世の宗像地域の信仰の基盤となっていきました。(宗像三女神については後述)

●平安時代
・9 世紀(800 年代)
豪族・宗像氏が神主として神社に奉仕することになる。日本と唐や新羅との間の公的な交流がなくなり、沖津宮・中津宮・辺津宮でそれまで行われていた古代祭祀も下火になる。
遣唐使が廃止され、京の都では「国風文化」と呼ばれる文化が花開いた頃、宗像地域の古代からの祭祀は一旦の終わりを告げます。
しかし、沖ノ島はその後も「神宿る島」として崇拝され、古代祭祀遺跡はほぼ手付かずの状態で現代に受け継がれました。

・12 世紀(1100 年代)
平安時代末期にあたる12 世紀頃までに、九州本土の下高宮祭祀遺跡がある丘陵の麓に、辺津宮の社殿が造営される。

●室町時代~安土桃山時代
・16 世紀(1500 年代)
16 世紀までに、大島の御嶽山祭祀遺跡がある御嶽山の麓に、中津宮の社殿が造営される。
中津宮の社殿は御嶽山山頂と参道で結ばれ、一体となっています。

・1578 年(天正六年)
前年に焼失した辺津宮本殿が、大宮司・宗像氏貞(うじさだ)により再建される。

・1590 年(天正十八年)
辺津宮拝殿が筑前領主・小早川隆景により再建される。
16 世紀に再建された辺津宮の本殿と拝殿は現在まで残り、共に国の重要文化財に指定されています。

●江戸時代
・17 世紀(1600 年代)半ば
この頃までに、沖ノ島の古代祭祀の祭場だった巨岩群の間に沖津宮の社殿が造営され、島全体が沖津宮の境内と定められる。

・1675 年(延宝三年)
第三代福岡藩主・黒田光之(みつゆき)により、地域にある宗像大社の末社が辺津宮の境内に集められ、祀られる。江戸時代には、福岡藩主・黒田氏により、辺津宮の社殿の造営や修理が度々行われました。

・18 世紀(1700 年代)半ば
この頃までに、大島の北岸に沖津宮遙拝所が設けられる。
遙拝所は他にもいくつか存在したようで、例えば江戸時代には、九州本土の江口浜に沖津宮と中津宮の遙拝所があり、福岡藩主が辺津宮を参拝した後は、ここから沖津宮と中津宮を遙拝したと伝わっています。

●明治時代
1907 年(明治四十年)
辺津宮の拝殿・本殿が重要文化財に指定される。

●昭和時代
・1933 年(昭和八年)
沖津宮遙拝所の現在の建物が完成する。

・戦後
第二次世界大戦後、荒廃していた宗像神社が、宗像市出身の実業家・出光佐三(いでみつさぞう)の寄進によって整備される。

・1963 年(昭和三八年)
宗像大社辺津宮で、日本で初めての車用交通安全お守りの授与が始まる。
<戦後の復興に尽力した出光佐三>

出光佐三は、出光興産の創業者で、宗像大社の復興のために結成された「宗像神社復興期成会」(現・宗像大社復興期成会)での初代会長として中心的な役割を果たした人物です。境内の整備だけでなく、神社史の編纂や古代祭祀遺跡の学術調査などについても尽力しました。
その功績が大きかったので、境内のどこかに名前を残させてほしいという申し出が神社側からあったものの、出光氏本人は「畏れ多いので」ということで断り続けたという話が伝わっています。

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「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本県)
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「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本)は、2018年7月にバーレーンで開かれる世界遺産委員会で正式に登録(文化遺産)が決まりました。
「キリシタン関連遺産」の登録が決まれば、国内の世界遺産は合計22件となります。
「キリシタン関連遺産」は現存する国内最古の教会の大浦天主堂(国宝、長崎市)や、キリスト教が禁じられた江戸時代に信仰を続けた信者が暮らした天草の崎津集落(熊本県天草市)など、計8市町の12件の資産で構成されます。
諮問機関は一部資産で対象地域の変更を求めたものの、「禁教期にも関わらず、ひそかに信仰を続けた長崎・天草の独特な伝統の証拠」と全体の価値を評価しました。

●「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」(鹿児島、沖縄)
なお、世界自然遺産をめさしていた「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」(鹿児島、沖縄)については、内容見直しを求める「延期」を勧告されました。
「奄美」の対象地域は計11市町村にまたがる琉球列島4島の約3万8千ヘクタール。亜熱帯照葉樹林が広がり、アマミノクロウサギ、イリオモテヤマネコ(ともに、特別天然記念物)などの希少生物が生息。政府は「島が大陸から分離する中で生物が独自の進化を遂げ、生物多様性の保全上、重要な地域」と強調していました。

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「信仰の継続にかかわる潜伏キリシタンの伝統」
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(Ⅰ)信仰の継続にかかわる伝統のはじまり
1549 年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本に伝えられ、その後に続いて来日した宣教師たちの活動や、南蛮貿易の利益を求めて改宗したキリシタン大名の保護によって全国に広まった。しかし、豊臣秀吉の伴天連追放令(ばてれんついほうれい)に続く江戸幕府の禁教令により、すべての教会堂は破棄され、宣教師は国外へ追放された。

1637 年、禁教が深まる中、圧政をきっかけにキリシタンが立ち上がり「原城跡(はらじょうあと)」に立てこもった「島原・天草一揆」に衝撃を受けた幕府は、宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船を追放し、海禁体制(いわゆる「鎖国」)を確立した。
1644 年には最後の宣教師が殉教。残されたキリシタンは、民衆レベルの共同体を維持しながらひそかに信仰を続けたが(彼らを「潜伏キリシタン」と呼ぶ)、これらの共同体は17 世紀後半に起こった大規模なキリシタン摘発事件によって順次崩壊し、信徒の多くが棄教(ききょう)、殉教した。

(Ⅱ)信仰の継続にかかわる伝統形成の段階
日本各地の潜伏キリシタンは途絶えていったが、キリスト教の伝来期に最も集中的に宣教が行われた長崎と天草地方においては、18 世紀以降も共同体がひそかに維持され、次第に日本独自の信仰のかたちがはぐくまれていった。

信仰を装いながら続けていくために、山や島などを聖地や殉教地として拝んだ「平戸の聖地と集落(春日かすが集落と安満岳(やすまんだけ)、中江ノ島(なかえのしま)」や、生活・生業に根ざした身近なものを信心具しんじんぐとして代用した「天草の﨑津集落」、聖画像をひそかに拝み、教理書や教会暦をよりどころとした「外海の出津集落」、神社に自分たちの信仰対象を重ねた「外海の大野集落」など、様々な信仰形態がそれぞれの集落ではぐくまれた。

(Ⅲ)信仰の継続にかかわる伝統の維持、拡大の段階
18 世紀の終わりになると、外海地域の人口が増加し、五島列島などへ開拓移住が行われた。開拓移住者の中には潜伏キリシタンが多く含まれており、移住にあたっては、藩の再開発地(黒島の集落)や未開発地(久賀島の集落)、神道の聖地(野崎島の集落跡)、病人の療養地(頭ヶ島の集落)など、既存の社会や宗教との折り合いのつけ方を考慮して移住先が選ばれた。
このような独自の信仰対象や、移住にあたっての選地によって培われた独自の信仰のかたちにより、2 世紀にわたって潜伏キリシタンの信仰が継承された。

(Ⅳ)信仰の継続にかかわる伝統が変容し、終わりを迎えた段階
1854 年の開国からまもなく長崎に来た宣教師たちは、「大浦天主堂」を建設し、居留地の西洋人のために宣教活動を行った。
1865 年、大浦天主堂の宣教師と浦上村の潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、多くの信徒たちが信仰を表明したため、再び弾圧が強化され、摘発事件が相次いだ。やがて弾圧に対する西洋諸国の強い抗議が相次ぎ、1873 年、明治政府は禁教の高札こうさつを取り除き、キリスト教は解禁された。

潜伏キリシタンは、宣教師の指導下に入ってカトリックへ復帰する者、引き続き禁教期の信仰形態を続ける者、神道や仏教へと改宗する者へとそれぞれ分かれた。カトリックに復帰した集落では新たに素朴な教会堂が建てられていったが、「奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)」に建てられた江上天主堂は、移住先の風土に適応した在来の技術のあり方を示すとともに、潜伏キリシタンの伝統が終わりを迎えたことを象徴的にあらわしている。

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「潜伏キリシタン受難の歴史」
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1498 ヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達する
1511 ポルトガルがマラッカを占領する
1549 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝える
1550 ザビエルが平戸で布教する
1562 平戸の春日かすが集落に「慈悲じひの組くみ」が設立される
1563 肥前大村の領主である大村純忠が横瀬浦で洗礼を受ける(日本初のキリシタン大名)大村領内で集団改宗が行われる
1580 島原半島南部の領主である有馬晴信が日野江城で洗礼を受ける
1587 豊臣秀吉が伴天連追放令を発布する
1597 宣教師、信徒ら26 名が長崎の西坂で処刑される(日本二十六聖人の殉教)
1603 江戸幕府が成立する
1604 有馬晴信が原城を完成させる
1614 江戸幕府が全国にキリスト教禁教令を発布する
1622 元和の大殉教が起こる
1627 「絵踏」が開始される
1635 寺請制が全国で実施される
1637 島原・天草一揆が起こる
1641 オランダ東インド会社の商館が平戸から長崎の出島に移転する→海禁体制が確立する(いわゆる鎖国)→潜伏キリシタン集落の分布は長崎と天草地方に限られていく
1642 五人組制によるキリシタン禁制が開始される
1644 最後の神父が殉教し、国内に神父が不在となる
1657 大村で郡崩れが起こる
1650~80 年代 豊後崩れが起こる
1660 年代 濃尾崩れが起こる
1790 年代 浦上一番崩れが起こる
1797 大村領外海から五島列島へ移住を開始する(全体で約3,000 人)
1805 天草崩れが起こる
1838 ローマ教皇庁が日本での宣教をパリ外国宣教会に委託する
1842~56 浦上二番崩れ、浦上三番崩れが起こる。パリ外国宣教会の宣教師が来日する
1859 長崎が開港される
1862 日本二十六聖人が列聖される
1864 居留地の西洋人のために大浦天主堂が建設される
1865 浦上村の潜伏キリシタンが信仰を告白する(「信徒発見」)
1867 浦上四番崩れが起こる
1868 明治政府が発足する。五島崩れが起こる
1873 禁教の高札が撤廃される(キリスト教の黙認)→以後、カトリックに復帰した各地の集落に教会堂が建設される
1889 大日本帝国憲法が成立する(信教の自由を明記する)
1918 江上天主堂が完成する

※崩れ(くずれ)は、1 つの地域で大勢のキリシタンの存在が発覚する事件のことをいう。
片岡弥吉は、崩れを「キリシタン検挙事件、大量検挙によって潜伏組織が崩壊に瀕したことをこの名で呼ぶ」としているが、江戸時代後期の「崩れ」は崩壊に瀕した状況とまではいいきれないことから、安高啓明は「潜伏キリシタンが検挙され、取り調べをうけることになった状況」と定義している。

以上

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